第二十七話 私は天使に喧嘩を売った 其の二
恐怖というものを、小心者の私は今まで何度だって感じたことがあった。
不浄の大地で危険に晒されるに死の恐怖に苛まるし、強い敵に相対したときは、敵の力に尻込みするように体が恐怖で震えた。
ただ、度重なる恐怖には時間がたつにつれて慣れる。
恐怖を感じなくなる訳ではないが、それが当たり前になっていくのを感じていた。
ただいつまでたっても慣れることのない恐怖もある。
それは、大切な人を喪失する事への恐怖。
きっと、これは死ぬまで慣れないだろうという確信がある。
何故なら、大切な人を失う時の、あの気が狂いそうになるほど感情は、きっとどれほど時間が経とうが私は忘れることができないだろうから。
あの感情が私の中にある限り、喪失への恐怖は永遠に消えないだろう。
死、力、喪失。
恐怖と一口に言っても、その度合いも感じ方も様々なのだ。
きっと、私が未だ感じたことのない、未知の恐怖も生きている限り存在するのだろう。
そして今、世にも美しい存在を目の前にして、私は新たなる恐怖と対峙していた。
その美しい存在は、酷く甘く優しい言葉を囁く恋人のように微笑みを浮かべているが、私の中にある全てを喰いちぎるような凶暴な化け物をその中に飼っている。
小心者の私が、そんなものを前にして恐怖を感じない訳がないだろう?
いい知れぬ恐怖を感じた私は、ただただ、その前から逃げ出したいという感情に捕らわれた。
そして、私は全力で逃げ出せるように息を殺して体勢を整える。
第二十七話 私は天使に喧嘩を売った 其の二
何だかいい知れぬ胸騒ぎがした。
「それで、私が狙われているかもしれないからといって、どうしてお前がそんなに慌ててるんだ?」
だが、エンリッヒを前にして混乱する自分を落ち着けるためにも、私は何でもないかのように言葉を発した。
嫌な予感はビンビンにしているのだが、だからといって直感を鵜呑みにするのはどうかと思ったし、・・・というよりは、寧ろ気のせいならいいと思った。
・・・これ以上、面倒が起きるなど信じたくないのだ。
まあ、単なる逃げだと言われれば、それまでなのだが。
「ど・・・どうしてと言われましても。実は、わいはサンタマリア様にヒロさんの警護を仰せつかっとるんですわ。」
「警護?」
こめかみが、ピクリと動くのを感じた。
「いえいえ!ヒロさんに負けたわいが、ヒロさんを守るっちゅーのも、おかなしな話だというのは、わいもわかっとるんですよ?ただぁ、サンタマリア様が・・・。」
男の癖にはっきりしない物言いには苛付いたが、エンリッヒの言いたい事は概ね理解した。
「要は警護じゃなくて、監視だろ?」
「あは?分かりますかぁ?」
私が忌々しげに吐き出した言葉に、エンリッヒがからからと笑った。
エンリッヒが私の傍にいるのは、まあ狙われているというならば『警護』と言う意味もあるだろうが、それ以上に、黒の一族殺害の話を聞いて臆病風に吹かれた私が、天使の領域から逃げ出すのを防ぐためだろう。
あの明海の天使は、どうやら本気で私の力を求めているらしい。
まあ、黒の一族殺害の話を聞くまでもなく、私はさっさと逃げ出すつもりだったけどな。
「あの・・・。」
私とエンリッヒだけに分かる会話に、リリアナが何か言いたげな表情を浮かべ、口を開こうとすると新たな人物の声がそれを遮った。
「今のはどういう意味かな?天空騎士団第一師団副師団長・エンリッヒ君。」
ドクン。
私の胸が縮こまるように震えた。
『!』
エンリッヒとは天と地ほども差がある爽やかで嫌味のない声を発した人物に、気配を感じていなかった私もエンリッヒも驚いて振り返った。
「あら、エヴァンシェッド様。いらしたんですか?」
驚く私とエンリッヒを尻目にリリアナがにこやかに、純白の翼を持つ絶世の美男子を迎えた。
昨日までは片翼だったのに、今は翼を取り戻して完全になった天使がそこにいた。
「『いらしたんですか』は酷いじゃないか、リリアナ。ここは俺の離宮だぞ?」
リリアナの言葉に苦笑したのは、白き神に仕える天使一族の長であり、終焉の宣告を下したと言われる万象の天使・エヴァンシェッド。
そして、私から翼を奪いし飛べない翼の天使。
・・・いや、もう『飛べない翼』ではないか。
私は、絵画から抜け出てきたように優雅に歩いてくる天使から、白い二対の翼から目を逸らした。
心臓が痛いくらいに強く動くのを感じた。
血流が急に良くなったからか、腹部の傷の痛みが強くなったような気がした。
私は傷を庇うように手のひらを添える。
手のひらには、嫌な汗を感じた。
だが、私より嫌な汗をかいているのはエンリッヒだった。
「え、エヴァンシェッド様!勝手に離宮に入ってしまい、ほんま申し訳ありません!」
えらく恐縮しきったエンリッヒが、声を上げて頭を直角に下げた。
私と対するような余裕は消えうせ、ここに入ってきたときよりも顔を青ざめている。
どうやら、ここは万象の天使の離宮で、エンリッヒは無断でここに侵入してきたらしい。
だが、エヴァンシェッドはその顔に、この世のものとは思えない美しい笑みを浮かべた。
「あはは、気にしなくて良いよ。今の聞いてたけど、サンタマリアの命令なんでしょ?あの人も仕方ないな・・・、まあ見て見ぬふりをしてもいいんだけどね?」
そう言って、エンリッヒを見た顔に、より深い笑みが刻まれた。
エンリッヒはその表情に見惚れるにうっとりとしていたが、私は綺麗だとは思ったが、同時に冷たい何かが胸に落ちた。
「でも、まあ俺に見付かった以上、理由は確り話していってもらうよ?大体、ヒロを天近き城に呼び寄せたのはサンタマリアらしいじゃないか。その辺も、ついでに話して言ってよ。」
「は・・・はい。」
まるで操られるかのように、エヴァンシェッドの言葉に頷くエンリッヒの顔には、先ほどまであった恐縮も青ざめた表情もなかったが、いつも彼が浮かべるあの嫌味な笑みも浮かんでおらず、ただエヴァンシェッドに見とれている締りのない表情だけがあった。
「ふーん・・・、じゃあ、ヒロは元々『あの女』を逃がしたせいで天使に捕まって、黒の武器を持つ者として、サンタマリアやラインディルトに目を付けられたんだね。」
エンリッヒから、私と不浄の大地で出会ったところから全部の話を聞き終えたエヴァンシェッドは、そう言って考え込むように頬に手を添えたようだ。
『ようだ』というのは、私がエヴァンシェッドの背中しか見えておらず、ちゃんとその姿を確認できないからだ。
エヴァンシェッドの離宮の客室らしい部屋で、私は一人ベッドの上に座らされ、エヴァンシェッドとエンリッヒはベッドから少し離れたテーブルに相対して椅子に座っていた。
ベッドの位置から、エンリッヒは正面なのだが、エヴァンシェッドは私に背を向けている。
因みにリリアナは私のために食事を用意してくると言って、部屋を出て行ったまま帰ってこない。
天使二人は私の話をしているにも関らず、どうしてか当人の目の前に当人をを無視して会話を進める。
それに些かの疑問を感じつつも、私はエヴァンシェッドがハクアリティスのことを『あの女』と言ったことに眉を顰めた。
元はといえば、今は黒の一族や黒の武器のことばかりで天使たちに興味をもたれているようだが、最初はハクアリティスを天使たちから逃がしたことが始まりだったはず。
そして、目の前にいる美貌の天使はその夫だったはずである。
なのに・・・。
「まあ、あの二人の考えていることは大体想像が付く。・・・ヒロ。」
私がエヴァンシェッドの背中を睨みつけるように見つめていると、突如、私の存在などないかのように振舞っていたエヴァンシェッドが私を振り返った。
「・・・。」
紫の高貴な薫りのする瞳が私を映す。
だが、その瞳には、その声同様、失踪した妻を心配するような、その妻を逃がした汚らわしいアーシアンを憎むような、感情という色は見えなかった。
ただただ、美しく見惚れるような天使が、そこにいるだけだった。
この天使は、自分の妻のことに何の感情も持っていないのか?
ハクアリティスとの会話が脳裏をよぎった。
『あたしの意思なんて関係ない。天使が嫁に来いといえば、あたしが嫌がろうが何だろうが、あたしは嫁に行かなきゃならなかった。そのとき初めてあたしは、自分がが天使の人形だって思った。』
『人形?』
『そう。逆らうことも、逃げ出すことも叶わない。天使の意のままに動く人形よ。所詮、天使なんてみんな心の中では人間を見下しているのよ。あたしはずっと見下されてきた。誰に頼ることもできなくて、もう気が狂いそうだった。それだけじゃない、あいつはあたしから全部奪った。もう耐えられなかった・・・。』
確かにハクアリティスに対して、この天使が何かしらの感情を持っているようには見えない。
だが、それはハクアリティスだけに対してだけというよりは、まるで・・・・。
「怪我の具合はどうだ?」
「見ての通りだ。大したことはない。」
本当はそんなこともないのだが、敵とも味方とも分からぬ相手の前で弱みを見せることができるほど強い人間では私はない。
それに、自分の推測が正しいとするなら、より一層、この天使を信用する事などできなかった。
「君はサンタマリアに協力するつもりかい?」
「断る。」
今となっては、サンタマリアどころじゃない。
天使全てから、さっさと縁を切って、ここから逃げ出したい。
それも一刻も早くだ。
「ちょ・・・ヒロさん。」
「エンリッヒ君は、少し黙っていてくれたまえ。」
エンリッヒが私の返事に声を上げたが、エヴァンシェッドを前にしては黙らざるを得ない。
「どうして、断るんだい?悪い話じゃないだろう。サンタマリアは君を奴隷のように扱うつもりはないだろう。君を一人の人間として協力を仰がなかったか?君には恐らくエンディミアン以上の待遇が用意されているはずだ。」
待遇の話までサンタマリアとした覚えはないが、彼女は確かに私の意志を尊重しようとはしていた。
「例えそうだとしても、協力するか否かは別問題だろう。」
私の言葉に、エヴァンシェッドの表情が美しく歪んだ。
「私はこれ以上、天使と関わるつもりはないんだ。大体、どうして私の手当てなどした?私に用があるというサンタマリアならともかく、万象の天使、貴方には私を助ける理由はないだろう?」
先ほどエンリッヒを魅入らせたあの美しさに歪んだ表情が、今度は私に向けられている。
自分でもこんな美しい天使に、『歪んだ』という表現を思いついたか分からない。
ただ、美しいというだけではない、エヴァンシェッドはその全てが、酷く凶悪なものに感じられたのだ。
サンタマリアに心の中を読まれていると分かったときの恐怖にも似ているが、彼を目の前にして感じる恐怖はその時に感じたものよりも遥かに得体が知れなく、強烈だ。
私はエヴァンシェッドに視線を置いたまま、手探りでベッドの上にある黒の剣を探した。
「天使と係わりあいたくないなんて、珍しいことを言うんだな。」
言葉を発しながら、彼は椅子から立つと私のほうへ一歩一歩近づいてくる。
一層、その顔を壮絶に美しく歪めながら。
その声に、瞳に、空気に、魅入られそうになる自分を感じた。
だが、それに抵抗するように、私の本能は呟いていた。
『彼に魅入られては、屈してはいけない。』
魅入られては最期エンリッヒのように、この美貌の天使に抗えらなく、支配されてしまう気がした。
エンリッヒはそうとは感じていないかもしれないが、彼の色をなくしたその表情に彼がこの天使に乗っ取られてしまったような錯覚を覚えるのだ。
私は黒の剣を探し当てると、シーツの中で静かにその刃を鞘から取り出した。
「はぐらかさずに私の問いに答えろ。どうして、私を助けた?」
私はエヴァンシェッドの力に負けないように、強く彼を睨みつけ、言葉を強くした。
しかし、いくら彼を睨みつけたところで、美しいだけの、その姿からはエヴァンシェッドの考えていること、その感情、彼が生きているという匂いというか、名残みたいなものが全く見えてこない。
こんな生き物は、初めてだと思った。
どんな怪物だろうが、何人か出会った天使だって、その姿や、服装、話し方、癖や醸し出される空気など様々なものから、その生き物が生きてきた結果というか、その生き物独特の匂いの様な、名残の様なものが大なり小なり感じられるものだ。
だが、この天使からはそれが一切感じられない。
ただ私に分かるのはこの天使が、異常に美しいというだけだ。
・・・これは、本当に生き物なのだろうか?
今、どんな化け物に出会ったときよりも、私は恐怖を強く感じていた。
しかしそれでも、私がエヴァンシェッドを目を逸らさずに見つめていられるのは、辛うじてその化け物の背中の翼が、『エヴァ』だと思えればこそ。
その化け物に、大切なエヴァの名残を見ることができるからだった。
「はぐらかしたつもりはないけど。君を助けたのは、そうだな・・・まあ、翼の封印を解いてくれたお礼・・・ということにしておいてくれ。君が封印を解いてくれなければ、俺は未だに片翼の飛べない翼の天使のままだったからな。君には感謝しているんだ。」
『・・・ということにしておいてくれ。』だぁ?
何だその煮え切らない答えは。
私は目を細めた。
この男とは性格的にも、非常にあわない予感がした。
どうにも、エンリッヒのように嫌味な笑みや言葉で話されているわけでもないのに、エヴァンシェッドの一つ一つの行動や言動に恐れと共に、苛立ちを感じる自分がいるのだ。
だが、今は感情のままに身を任せては、エヴァンシェッドに付け入れられてしまう気がして、私は感情を抑え、声を抑えた。
「・・・・礼のつもりなら、手当てなどいらんから、私を不浄の大地に返してくれ。」
「どうして?」
間髪いれずに返ってきたエヴァンシェッドの問いに、抑えている感情が強く動くのを感じた。
気が付けば、エヴァンシェッドは私のすぐ傍まで来て、私を見下ろしていた。
その目を見た瞬間に駄目だと思った。
恐怖が、苛立ちが、私を強く揺さぶり追い詰める。
気が付けば、私はシーツの中に隠していた黒の剣をエヴァンシェッドに突きつけて叫んでいた。
「だから言っただろ?私はもうこれ以上天使に係わり合いたくないんだ!もう、天使の領域には、いたくないって言っているんだよ!」
「ヒロさん!いかん!」
エンリッヒが逆上した私を取り押さえようとするが、エヴァンシェッドが腕を上げてそれを止めた。
エヴァンシェッドは私を、美しい笑顔で歪めたまま見つめていた。
その目を見てはいけないと思うのに、その視線から逃げることができない。
「不浄の大地に戻せっていうのかい?君は天近き城よりもあの死の世界のほうがいいっていうの?」
『違うだろ?あんな苦しい毎日、死に怯える毎日など、もういやだろう?』
エヴァンシェッドの誘惑の声が、重なって聞えた。
「そ・・・うだ。」
思わず頷いてしまいそうな誘惑の声に、私は首を振った。
だが、エヴァンシェッドを前に何故だか、強く出られない自分を感じた。
それでもエヴァンシェッドの力に屈しないよう、黒の剣を握る手に力を込めた。
体が焼けるように熱く、朦朧として意識が遠のく。
「サンタマリアに協力するのが嫌なら、何もしなくていいさ。言っただろ、俺は君にはお礼がしたいんだから、何もせず、ここで一生幸せに暮らしてくれてもいいんだよ?」
『何もかも忘れて、この楽園にいようよ。苦しいこと、悲しいこと、全部忘れられる。ここには幸せだけがあるんだから・・・。』
美しい瞳に吸い込まれ、甘い誘惑が私の思考を奪い、私は自分の心が見えなくなるような感覚に陥った。
あれ?私は何を考えて、この美しい天使に黒の剣を突きつけていた?
そう思った瞬間に、黒の剣が手の中から落ちた。
「わ、たしは・・・。」
力なく言葉を発する私に、エヴァンシェッドは更に笑顔を深く歪め、私にそっと手を伸ばす。
そして、私の頬に手を添えるエヴァンシェッドを見上げながら、引き寄せられてしまう力に、誘惑に、私は抗えずに身を任せようと・・・。
しかし、そんな私の視界に白い翼が目に入った。
『ヒロちゃん。』
そして、エヴァが私の名を呼ぶ幻聴を聞いた瞬間、私は僅かながらに自分を取り戻した。
体はまるで金縛りにあったように動かせず、エヴァンシェッドと口付けを交わさんばかりに近い顔を動かせないままだったが、それでも強張る口を再び開いた。
「天近き城・・・、いや、天使たちのいる場所には・・・いたくない。・・・私を出せ。私を解放しろ、万象の天使。・・・・それが私の願いだ。」
バチッ!
言葉に呼応するように、私の頬に添えられていたエヴァンシェッドの手から静電気のような強い力が一瞬発せられた。
『?!』
私も金縛りから解放されたように、はっとしてエヴァンシェッドを見ると、彼は右手を押さえて、こちらを忌々しそうな表情で見ていた。
なんだ、そんな顔もできるんじゃないか。
そちらのほうが余程、親しみやすい表情だと思った。
私が彼を見つめていると、エヴァンシェッドは私を静かに見下ろしながら言葉をつむいだ。
その顔はもう感情の色は消えていて、美しさに歪められていた。
「・・・君のいいたいことは理解したよ、ヒロ。しかし、少なくともその怪我が治るまでは面倒を見させてくれ。そうしないと俺はエヴァに顔向けできない。」
そういうと、私の答えも聞かすに背を向けると、こちらの様子を呆然と見ていたエンリッヒを振り返った。
「エンリッヒ。君はサンタマリアにヒロの事を監視するように言われているんだったよね?」
「え?!・・えっとぉ、一応監視じゃなくて、警護なんですがぁ・・・。」
エンリッヒは急に話を振られて、しどろもどろに答えたがエヴァンシェッドは構わずに続けた。
「どっちでもいい、君はここにしばらく、いてくれて構わない。ヒロが逃げないように見張っててくれたまえ。」
『!』
先ほどまでとは、打って変った彼の態度と言葉に私は目を見張った。
しかし、それを問いただす前にエヴァンシェッドは言い捨てるように言うと、音を立てて足早に部屋を出て行ってしまった。
そして、部屋には私と呆然としているエンリッヒだけが残された。
「なあ、ヒロさん。」
ぽつりと、エヴァンシェッドが出て行ったほうを見ながらエンリッヒが私に問いかけた。
「何だ。」
「エヴァンシェッド様、急にどないされたんでしょ?ヒロさんが急に襲ったりするから、驚いたんでっしゃろか?」
まるで、寝ぼけたままのような表情のエンリッヒはエヴァンシェッドの影響下にまだあるのだろうか。
エヴァンシェッドの得体の知れぬ力が、何たるかを知らない私にはよく分からない。
「まさか、黒の剣を鼻先に突きつけても眉一つ動かさなかったような奴が驚いてたわけないだろ?」
「じゃあ、どうして、急に?!」
まるで、母親に置いていかれた子供のような顔のエンリッヒが、突然私の肩を掴んで体を揺らし始めた。
「いたっ!おい、エンリッヒ!確りしろ!」
痛む体を揺らされてはたまったもんじゃなく、私はどう見ても正気じゃないエンリッヒを思いっきりぶん殴った。
エンリッヒは受身も取らずに、みっともなく床に転がる。
「・・・・あ。ヒロ・・・さん?」
そして、殴られた顔を押さえて私を見上げた顔は、まるで夢から覚めたようにただ呆然としていた。
「どうして、私に殴られたか覚えているか?」
「・・・それが、何となくは覚えとるんですが・・・、わい、何かしました?」
「・・・。」
とりあえずは、正気を取り戻したようだが、どうも記憶も曖昧らしい。
私はやはり、あの万象の天使の力だろうとエンリッヒを視線を置いて、エヴァンシェッドのことに思いを馳せようとしたが、突然エンリッヒが大声を張り上げたので驚いた。
「あーっ!!!!」
「?!・・・なんだよ。」
「思い出しました!ヒロさん、わい、わい、今さっきひょっとして、エヴァンシェッド様に全部話してしもうた!?サンタマリア様がヒロさんに、協力をお願いしとる事とか?!」
「・・・。」
エンリッヒの勢いに言葉なく私が頷くと、エンリッヒが叫びを上げながらその場に崩れ落ちた。
「ぎゃー!殺される!わい、あの人に殺されてしまうわ!・・・ヒロさん、助けてくださいぃ!」
「はぁ?何を言い出しとるんだ・・・。」
突然訳の分からないことを言い出して、叫びもだえながらエンリッヒがベッドに縋りつくのを、私は君が悪くて足で蹴り落とす。
それでも、負けじとすさまじい形相で私に縋りつくエンリッヒを無視しながら、私はやはり先ほどまでのエンリッヒの様子との違いに、エヴァンシェッドに何かしら他者を支配するような力があるという直感を確信に変えた。
ただ、一つ。
どうして、私を支配できそうな一歩手前で彼が私から手を引いたのか・・・。
それだけは少しばかり、疑問が残った。
それについて色々考えをめぐらせて見たが全く答えが出ないまま、私がその理由を知るのは大分先の話である。
謎多きエヴァンシェッドですが、少しどんな奴か分かっていただけましたか?いや、ていうか更に謎が深まりましたかね?どうも、かいてる自分で言うのもなんですが、この人は非常に難しい人です。どうしてこんな人を主要人物に据えたんでしょう私・・・。(でも一応つかみ所のない人物っていう設定なんです)
しかし、ヒロは今後このエヴァンシェッドとの関わり合いから色々面倒に巻き込まれていきます。