第二十三話 死してなお君を守る 其の二
あの日、僕らは互いに約束を交わした。
ヒロちゃんは、僕に『逃げろ』という言葉に僕の絶対服従を要求した。
僕、気が付かないふりをしてたけど、本当は知ってたよ。
ヒロちゃんが、僕に誰かを重ねていたことを・・・。
その誰かを守れなかったから、ヒロちゃんはどんな手を使っても僕を守ろうと、逃がそうとするんだ。
でもね、僕はそれでも良かったんだ。
誰かの代わりでも、ヒロちゃんが実際に守ろうとするのは、逃がそうとする僕だから。
だから、本当はヒロちゃんと約束したくなかったけど、僕はそれを承諾した。
ヒロちゃんは、記憶がなくて右も左も分からない僕に、生きることを教えてくれた。
僕にとって人生は記憶のあるたった3年間しかないけれど、それでもヒロちゃんが一緒だったから、短い人生だって僕にとっては素晴しい人生だったと僕は胸を張って言えるんだ。
ねえ、ヒロちゃん。
僕がヒロちゃんと交わしたもう一つの約束・・・、覚えてる?
あの約束を果たすために、僕はほんの少しだけ運命に逆らうことにしたよ。
約束を守りたいから。
だから、ヒロちゃんのためじゃないんだよ?僕は自分のためにそうするんだ。
でも僕の選んだ結果をヒロちゃんは、怒るかもしれない、悲しむかもしれない。
もしかしたら、僕のことを憎んじゃうかもしれないね?
それでもいいよ、でも忘れないで欲しいんだ。
あの約束は果たすから、どうか僕がこの世界にいたことを、死ぬまで覚えていて。
第二十三話 死してなお君を守る 其の二
遠くで声が聞える。
「この子供が本当に、翼なのか?」
疑いの気持ちを隠そうともしない声。
「はい。マールの予言により、見つけた翼です。間違いありません。」
それを、はっきりと否定するのは、エンシッダの声だ。
「・・・私は予言などは好かんが、あの小娘の力はあの方も信頼しているからな。」
「前々から、あの方から探索依頼を受けていました。こうして見つけることがきて、私も嬉しく思っております。」
あからさまな男の嫌味を、エンシッダがさらりと流す。
僕はその会話の場にいたし、エンシッダと赤い翼を持つ男が、僕を無遠慮にまじまじと見つめる視線も感じていた。
だけど何もかもが一枚分、厚いガラスを隔てたように、ぼんやりとしているように僕には思えた。
僕は今、天使たちの城にいる。
何も考えられないまま、エンシッダに連れられ、気が付けば僕は守護天使の白壁を通り抜け、白き神の御許の中に入り、天近き城に登城していたのだ。
不浄の大地の貧しくて乾いた景色に見慣れていた僕には、見るもの全てが眩しくて輝いているはずだけど、今の僕には感動の声を上げることもできなかった。
多分、今の僕はもう僕ってだけじゃない。
半分はあの人に持ってかれているのだ。
「・・・わかった。ともかく、まずはご本人に確認していただくのが一番早いだろう。子供は私が預かる。お前は下がれエンシッダ。」
その言葉を聞いて、エンシッダは好青年の笑顔にあの深い闇の瞳を僕に向けると、何も言わず部屋を退室した。
ただ、去り際に思い出したように振り返って言った。
「そういえば、いい忘れておりました。マールが翼について謡った予言をお伝えするのを忘れていました。」
しかし、そう聞いて天使の男は嫌そうな顔をした。
「私が予言を好かんと聞いといて、それを言うか。」
「まあまあ、そういわず。」
簡単ですよ。とエンシッダは嫌な顔をする天使を押し切って、予言を謡いだした。
白き光より 堕ちた翼は 黒き寝台で眠る
千の夜 千の朝の果て
其を 白き光より 引き千切りし
黒の血が 其を 永き眠りから 目覚めさす
目覚めし翼は 契約という名の楔を 身に差し
白き光に 還るのだ
しかして 翼の永い旅は 終わを告げ
世界の胎動が 全ての始まりを告げる
「後はこの前の下りで、翼の居場所を示す予言の部分もありますけど如何致します?」
そう伺いをたてると、天使は首を振る。
エンシッダはそれをやはり笑顔のまま見ると、やっと部屋を退室したのだった。
意味ありげな視線を僕に残して・・・。
「お前が本当に翼であるか確信していただくため、御前に連れて行くが無礼は決してするな。」
エンシッダを見送った天使は、僕に一瞥しただけで僕が後を付いてくるかも確認せず、大股で歩き出した。
僕はその後に続いたけど、僕の頭の中では予言の中の一つの言葉が、何故だか心に響いていた。
ーーーーー契約という名の楔
『私に付いてくるのは構わないが、一つ条件がある。』
ずっと頭の名で繰り返されているあの冷たい声と声の合間に、声が聞えた。
この声は・・・。
『私が逃げろといったら、全力で逃げろ。』
ああ、これは、ヒロちゃんの声だ。
これは僕とヒロちゃんが交わした約束の言葉だ。
思い出して、僕は感覚が戻り、僕が僕を取り戻していくのを感じた。
僕の記憶が更に蘇ってくる。
『じゃあ、僕とも約束してくれる?』
記憶の中のヒロちゃんは嫌そうな顔をしたけど、自分が約束させた手前もあり仕方ないなぁと言う顔で頷いてくれた。
『絶対死なないって、約束して。』
『それは無理だろ。人間というものは、いつかは死ぬものだ。』
即効で否定された。
でも、この時の僕はヒロちゃんが何を言おうとも、僕を逃がすためにヒロちゃんが無残に死んでいく様をまざまざと想像してしまい、想像と現実の区別が付かず混乱していた。
『だったら、死ぬ時はその前に、僕に殺されて!僕以外の誰にも殺されないで!』
そう悲鳴にも似た声で意味不明なことを口走ると、ヒロちゃんは顔をギョッとさせた。
『ば・・・、お前は、何を馬鹿なこといってるんだ。大体、死ぬって言っても、病気とか、事故とか、老衰で死ぬ事だってあるだろう!どうして誰かに殺される心配ばかりしとるんだ、お前は。』
『あ・・・。』
そういわれて気が付いた。
確かに僕は何故だか、ヒロちゃんが知らない誰かに殺されてしまうという思い込みに支配されていた。
『全く縁起でもないこというなよな。』
そう苦笑されて僕は何だか恥ずかしくなって、その話はそのまま消えていくかと思ったけど、ヒロちゃんはその後に、
『まあ、でも、約束してやってもいいぞ。』
と言ったのだ。
僕は自分で言い出したことにも関わらず、ヒロちゃんの承諾に驚いた。
そんな僕にヒロちゃんは、あっけらかんと笑った。
『まあ、誰か知らない奴に殺されるくらいなら、お前に殺されたほうがマシかもしれないと思っただけだ。あまり真剣にとるなよ?大体、私がそうそう簡単に死ぬわけないだろ?変な心配ばっかするなよ。』
約束ともいえない、ヒロちゃんにとっては他愛もない言葉だったかもしれない。
でも、そういわれて僕は気が付いた。
僕は別にヒロちゃんを殺したいわけじゃなく、この約束の中にある僕の本当の願いは・・・。
「ああそっか、これが契約の楔か・・・。」
そして、僕は僕を完全に取り戻した。
「何か言ったか?」
「あ、いえ。何でも・・・。」
前を歩く天使が僕を振り返ったけど、僕は曖昧に笑って首を横に振った。
天近き城は武装した天使が何人もいて、ピリピリとした空気が伝わってきて、僕が歩いている廊下は耳が痛くなるほど静まり返っていた。
天使は迷いなく城内を歩くと、城の奥、綺麗な庭園の中心にある離れみたいな建物の扉をノックした。
庭園はそれほど大きくなく、城の一階と庭続きになっている。
恐らく城の一階からも、この庭園を散策できるようになっているのだ。
「あら、ラインディルト様。御機嫌よう。」
ノックの後しばらくして出てきたのは、あの人じゃない、でもあの人の気配が残る女の天使だった。
美人だとは思ったけど綺麗だとは思わない、ちょっと斜に構えたような雰囲気のある女性だった。
女天使にラインディルトと呼ばれた天使も、あまりこの女天使にいい感情は持っていないらしく、女天使を認めると少しだけ顔を顰めた。
「あの方は?」
「今はいませんけど?探してきましょうか?」
そう、女天使は婀娜っぽく笑った。
「では、お願いする。その間こちらで待たせてもらう。」
しかし表情一つ動かさずラインディルトは、女に冷たくそう言うと、遠慮なく建物内に入っていった。
女があの人を探しに行って、離れの中は僕とラインディルト以外の誰の気配もなかった。
広い城内に比べれば、こじんまりとしているけど、一家族くらいは余裕で住めそうな広さはある。
そして、吹き抜けのリビングのような部屋に入るとラインディルトは、乱暴な動作でソファに腰掛けた。
「くそっ、あの女・・・。」
忌々しげに吐き出された言葉は、酷く焦燥した声だったように思う。
その声につられて僕が見たラインディルトの顔は、僕に見せていたような氷のように冷たいだけの表情ではなく、何か暗い感情が宿った顔だった。
だが、僕が見ていることに気が付くとラインディルトはすぐにその表情を消す。
僕は何故だか、見てはいけないもの見たような気がして、何も言えずに視線をはずした。
それからは、一時間ほど沈黙が一室を支配した。
そして、時は満ちた。
僕は次第に近づいてくる気配に体中が熱くなり、自分の全てが引き付けられるのを感じた。
「来るよ。」
「え?」
僕の呟きにイライラして床を見ながら貧乏揺すりしていたラインディルトが顔を上げる。
そして同時に扉が開いた。
強くて白い光を感じた。
その光を見て、ここが僕の還る場所だと確信した。
僕が恐怖という蓋をして気付かないふりをしていた、本当の僕の居場所。
「やあ、初めまして・・・というのは、おかしいかな?でもやっぱり初めましてだよね?えっと、なんて呼んだら良いかな?」
「おい、貴様・・。」
僕の馴れ馴れしい態度にライディルトが静止の言葉を上げるが、現れた人物はそれを手を上げて制した。
「エヴァンシェッド。本当は違う名前なんだが、気が付いたらこの名が定着していた。」
現れた白い光改め、エヴァンシェッドはにべもなく言った。
美しい片翼の天使。
その美しさも、神々しさも、強い光も、全てが生きるもの全てを惹きつけてやまない万象の天使、それが真実の僕の還る場所なのだ。
「エヴァンシェッド・・・、古い言葉で『飛べない翼の天使』か、皮肉な名前だね。ひょっとして、僕のせいかな?」
「当たり前だ。一人で動けるなら、さっさと帰ってこい。おかげでこの数百年、ずっと片翼のままだし、不浄の大地をさんざん探させる羽目になった。・・・ずっと、一人で彷徨っていたのか?」
その問いに、少し笑って答えた。
「違うよ。目が覚めたのは3年前さ。あの時、エヴァンシェッドが最果ての渓谷の戦いで黒の一族に、翼を切り落とされて、翼は君から独立した。そして君の力を秘めた存在ということから、ずっと黒の一族によって封印されていたんだ。だから、僕を見つけられないのは当然だよ。」
今なら僕が誰だか、答えられる。
僕はこの目の前にいる、万象の天使・エヴァンシェッドの片翼、力の一部が切り落とされたことにより独立した存在。
「それにしても驚いたな。俺が言うのもなんだが、力が自分の意志でひとりでに動くなんて聞いた事もない。長い封印のせいか?」
そういいながら、僕を面白そうにエヴァンシェッドが眺めたり、触ったりしている。
彼にはラインディルトのような、僕が本物かどうかという疑いや迷いは感じられない。
まあそれも当然だよね。
元は同じ存在である僕らが、互いを分からないはずがない。
僕が彼を感じられるように、彼も僕を感じているのだろう。
彼に触れられる部分が見られる体が熱くなり、彼の元に返りたいと魂が叫んでいるのが、その証拠だ。
「僕にも良く分からないよ。ただ、僕だって自力で黒の一族の封印を解いたわけじゃなくて、僕の封印を解いてくれた人がいるんだけど、その人との接触が原因じゃないかとは思う。」
「なるほど。まあ、何はともあれ、よく帰ってきてくれた。今は色々問題が山積みでな。正直、力が万全になるのは非常に助かる。お前がいなかったせいで、片翼ってだけじゃなくて力も半分程度になったからな。」
そう言って笑ってから、エヴァンシェッドは急に難しい顔になった。
「それにしても、どうして俺の力を封印するなんて面倒な手段をあの黒の一族はとったんだ?まあ、俺の翼を切り落としやがったあの男は、変わり者だったと記憶しているが。いっそお前を消滅させる事だって、黒の武器があれば可能だったろうに。」
そうだ。
エヴァンシェッドの翼を切り落とすことで力を削いだ黒の一族は、翼を消滅させずに封印させるという手段をとった。
初めは、確かに僕を消滅させようとしていたんだ。
でも、何故だかあの男は僕に・・・黒の剣をつきたてることはせず、その力で封印するという手段をとった。
そう思い返してみると、黒の剣とは可笑しな縁があるものだ。
もしかしたら、ヒロちゃんと僕をめぐり合わせたのも、あの黒の武器なのかもしれない。
ヒロちゃん・・・。
僕はその名を心の中で、もう一度呟いて、勇気を奮い立たせた。
これからが、本番なのだ。
「それは僕にも分からないよ。それより、貴方の片翼として還る前に、一つだけお願いがあるんだ。」
「お願い?」
僕の言葉に、エヴァンシェッドはとても意外そうな顔した後、面白そうに笑った。
「あはははっ。俺が俺にお願いされるなんて、何か可笑しな状況だね。」
確かに彼の言うとおりである。
「でも、エヴァンシェッドの中に戻ったら僕は・・・、エヴァは消える。」
「エヴァ?」
僕の言葉にエヴァンシェッドは、不思議そうに顔を傾ける。
「僕の封印を解いて、ずっと傍にいてくれた人が、僕につけてくれた名前だ。」
「古い言葉で『翼』という意味だね。君にはぴったりの名前だ。」
ヒロちゃんはきっと、僕のことを知っていた。
そりゃ、僕の封印を解いたのはヒロちゃんだし、それにしても翼に、翼という意味のある名前をつけるなんて、安直な過ぎて笑えた。
でも、ヒロちゃんに『翼』と名前を呼ばれるたびに、優しい気持ちになれたことを思い出す。
だから、僕は意外だろうが何だろうが、この願いは意地でも聞いてもらわなくてはいけないんだ。
「消える前に、一つでいい!お願いだから、・・・聞き届けてよ。」
「別に、聞いてやる必要はないと思うが?そもそも、お前は俺だ。俺は俺のしたいことだけする。お前には本来、自我なんてものはあるはずがないだろう。お前がそれと感じているのは、錯覚か幻だ。」
・・・確かにそうかもしれない。
そう思う節、自分が自分という存在が嘘っぽいと思う時だって本当は何度もあった。
でも、この込み上げてくる熱くて、苦しい何かは違うんだ。
「錯覚でもいい。ただ、聞いてもらえないというなら・・・・。」
『!』
そう言って僕はすぐ傍にあった、この部屋で飾られていた美しい短剣を、自分の首元に当てた。
実用品ではないだろうが、頚動脈をきるくらいには鋭い刃を持っているはずだと、この部屋に入ったときから目をつけていた。
「確かに僕は僕じゃなくて、エヴァンシェッドの一部かもしれない。でも、こうして自ら命を絶とうとしている僕は、きっと僕という存在だよ。だって、エヴァンシェッド、僕を止められないだろ?」
エヴァンシェッドとラインディルトから距離をとるように、僕は部屋の隅に移動する。
「・・・短剣で命を絶ったら、力は永遠に消えてなくなり、君は二度と力を手に入れることはできないよ。言っとくけど、脅しじゃないよ。僕の願いを聞いてくれないなら、僕はすぐにでも命を絶つ。どうせ、僕はいなくなるんだ。今更恐怖はないよ。」
壮絶に美しい顔で僕を睨む、僕の本体ともいうべきエヴァンシェッドを僕は見つめた。
本当は恐怖がある。
でもそれは、死に対する恐怖ではなく、絶対者に逆らおうとしている今の事態に対してだ。
だって、何度だってあの悪夢で、僕を呼んでいた白い光そのものが彼なのだ。
さっきまでの自分が自分と思えなかった僕は、僕という存在の殆どを彼に持っていかれてたからだ。
今はその主導権を自分に戻すことができているけど、一瞬でも気を抜けば、すぐさまエヴァンシェッドに全てを奪い去られてしまいそうな強い力を感じる。
でも、負けるわけにはいかないのだ。
「いいだろう。言ってみろ。」
エヴァンシェッドはしばらくの睨み合いの後にそう呟いた。
どうやら僕の本気を察したらしい。
「その願いとやらを聞けば、俺の元に戻るんだな?」
「うん。それは約束するよ。」
どんなに僕が否定しても、僕が彼の一部、翼であることは変わらない。
彼の中に戻るという運命は変えることができないものだと、僕にはわかっている。
でも、少しだけ逆らいたいのだ。
「僕の願いは、唯一つ僕の代わりに、ヒロちゃんを守って欲しいんだ。」
「ヒロちゃん?」
「僕の封印を解いた黒の一族の末裔の名前だよ。まあ末裔って言っても、過去の遺恨は何もかも忘れた血族だけど。ヒロちゃんは、これは僕の推測だけど黒の武器を持っているために、天使の領域に捕らわれているんだと思う。天使に捕まってから連絡が取れないんだ。だからヒロちゃんを天使から助けて、僕が戻ってからもヒロちゃんが死ぬまで、誰にも殺されないよう、ヒロちゃんが不幸にならないよう全てから守ってあげて欲しい。」
ヒロちゃんが今どこにいて、どんな状況かなんて分からないけど、このままじゃヒロちゃんはきっと、僕が知らないところで、知らない誰かに殺される。
そんなの許せない。
でも、それは僕がヒロちゃんを殺したいわけじゃないんだ。
その思いは、ヒロちゃんにただ幸せな一生を生きて欲しいと願う僕の願いだったのだ。
単に誰かに殺されるというのが、僕の中で不幸の象徴のように思えただけで、僕の本当の願いはヒロちゃんから、全ての不幸を取り除くことに他ならなかった。
でも、実際はそんなこと僕にも、ヒロちゃん本人にも不可能だってことは分かっている。
だが、事態は変わったのだ。
「だって、エヴァンシェッドは天使の中で最高の天使だろ?人間一人守ることくらい朝飯前でしょ?」
僕のそんな言葉に、エヴァンシェッドが顔を顰めた。
「俺に黒の一族を守れ・・・と?」
僕は首元にぐっと短剣を近づけた。
「いっとくけど、エヴァンシェッドに拒否権はないと思うけど?」
「・・・。」
張り詰めるような空気が部屋を支配する。
ここが正念場だと、僕はエヴァンシェッドから目を放すことなく見つめた。
そして、極度の緊張が最高潮に達したとき、ふうと、息を吐く音が沈黙の中に落ちた。
「全く、自分に脅迫されるなんて思っても見なかった。・・・いいだろう。分かったよ。」
その了承の言葉を聞いて思わず気が緩みそうになるが、まだここじゃない。
僕は短剣を握る手に、嫌な汗をかくのを感じながら、次の言葉を発した。
「じゃあ、契約を。」
「馬鹿な!そんなことのために、神聖な天使の契約をさせるつもりか?!」
僕の言葉にラインディルトが声を上げたが、エヴァンシェッドは予想していたのか表情一つ変えなかった。
「まあ、当然だな。エヴァは俺の中に戻ったら最後だ。俺が約束を守るかなんて、確認しようがないからな。契約を交わせば、それは絶対の拘束力を持つ。それで、何を媒介にする?」
僕は短剣を握っている左手をはずして、そのまま短剣を握り続ける右手の人差し指から足跡の指輪を指から取った。
「この指輪に・・・。」
僕はこの時、自分の手が震えているのを感じていた。
こんなに上手くいくなんて信じられない気持ちで一杯だったが、エンシッダが教えてくれた予言が僕を後押ししてくれている。
だから、契約なんて大それたことを思いついたし、契約の楔とは、きっとこのことに違いないんだと、気持ちを決めることができた。
僕は指輪を左手に持ちながら、契約を紡いだ。
「僕、エヴァは、万象の天使・エヴァンシェッドと契約する。僕がエヴァンシェッドの一部に戻ることと引き換えに、黒の一族のヒロに降りかかる全ての不幸を取り除き、幸せに導くことを約束するか?」
僕が固唾を呑んで見つめる中、エヴァンシェッドは僕の言葉に息を一つすって答えた。
「約束しよう。」
エヴァンシェッドがそう言った瞬間に、手の中にある足跡の指輪が光を放ち、僕の手から飛び出しエヴァンシェッドの右手の人差し指に収まった。
あれはもう、エヴァンシェッドから二度と外れることはない。
体に力が入らないくらいほっとした。
これで、ひとまず安心だ。
契約は、絶対に守られる。
まあ、体に力が入らないのは其れだけが理由じゃなくて、僕の人生のクライマックスへのカウントダウンが始まったって言うのもあるけど。
自分の意識や力が吸い取られていくような感覚が僕を襲う。
契約どおり僕は、エヴァンシェッドの一部となるべく消えつつあるのだ。
その割には落ち着いている自分がいたが、ふと、周りを見回して、ラインディルトが呆然としているのが目に入り、その後ろの窓の向こうに動く人影が見えた。
何の意識もせずに視界に入ったその人影が、ふいに不自然な動きをして、僕は違和感を覚えた。
あれは・・・。
「どうかしたのか?」
目を凝らして外を見る僕の様子がおかしいのを感じたのか、エヴァンシェッドが僕に尋ねたが、僕はそれを無視してそれをよく見ようと、立ち上がり窓際にずんずん歩いた。
「おい、貴様!・・・おい、あれは・・・。」
突然の行動にラインディルトが僕の肩に手をかけ詰め寄った。
そして彼もその景色の異常さに気が付いたらしい。
だって、平和と平穏を体現させたような天近き城で、槍に貫かれている人の姿なんてありえない光景だ。
しかも、まさか槍に貫かれているその人物は・・・。
「ヒロちゃん!!!!」
悲鳴に似た絶叫を上げ、僕は窓を開け放ち、ラインディルトの静止も、何もかもを振り切って離れを飛び出しだ。
どうして?
どうして、ここにいるの?
そんな姿で!!!
急展開続くです。エヴァの正体にエヴァンシェッドとの関係など、色々一度に説明してしまったので分かりにくかったから、すいません。
ところで、エヴァがヒロをどうしてこれほど執着するかについて、疑問に思う部分もあるかもしれないですが、これについては他でまた詳しく書きたいと思っているのでご容赦ください。
第一部は次回で終る予定です。交わるヒロとエヴァの物語の行き着く先まで、お付き合い頂ければ幸いです。(ちなみにここでエヴァンシェッドを迎えにいった女性が、ヒロと話しているときにエヴァンシェッドを呼んだ女性です。)