第三十話 私は天使に喧嘩を売った 其の五
用心深いというか、小心者の私は、天使の領域から逃げるに当たり、何もかもが上手くいくとは最初から考えていなかった。
ただ一番厄介だと思っていたエヴァンシェッドを、案外簡単に黙らせることができたのはラッキーだった。
なにせ相手は天使一族の長だ。
その戦闘能力は未知数だし、エヴァンシェッドには隙がなかった。
しかし、私としてはどうしても彼に一言だけ言いたかった以上(実際は一言どころじゃ、すまなかったが)、こっそり出て行くわけにもいかず、エヴァンシェッドの出方次第では、彼を退けることが、最大の難関だと思っていたのだ。
だが、あの私に詰め寄ったときの彼だけは少し違っていた。
おかげで、エヴァンシェッドを難なく黙らせることができたが・・・、やはり少しばかり気になるのは、彼のいきなりの申し出だ。
彼が何を思って私に勝負など申し出てきたか、果たして本当に退屈しのぎなのか、それとも何か思惑があるのか分からない。
まあ、気になるのは確かだが、もう二度と会わない相手だ。
これ以上、考えても仕方ない。
そう思って、さっさとこんな場所からは逃げ出してやろうと思って踵を返す。
しかし、エヴァンシェッドを床に沈めたはいいが、新たなる問題発生。
私と倒れたエヴァンシェッドを怯えたような表情で見ているリリアナを前に、私は小さく溜息をついた。
第三十話 私は天使に喧嘩を売った 其の五
すれ違った私を追ってきたのか、いつからそこにいたか分からないが、エヴァンシェッドに気をとられていてリリアナに気が付かなかったとは、私もまだまだだ。
こちらを見て明らかに怯えているのが見て取れたが、それでも彼女は気丈に口を開く。
「ヒ・・ロ、エヴァンシェッド様は・・・。」
それでも彼女が聞いてくるのは、やはりこの床に沈む色ボケ天使のことで、私は思わず心の中で苦笑した。
「心配しなくても、気を失っているだけだ。いつからそこに?」
私が一歩近づくと、びくりと体が震える。
自分が彼女を怯えさせていると、少し申し訳ない思いがした。
エヴァンシェッドというよりは、ここでは彼女に非常に世話になったのだ。
それが奴の指示とはいえ、彼女に感謝する気持ちに嘘はなかったし、アーシアンの私にも優しく接してくれた彼女には好感を持っていたから余計だ。
「あ・・・、チルッダが倒れたあたり・・・から。」
といって、リリアナは愛人さんのほうに視線を向ける。
チルッダというのが、愛人の名前なのだろう。
「そうか、怖がらせてすまない。私はすぐにここを出て行くから、彼女とそこに倒れている色ボケ天使を頼む。最後まで面倒かけるな。」
叫ばれたりして、外にいる天空騎士団を呼ばれたら面倒だと思ったが、彼女はどうやら助けを呼んだり、叫びを上げるという所まで頭が働いていない様でほっとした。
これならば、騒ぎを起こさずに外に出れそうだ。
とりあえず、天近き城さえ無事に出れれば、後はエンディミアンにまぎれて、何とかなるだろう。
正直、エヴァンシェッドに喧嘩を売ったのものの、それは突発的で何の計画性もなく起こした行動だった。
故に、こうして外に気がつかれずにエヴァンシェッドを黙らせることができ、静かに脱出を謀れるという、今のこの状況は幸運が重なったとした言いようがない。
先のことは、どうなるかさっぱり見えない状況だが、それでも、ここでエヴァンシェッドに愛人のように囲われている毎日より、たとえ一寸先は闇であろうとも不浄の大地で旅を続けていたほうが、生きているという実感を得られるに違いない。
私は不浄の大地に帰るのだ。
だから、何の憂いもなく、私はリリアナに頭を一つ下げると、黒の剣一つだけを手に持って出て行こうとした。
「ま・・・待って。ほ、本当に出て行くの?」
しかし、私に怯えているはずのリリアナが腰を抜かしたまま、私を引き止めるのだ。
無視しても良かったが、どうして私を呼び止めたのか知りたくて、私は彼女を振り返った。
「話を聞いていたんだろ?ここは私の居場所じゃない。」
「そ・・んなの、いいじゃない!だって、エヴァンシェッド様があんなふうに人に接したりするの、私、はじめて見たの・・・だから・・・、ここにいてくれない?」
一瞬だけ、彼女が私を引き止めたことにドキリとしたが、それは所詮、エヴァンシェッドのためというわけだ。
ドキリとした、自分が間抜けである。
そんな思いがあったから、ちょっとした気恥ずかしさも手伝って私は思わず、棘棘しい言葉が口からついてでた。
「そりゃ、君たち恋人と私とじゃ、色ボケ天使の態度も違うだろう。」
そういうと、リリアナがはっとしたような顔になった。
気が付いていないとでも思っていたのだろうか?
他の愛人たちのように、私の前でエヴァンシェッドとのあからさまな接触はなかったが、一つ屋根の下で生活していれば、二人が単なる主従関係じゃなくて男女の仲なのは、何となく分かった。
リリアナが、どれくらいエヴァンシェッドを想っているかも、彼女の彼を見つめる瞳が全てを語っていた。
一見して私は色恋には無関係な朴念仁だと思われがちだが、男女の仲のことだって、全く知らないって訳じゃないのだ。(・・・経験は少ないけど。)
「好きな女性と、偶々現れた珍しいアーシアン。私とあなた方に対する態度の違いは、単にそういう違いに過ぎない。そんなことで、わざわざ黒の一族を引き止めないほうがいい。」
そう言って、私は倒れるエヴァンシェッドの胸元に黒の剣を近づけ、
「さもないと、今度こそ愛しの天使の首が飛ぶぞ。」
と、悪そうな笑みを浮かべた。
「や・・めて!」
さすれば、必死の表情で愛しい男のためにリリアナが声を上げる。
そうそう、それでいい。
彼女は怪我をして無害な私しか知らないが、本当の私は天使に対して本来は有害でなければならないのだ。
引き止めようなどと、考えるほうが愚かな話だ。
そう思いながら、リリアナに騒がれる前にここを出て行こうと思った瞬間だった。
「そこまでだ!大人しくしろ!!!」
野太い声が私の耳を震わせた。
「?!」
驚いた私が状況を把握する前に、武装した天使たちが離宮に雪崩れ込む。
気配を消していたのか、目算だけで、ざっと20人は下らない天空騎士団の武装した天使たちは、私が黒の剣を構える暇もなく、全員で私を取り囲むと一斉に武器を突きつけた。
私を中心に、剣や槍や斧の大輪の花が一輪咲く。
・・・おいおい、それは、やりすぎだろう。
そんなにしなくても、大人しく降参するっつーの。
状況は絶体絶命だが、意外と冷静なまま私は武装する天使たちを見回した。
全員が全員、断罪の牢獄で私を拷問していた天使たちと同じ、酷く汚いものでも見るような瞳で私を見ている。
「エヴァンシェッド様から離れろ!」
天使に近づけられた刃が、顔にひやりと当てられる。
私は促されるままに、エヴァンシェッドの胸元から黒の剣をどけ、倒れる彼からじりじりと離れた。
私の動きにつれて、私を中心とする天使の円陣も動く。
360度全てから、こうして武器を突きつけられては私も逆らいようがない。
ただ、天使たちの視線を避け、私は黒の剣のむき出しの刃を掴み、握り締めれば手の平から血が滲む。
刃に血を付いたことを確認すると、そして口の中だけで言霊を呟いた。
剣が黒き神の力に染まれば、体が熱くなるのを感じた。
エヴァンシェッドから十分に離れてしまえば武器と体の自由を奪われる。
そうなってしまえば、もう自力では逃げることは不可能だ。
その前に私は黒の剣を握る手に力を込めた。
刃が手に食い込んだ痛みと共に、黒の刃が足元の辺りから放たれる。
その威力は、天使たちの足を切り裂くほどの強さはないが、その分範囲は大きく、私を中心に黒い刃の円が、私を取り囲む天使たちの足元を一度に襲う。
意表をつかれた足元を掬うような攻撃に、なす術もなく天使たちの垣根が崩れる。
チャンスはこの一瞬。
私は天使たちを飛び越えると、そのまま一気にリビングの窓を突き破り、夜の庭園に転げ出た。
「逃げたぞ!」
「追え!殺しても構わない!」
「捕まえろ!」
天使たちの殺気の篭った叫びが私の背後で上がり、飛び道具と、天使たちの飛び魔法が、私目掛けて放たれる。
まともにこの数の天使を相手にできるはずもなく、私はただただ全力で天使たちに背を向けて駆け出した。
駆け出したところで、正直に言えば、自分が何処に向かって走っているのかも分からない。
ただ、立ち止まったら捕まる、殺される。
それだけが、私の中で唯一つ確かなことだった。
横目に見える城内に逃げ込むという手も考えたが、数週間前でさえ、あれだけ黒の一族を警戒した警備体制だったのだ。
黒の一族の襲撃を受けてから、犯人は死んだとはいえ、その黒の一族を殺した存在さえ未だ分からないままでは、城内の警備はあれより更に厳しくなっていると考えることは容易い。
城内のほうが隠れる場所は多いだろうが、そんな警備の中に逃げ込んだら最後、自分を追ってくる天使を増やすだけだ。
恐らく、あっという間にお縄になるに決まっている。
よって、美しき天近き城に逃げ込む案は、即刻却下。
私は行き着く先も分からないまま、ただ闇雲に庭園を走り抜けるしかなかった。
ただ、幸いにも、庭園内は木々や花壇やオブジェなど、だだっ広いだけではなく、様々な物が点在していた。
天使たちの攻撃も、私が小刻みに方向転換をすることにより、そういったものたちを盾代わりにすることで避けることができた。
離宮の窓から見えていた美しい庭園を破壊するのは勿体無いが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
どれくらい逃げていただろう。
数分かもしれないし、案外数十分だったかもしれない。
「はあ、はあ、はあ。」
ただ浅い息、速い動悸が、全力で走る私の限界の近さを示していた。
しばらく、部屋から一歩も出ないような生活をしていたために、明らかに体力が落ちているのを感じた。
バァン!
「・・・うわっ。」
私の足元ギリギリで爆発する魔法の攻撃の衝撃に、体勢が崩れて地面に倒れこんだ。
外傷はない。
すぐに立ち上がり走り出すが、タイムロスで確実に天使たちとの距離は縮まった気配が感じられた。
「すぐそこだ!」
「殺せ!生きて逃がすなとの、命令だぁ!!」
天使たちの声が、獣の雄叫びのように響く。
「クソッ・・・。」
思わず悪態をついた。
どうしてこんな状況になったかなど、悪態でもつかないと考えられなかった。
確かにリリアナと話しているあの瞬間まで、物音だって殆ど立てていなかったし、誰かが叫びを上げていたわけでもない。
それなのに、どうして天使たちが離宮に踏み込んだりしたのだ?
誰かが、離宮の中を見張っていたとでも言うのか?
それに、誰かが見張っていたと仮定したとしても、私が逃げ出すことを決め手から小一時間もたっていなかったはずだ。
それにも関わらず、短時間であれほど多くの天空騎士団が離宮に押し入ってくるなんて、あまりに都合が良すぎではなかろうか?
誰かが、私すら予想していなかった、この逃走劇を予言でもしていたというのか?
考えが頭から離れないのと、体力の限界でもつれた足に天使の攻撃が掠る。
ズキュン・・・。
走る私の脹脛に掠ったのは、銃撃。
足元が一瞬だけふらついたが、私は何とか踏ん張ることができた。
視線を上げた先には、庭園をぐるりと囲む木々が生い茂る森のような場所。
これだけの森ならば、あるいわ天使たちを撒くことができるかもしれない。
私は迷わずに真っ暗な森の中に駆け込んだ。
月明かりすらも木々の葉が遮り殆ど届かない森の中は、想像以上に暗かった。
ただ私は夜目が効くほうだから困りはしないが、それでも方向感覚は全くつかめなかった。
「森に入ったぞ!」
「何もみえん!明かりを用意しろ!!」
天使たちの追撃が緩むのを感じた。
逃げ切るなら、今しかない。
どうにか天使たちを振り切る方法はないかと、私は走りながら視線を彷徨わせた。
すると、闇の向こうにぼんやりと浮かび上がる光が目に入る。
「光・・・?」
一瞬城内の光かと思ったが、振り返った先には天近き城のクリスタルの輝きが木々の間から見える。
すると、あの光は城ではない建物のものに違いない。
この森を抜けた先が、果たして天近き城の外なのかは定かではないが、迫り来る天使たち相手に迷っている暇はない。
私は光に向かって、一気に森を駆け抜けた。
「・・・・・え?」
がくん。
足を踏み外し、体が落ちる。
ふわり・・・と体が宙に浮いたような感覚がして、次の瞬間、体は重力にしたがって急速に落下し始める。
「ななななん・・・あぁぁぁ!」
私の腹からの絶叫が響いた。
森を向けた先は、踏みしめる足場もない、断崖絶壁。
天近き城の端であり、そこを飛び出した私は天近くに聳えていた高さから落ちたのだ。(・・・いや、この場合は自ら飛び降りたことになるのだろうか)
「まじぃ・・・でぇぇぇ?っ!」
落下する私は叫びながら、混乱する思考で状況を確認する。
とりあえず、まず私は落ちている。
そして、天近き城は外から見たとき、白き神の御許の中でも殊更に高い位置にあったことを思い出した。
そこから飛び降りた私には、今はまだ建物や人がまるで豆粒のように見えた。
次の瞬間に黒い煙が私を包んだ。
「ゲホッ!」
煙にむせ、目に沁みる。
見れば、今正に私が落ちようとしている真下辺りが、轟々と炎を上げて燃えているのが確認できた。
それも、かなり大規模な火事のようだ。
私が何かの明かりと思った森の中で見た光は、燃えている炎の光が街を囲む白壁に反射していたものだったのだ。
だが、今はそんなことはどうでもいい。
この高さから落ちたらぺちゃんこ。
しかも、間違いなく炎の中に突っ込む。
・・・結果として、多分間違いなく、助からない。
そう思った瞬間、ただただ混乱して固まっていた思考が、すごい勢いで回転した。
死にたくない。
まだ、死ぬわけにはいかない!
その思いだけが私を突き動かす。
私は空中で体勢を整えながら、どんな事があっても手放すことのない黒の剣を風圧に邪魔されながら、何とか両手で持ち顔の前に構えた。
豆粒ほどだった建物が、どんどん大きく私に迫ってくる。
同時に炎の熱さを、肌に感じた。
気が遠くなりそうなほどに、ものすごいスピードで落下しながら、私は口の中で言霊を唱えた。
「ーーーーーーー。」
言霊は、空気を切り裂く音で、自分の耳にすら届かない。
そして、炎で燃え上がる建物が目の前に迫る。
ドガシャシャシャシャーーーーーンンンン!
そのまま想像していた通り炎の中に突っ込んだ私が感じることができるのは、強い衝撃と、炎の暑さ、そして耳が壊れてしまいそうなほどの轟音。
そして、私の全てが暗転した。
ヒロ、ついに逃げ出しましたね。
しかし、天使たちに追われるわ、しまいには断崖絶壁から火の海に落っこちるわで、相変わらず不幸を背負ってますね(笑)
はてさて、ヒロが火の海に飛び込んで、その後どうなったかも気になるところですが、ヒロの話はしばらくお休みで、次からはエヴァンシェッド視点で話を進行させるつもりです。