第73話 神と天使、そして悪魔 5
その瞬間、それまで耳が痛くなるほどに静かだった灰色の花園が突如として動き出した。
地鳴りが響き、灰色の花や木々が落ち着きなく騒ぎ、地面がグラグラと立っているのも覚束ないほどに揺れる。
「一体、何だっ!?」
「これは?!」
ヒロが消えてから互いに睨みあいの膠着状態が続いていた俺達天使と、白き神を抱えた人間たちも花園の明らかな異常さに色めき立つ。
人間たちにも動揺が見えたことで、すぐに思い浮かんだこの異常事態がエンシッダの作戦であるという可能性が消える。
・・・いや、あの男のことだ。味方すら騙しているという可能性もあるか。
「エヴァンシェッド様、これはっ?!」
俺に従ってここまできた天空騎士団たちも浮足立つ。
「落ちつ―――」
とりあえず、まだ敵である人間たちが目の前にいるのだ。
この混乱の中で彼らに逃げられては、エンシッダのことだから恐らくここにある聖櫃を狙ってくるだろうと思って待ち伏せていた甲斐がなくなる。
だから、まずは天使たちを落ち着かせようとしたのだが、俺が最後までそのための言葉を発するより先に恐怖に染まった悲鳴が上がった。
「うわぁあぁぁぁっ!!!」
「どうしたっ!?」
隊長格である天使が硬い声で悲鳴に応え、俺もその方へ素早く視線を向けて絶句した。
「アレは・・・っ!?」
―――それは、灰色
なんと人間ほどの大きさのアメーバ状の灰色の塊が、天使を飲み込んでいたのだ。
そして、そこから出られない天使が、まるで水中に閉じ込められているかのように苦悶の表情で、手足をばたつかせてもがいている。
ゾワリ・・・と背筋を駆け上がる悪寒に俺は足が竦み、真っ白になった頭の中では、目の前の光景とだぶるように惨たらしい映像が映った。
そう、俺はこの光景を知っている。
これは、これは・・・
ドンドンと血液が流れる音が鼓膜を叩き、頭は沸騰しているように熱くなり、それとは反対に体は過る不安に怖いくらいに冷たくなった。
「―――まっ!エヴァンシェッド様!!」
「っ!?」
そんな茫然自失の俺に、天空騎士団の天使が大声を張り上げる。
「早く飛んでお逃げください!!ここは何かがおかしい!!!」
その声に我を取り戻せば、天使を飲み込む灰色の塊がいつのまにか俺達を囲んでおり、天使たちも一人どころではない。幾人もが既に飲み込まれている。
一方人間たちは今はまだ飲み込まれていないものの、彼らにもまた灰色の塊が間近に迫っている。
飛び上がる翼のない彼らは、完全に逃げ道を塞がれている。
「白き神は、我々が後から人間たちから取り返しておきますので、エヴァンシェッド様はお早く・・・っ!」
「いや、問題ない。」
「えっ!?」
直面したことのない状況に混乱する天空騎士団を尻目に、自分を取り戻した俺は、掌に身の丈以上の長さのある全知の杓杖を出現させた。
「白き力よ、我が声にこたえよ。」
声に全知の杓杖の頂点に鎮座する白き宝石が眩い光を放ち、俺はそれを灰色の空に打ち上げる。
瞬間、それに引き寄せられるように天使たちに襲いかかっていた灰色の塊が、飲み込んでいた天使たちを捨ててまでも上空の白い光に吸いついてゆき、瞬く間に見るのも気分が悪いほど大きくなった。
そして、一体どれだけ塊があるのだろう。その肥大はとどまることを知らずに続いていく。
俺はちらりとそれに目をやると、灰色から解放されても恐怖と混乱に陥っている天使たちに声をかけた。
「これで、しばらくはこちらを襲ってくることはない。お前たちは白き神を連れて、急ぎここを離れろ。」
「は・・・はいっ!」
それから、すぐにこちらも未だ状況を掴めていないような人間たちと、それとは対照的に蒼白な顔をした白き神たちに俺は近寄った。
「それ以上、近寄るなっ!!」
だが、さすが人間とは言え、エンシッダに戦士として教育されているだろうことだけはある。
どんなに混乱していようが自分のすべきことは分かっているらしく、近づく俺にどうみてもまだ子供であろう戦士が牙をむく。
しかし、俺はそんな風に向けれる敵意を全く無視し、俺に対して縋るような表情をする白き神だけに視線を落とした。
「我が主よ。貴女が何のためにエンシッダに協力しているか、私には分かりません。」
―――いや、本当は知っている。
「私は・・・っ。」
追いすがる声に、俺はすぐさま背を向ける。
知っていると認めた瞬間に、壊れるものがある。だから、俺にはそれを分からぬふりをする術しか持たない。
ただ、これ以上は白き神をこの場にいさせるわけにもいかず、俺は白き神を急かすように言葉を重ねた。
「ともかく、すぐにここを離れてください。それが御身のためです。あれは、異端なる灰色の魔力。飲み込まれたら最後、神とて五体満足ではいられないもの。天空騎士団とお逃げ下さい。」
「イヌア・ニルヴァーナ様はお前とは行かないっ!ロッソ!!」
背中を向けたままに言う俺に、子供が回り込んで吠えた。
その声に従うように、子供の後ろにいた彼より大きな体をした獣が牙をむき出しにして無防備に背を向けた俺に飛びかかる。
「ケルヴェロッカ、やめてっ!!」
高い声とともに背中に柔らかい感触と、俺に抱きついた細く白い腕。
襲い来るはずの獣の攻撃は俺を守るように抱きしめるその存在故に牙を失くし、勢いあまって俺を通り越した。
「ほら、見ただろう?」
俺は子供を見下ろした。
「白き神はお前たちとは行かない。俺の所に来るのさ。」
冷たく言い放ちながら自分の胴に回る腕に手を添えれば、ほぅと白き神の溜息が洩れるのを感じた。
子供が悔しそうに顔を歪める。
俺は白き神の腕をとり、今度こそ彼女を天空騎士団に引き渡そうとした。
「ヒロを何処にやったの?」
だが次いで発せられた声に、その動きを止められた。声の主は、それまで沈黙を守っていた人間の女。
俺は白き神に抱きつかれたままに、顔だけをその声に向けた。そこには、赤い光を湛えた瞳を持つ女がいた。
その赤い色が不思議と気に入らなかった。そして、その問いも俺の神経を逆撫でした。
『どけ。』
思い出すのは、俺の顔も見ずにそう言ったヒロ。この俺を前にしても、眉ひとつ動かさなかった彼の顔は全ての感情を失っていた。
まさに、死人のような。
『会いたかった。』
なのに、俺に背を向けてそう呟いた小さな声には、例えようもないほどに愛おしげな感情が見えた。
顔も見ていないのに声だけで、ヒロがそう告げた相手をどれだけ大事にしているか分かるそんな声。
どうにも、その声を聞いて意味の分からない不快感が募った。
それは、誰もいないはずなのにそう告げたヒロに対する不信感からか、それとも、俺の中で燻り続けているエヴァの嫉妬からなのか定かではない。
だが、ヒロにはそう簡単に死んでもらっては困るのだ。思いながら、抜けることのない指輪を白き神の腕に添えながら擦った。
―――ヒロが何処に行ったかなど、知りたいのはこちらの方だ。
俺は女の問いに心の中だけで苦々しく答えながらも、実際には一瞥をくれただけで、今度はすぐに白き神に向きなおった。
「白き神、私は行かなくてはなりません。」
「・・・何処に?」
「灰色の魔力をこのままにはしておけませんから。原因を突き止めて、これ以上に魔力が広がらないようにしなくては。」
俺の言葉に白き神が大きく首を横に振って、俺になおさら抱きついた。
「駄目ですっ!そんな危ないわ!!」
「心配ありません。これが私の役割ですから。」
俺の言葉に白き神の表情が強張り、そして、次の瞬間に強い敵意の色を露にする。
「貴方は、千年経ってもあの女の犯した罪を償い続けようというのですか?」
言い募る白き神は、放さないとばかりに腕の力を強めた。
俺はその腕にそっと手を添えて、それからこの異常な事態には不似合いなほどに微笑んで見せた。
それに反応して、白き神は頬を赤らめる。同時にその瞳に映る自分の頬笑みに、俺は反吐が出た。
だが、それを表に出すようなヘマはしない。
俺はその微笑みのままに白き神から身を放し、するりと力抜けた腕から解放される。
「貴女はすぐにここを離れて下さい。」
そして、言い捨てて俺は先に進むべく歩きだした。
本当は天空騎士団に白き神を引き渡したかったが、それをして人間たちと戯れている余裕が今はない。
背後では白き神の追いすがる気配もしたが、それはすぐに人間たちによって引き留めれた。彼らとてその実は知らずとも、あの灰色の魔力の恐ろしさを肌で感じ、ここから離れた方が良いことを分かっているのだろう。
これ以上は聖櫃を求めず、白き神と逃げる様子が視界の端に見えた。
魔力を持つ、彼らだからあれの恐ろしさを敏感に感じているに違いない。
そう、人間のくせに魔力を纏っている彼ら。
それは、世界の理に反した存在だ。
だからこそ、先日殺されたあのエンディミアンが造りし魔人も魔力を持っていたが、理に反した代償として彼らは人間としての存在意義を失った。
だが、彼らはどうだ?
人間としての存在も持ちながらにして、彼らは天使と同等か、それ以上の魔力を俺の前に示した。
魔人とは、明らかに一線を画している。
そう、強いていうなれば、彼らは世界の円卓で見たあの改良された魔人と良く似ているのではないだろうか?
そう思い至り、嫌な予感が脳裡を過る。
―――まさか、あのエンディミアンの研究は完全に完成していたというのか?
先日、背後にいる女によって殺されてくれたエンディミアンのおかげで完全に魔人の研究も頓挫した。そして、尊き血の天使の思惑も全て白き議会で潰してやったというのに、彼らの存在は今後の行き先に大きな影を落としそうだ。
そう思うと、非常に気が重い。
だが、今はそれも後回しにするしかない。
白き魔力に無尽蔵に群がる灰色の塊を見ながら、俺は顔を顰める。
そう、全てはこの異端の存在をどうにかしてからだ。
俺は様々に散る思考を中断させて、不安に押しつぶされそうな自分を奮い立たせるように、全知の杓杖を強く握りしめた。
混迷を極める灰色の花園編は、もうしばらく続きそうです。更にエヴァンシェッド視点で今回はお送りしましたが、混迷ついでに、しばらくはころころと色々な人々の視点に変わる予定です。落ち着かない話になるかもしれませんが、よろしくお願いします。