第五十八話 女神が私に微笑んだ 其の二
【警告】残酷表現があります。苦手な方はご注意ください。
ティアの魔法により、上空にあった銀月の都から、天使に襲撃されている罪人の巡礼地に降り立った瞬間に感じたのは、むせるような煙たさと、吸い込んだ空気の熱さ、視界に飛び込んだ炎の赤、そして耳だけでなく胸に響く人々の悲鳴。絶叫。断末魔。
「助けてっ!」
「痛い・・よぉ。」
「天使様、どうしてですかっ?!」
「死にたくないっ。」
「苦しいっ!!」
「お母さん!」
「・・・神よ。」
罪人の巡礼地はもはやアーシアンの希望の地ではなく、地獄の様相を呈していた。
それは悪夢にすら見ないような景色。
燃える街、泣き叫ぶ人間、そして笑みすら浮かべてそれを追いかける天使。いや、それはもう悪魔か死神だ。
翼は血に濡れ、そして燃える炎の光と相まって全身が返り血で赤く染まったような姿は血に飢えた獣かもしれない。
そこに人間の誰もが想像している神に愛された天使の姿はなかった。
いや、これこそ人間の命の上に楽園を築いた天使たちの本当の姿なのかもしれない。
だが、どうしてだろう?
この瞬間まで直接目にすることのなかった真実の天使の姿であるはずなのに、何故だか私はこの惨状に見覚えがあるような気がしてならないのだ。
頭の中で、目の前の地獄とよく似た映像が何度も何度も繰り返される。
そして、いつの間にか人間を追い回している天使が私になり、私が剣を突き刺している相手が彼女に・・・・。
気がつけば頭の中で目の前の現状と5年前の事件とが入れ替わり、私は混乱の極みに突き落とされた。
第五十八話 女神が私に微笑んだ 其の二
私たちはティアの魔法により、閑散とした銀月の都から一変して、炎に包まれた建物の中に移動していた。恐らく罪人の巡礼地の建物の一角だろう。
幸いに建物の中までに炎は回っていないようだが、窓からは勢いよく燃え上がる炎が見えて、赤い光が薄暗い建物の中を照らす。
その光のおかげで確認できた建物の中は、これといって何の変哲もない民家のようだ。しかし、天使が既にここに来ていたらしく室内は荒らされていた。
それを見回しながら、一つの物影に私の視線が止まる。
「想像以上に天使の攻勢は強いわね。これじゃ、炎を避けながら進むだけでも一苦労だわ。・・・何処に行くつもり?」
窓から天使が人間たちを追い回しているのが見える。
距離としては離れているので話し声や気配は気が付かれないと思うが、建物から外に出れば見つけられるに違いない。
それと分かっていても、私は外に出ようとしていた。
「街の人たちを助けに行く。止めるな。」
私たちはここに人命救助に来たわけではないと、ティアにはあらかじめ言われていた。
そのために、天使に気が付かれぬようにティアの魔法を使って秘密裏に罪人の巡礼地にこうして潜入した。
だが、私は先ほど目にとまった光景を瞼の裏に焼き付けるように閉じる。
それは、惨殺された三人の人間の死体。
それを見た瞬間に、自分がどうしてここに来たのかなど吹っ飛んだ。
恐らく、母親と子供二人。
母親は子供を守るように二人を抱きしめたまま、子供たちは母親の胸に抱かれたまま殺されていた。
薄暗い室内であるために詳しいことは分からないが、おそらく剣などの刃によって体を切り裂かれたのであろう。良く見れば、室内には血が飛び散り、三人の倒れている場所には血だまりができていた。(これだけの出血だ。すぐに匂いで分かりそうなものだったが、むせるような煙たさがそれを邪魔していたのだ。)
そして、きっと天使に襲われ恐怖のままに絶命したのであろう。その表情は、こちらが苦しくなるような痛々しいものだった。
これを直接目の当たりにして、どうして何もせずにいられる?
いてもたってもいられず、天使に飛びかかりたいと思うのは普通の感情ではないのか?
だが、ティアはきっと私の感情など分かっているだろうに、それを止める。
「折角天使に見つからずに街の中に入れたっていうのに、気持ちは分かるけど台無しにしないで。・・・それに、ほら。」
炎と黒煙の上がる窓から見える外を指さされると、銀月の都の大きなシルエットがだんだんと高度を下げてくるのが見えた。
「街の人たちは女神の十字軍たちが何とかしてくれるわ。」
確かにそうかもしれない。大勢の天使に私一人では、大したことができないことを頭では理解している。
だが、これはそういう理性で割り切れるものじゃないだろう?
「よくそんなことが言えるなっ!これを見て!目の前で人が助けを求めてるんだぞ?!」
天使にバレても構わないくらいの大声で私は叫んだ。
母子が死んでいるだけじゃない、建物の中にいても聞こえてくる呻きが、嘆きが、助けを求める声があるのだ。それなのに、私には何もできないなんてっ!
「聖櫃が天使の手に渡れば、より多くの人間が苦しむことになるのよっ?」
そんな頑なな私の態度にティアも頭に血が上ったらしく、天使が近くにいるのを気にしてか声を抑えてはいたが私を責めるように強い口調になる。
「目の前の人も守れないのに、より多くの人間を守れるわけないだろっ!?誰かを守るために、違う誰かを犠牲にするなんて、もう嫌なんだよっ!!」
胸をよぎるのは愛した女性の死に顔と、最期の言葉。
私は黒の剣を強く握りしめ、こんな所で押し問答してても埒が明かないとばかりに、ティアの静止を振り切って今度こそ外に飛び出そうとした。
だが、それを止める力強い力が腕を引っ張った。ティアかと思って、それを振り払おうとして後ろを振り向くと、そこにいたのは私の大声に驚いていた白き神を庇うようにしていたケルヴェロッカだった。
「放せ。子供。」
自分でも怖いくらいにどすの利いた低い声だと思った。
普通の子供なら怯えて手を放すだろうと思っていたが、そこは伊達に女神の十字軍最強の名を持つ子供。
怯えるどころか、いやに挑発的な視線を私に向けてきた。
「おっさん。子供じゃないんだから、我慢しろよ。」
揚げ足を取られたこともあり、思わずかっとなって本気でケルヴェロッカに手を振り上げた私だったが、それは空振りに終わった。
そのまま、勢いあまって床に倒れこむ私。
目の前には母子の死体。そして、床についた手にはまだ温かい、母子の血液がべっとりと付いた。
私はそれを握りしめた。
「・・・どうして止めるんだよっ!私は守りたい人を守りたいだけなのにっ!!」
多分、これは目の前の母子に対する言葉ではない。
自分でも、どうしてこんな事を口走ったのか分からない。
しかし、何故だかこの時の私は現在と5年前の私が混じっていたような感覚になっていたのだ。
だが、子供のくせに妙に大人びたケルヴェロッカの声が、私を現在に引き戻す。
「力がないからだよ。」
私はその言葉に、びくりと肩を揺らす。
「出てった所で、天使から全部の人間を守れるわけでも、天使を殺したところで死んだ人間を生き返える訳でもないことは、おっさんも分かってるんだろ?力のない人間は、結局何もできなんだ。」
・・・それは、過去に誰かに言われた言葉。
「でも、それを分かっていながら、無謀に戦いを挑むのは勇気でも何でもない。ただ、逃げているだけだ。」
ぐっと、血に濡れた拳を握りしめた。
言わずとも分かっている。今も昔も、私は逃げているだけだということも。
「だから俺は力を求めるよ。聖櫃さえあれば、全てを守れるだけじゃない。死んだ人間さえも甦らせる力を得られるんだ。」
「?」
私はケルヴェロッカを見上げた。
聖櫃に、そんな大それた力があるというのか?
そもそも、どうして聖櫃を求めるのか、そしてそれを得てどうするのかも私は知らされてはいない。(銀月の都でティアは意味ありげにその名を告げたくせに、それ以上は時間がないと問答無用でここに移動した)
それに、あれは人間にとって忌まわしきものはずだと、贖罪の街でアラシから聞いた話と自分の目で見たものを思い出す。
聖櫃とは、人間の命を吸い上げて天使の領域を楽園にしていたものだった・・・あれ?
そこで初めて気がつく、もしかしたら、この罪人の巡礼地にあった緑は、それによって得たものだったのか?
ここにあったはずの希望も、誰かの命を踏みにじった忌まわしき血に濡れた生命だった?
「聖櫃さえあれば、力が手に入る。おっさんが感じてるような悔しい思いもせずに済むさ。だから、今は堪えろよ。」
意味が分からない私にケルヴェロッカは言い募る。
聖櫃があれば、力を手に入れることができる?
その言葉に更に混乱する。
私の知っているそれと、ケルヴェロッカの言っているそれは違うというのだろうか?
そうこうと混乱していると、窓から見えていた天使がばたばたとこちらに近づいてくる。咄嗟に息を殺す私たち。
「人間の援軍だぞ!」
「応戦だっ!」
「灰色の花園には近づけさせるなっ!」
銀月の都の救援が街の中に入ってきたらしい、殺気だった天使たちがバタバタと近くから去っていく。
「彼らが陽動も引き受けてくれる。ケルヴェロッカの言うとおり、私たちは私たちのすべきことをしましょう。」
ティアが天使の気配がなくなるとそう言って、窓からその体を外へと滑りこませる。
それに従って白き神とケルヴェロッカも後に続く、私だけが室内に一人残って絶命した母子を見つめた。
その姿が、一瞬だけ私が愛した女性に変化して、そしてそれが消える。
「おっさん。」
そんな私をケルヴェロッカが呼ぶ。
「おっさんじゃない。ヒロだ。・・・今行く。」
分かっている。
結局力のない私は、力ある誰かの思うとおりに動かされる駒としてしか今はいられない。
その力に逆らうことも、ましてやそれを変える力もない。
だが、それと分かっていて声を上げたのは、多分目の前にちらつく君の、ユイアの姿があるからだ。
・・・私に何かを言いたいのか?
私が彼女を殺して5年という歳月が経とうとしている。
常に彼女に対する罪の意識だけは心の中に持ち続けている。だけれど、人間の記憶とは便利なもので、あの時のことも昔ほど多く私を苦しむことも少なくなった。
なのに、今になってどうして5年前の記憶が現状とダブるのだろう?
そんな風に騒ぐ胸の理由が分からないまま、私は一人黒の剣に語りかけてみるが、彼女は私に応えてくれることはなかった。
量は少なめ、スピード早めの更新です。
ヒロはどうやら罪人の巡礼地で胸騒ぎを覚えている様子。実は第三部は第一部や第二部より、大分長くなる予定ですが(全然話が進んでないのが原因なんですが)、この罪人の巡礼地での話は今後の話のキーにる予定です。お見逃しなく(笑)