第二十話 天使が語るは嘘か真か 其の三
突如として現れた片翼の天使と女性天使は、私が二人の存在をきちんと認識するより早く私の目の前から消えた。
何だか私にはあの美貌の天使が夢か幻のような、狐につままれた気さえして、呆然と立ちすくんでいた。
それでも、しばらくすると酷く疲れた顔をしたエンリッヒとシャオンが戻ってきたので、何事もなかったように二人に声をかけた。
「何かあったのか?」
あんな大慌てたっだのだ。何か重大なことでもあったのだろうと私が問うと、二人は力なく笑って言った。
「まあ、喧嘩するほど仲がいいちゅーことですわ。」
「ほんと、何であんな、どうしよもないことで喧嘩できるのかしら?」
と詳しくは教えてくれなかったが、何はともあれ大事には至らなかったらしい。
そして、互いに気を取り直すと再び私に会いたいという人物の元へと向かうことにする。
「お待たせして、すいまへんでした。さ、向こうさんもヒロさんを心待ちにしとると思いますから、行きまひょか。」
「ああ。」
何事もなく二人の後に続く私。
しかし、美貌の天使によって、思い起こされたあの記憶が焼きついて離れないまま、私の心を大きく揺さぶり続けていた。
第二十話 天使が語るは嘘か真か 其の三
私が二人に連れてこられたのは、飾り気はないが高貴な薫りが漂う一室だった。
窓は大きく開け放たれ、さわやかな風がレースのカーテンを揺らし、優しい光が部屋を明るく照らしていいた。
「エンリッヒ様、ご無沙汰しております。」
その部屋で私たちを迎えた声に振り向くと、そこには一人の慇懃無礼な黒のスーツを着込んだ翼がない人間の女性が立っていた。
そう、人間だ。
自分のことは棚に上げて、まさか高位天使しか入ることを許されないと聞いていた天近き城で、人間を見るとは思っていなかった私は酷く驚いた。
しかし、単なる野次馬根性でしかないことは自覚していたので、彼女が何者なのか聞きたい心をグッと堪えて、エンリッヒの後ろで沈黙した。
「リンズさんもお元気そうで何よりですな。約束しとるんやけど、あの人はおります?」
どうやら顔見知りらしいエンリッヒは、あの胡散臭い笑み満開で話しかけたが、リンズと呼ばれた女性はその笑みに笑みを返すこともなく淡々としたものだった。
「はい。聞いております。すぐにお呼びいたしますから、そちらでお座りになって、お待ちください。」
リンズは深々と頭を下げると、そのまま部屋の奥に消えていく。
私たちはそれを見送ると勧められるがまま、テーブルセットに腰掛けた。
「うわ!おいしそう。」
テーブルの上には、既にお茶の用意がなされていた。
その準備されていた美味しそうな匂いが立ち上るお菓子を前に、シャオンが女性らしく声をあげ、それに手を伸ばそうとした。
「つまみ食いはあかんよ、シャオン。あの人、あれで意外と礼儀作法には厳しい人やから。」
しかしつまみ食いをしようとしたシャオンのその手を、ぴしゃりとエンリッヒが叩いた。
それに対して、シャオンは不満そうに頬を膨らませた。
「え〜?うそぉ。あのお優しい聖母様みたいな方が?前々から思ってたけど、あんたのあのお方に対する態度って、ちょっと冷たくない?」
「・・・。」
信じられないと言わんばかりのシャオンの言葉に対して、エンリッヒの笑みを強張らせて黙り込む様子が目に入って、私は少し首をかしげる。
一体どんな人なんだろうと、私が二人の会話から今から会う人物を想像するより先に、部屋の奥の扉が開いたので、思考はすぐに中断した。
扉が開いたと思ったその瞬間に、エンリッヒとシャオンが椅子から立ち上がり礼をした。
その表情や身のこなしに、ついさっきまであったのんびりとした空気はなかった。
その空気に呑まれるが如く、訳が分からないまま私も一拍遅れて、それに習った。
そして、その人は私の前に現れた。
「お待たせしましたね。久しぶり、エンリッヒ、シャオン。そして、始めましてヒロ。さあ、頭を上げて。わたくしの名はサンタマリア。三大天使が一人、明海の天使です。」
目の前に現れたのは、アーシアンにとって本来ならその名を口にすることも憚られる存在だった。
しかし、その事実をきちんと理解しても、私はさほど動揺しなかった。
『三大天使』と言う存在に、驚かないわけでも、怯えないわけでも、畏れを抱かないわけでもない。
少なくとも私は、そんな感情を捨てれるほど気の大きな人間ではない。
ただ、その三大天使と名乗る女性が醸し出す穏やかな空気が、私のそういった全ての感情を消し去ってしまったのだ。
それでも三大天使と聞いて思わず、まじまじと観察してしまった私であるが、いくら彼女を見つめても彼女と目が合うことはなかった。
彼女は瞼を閉じ、その瞳を私に見せることがなかったからだ。リンズが手をとって彼女を誘導していることから、恐らく盲目なのだろうと想像が付いた。
そして、サンタマリアは女性にしては背は高く、長い紫がかった髪は足元にまで達している、そして翼はまるで波立つ水面のようにグラデーション状の美しい青色をしていたた。
しかし、三大天使の一人が明海の天使・サンタマリアという肩書きから、さぞ美くい天使だろうと思われる人も多いだろうが、まあ、女性には失礼だとは思うが、目の前の天使が私には特別に美しい姿をしているとは思えなかった。
もし最初に三大天使と聞かなければ、どこにでもいそうなこの城には不似合いな、平凡な天使だと私は思っただろう。
だからこそ、緊張も畏怖も彼女には感じないのかもしれないなと、私が最高位の天使相手に大変失礼なことまで考えていると、瞳を開けることはなくてもその穏やかで豊かな表情でサンタマリアは微笑んだ。
「さあ、皆座って、座って。リンズ、お茶を入れて頂戴。」
開かれることのない瞼、リンズに手をとられて席に着くサンタマリアの足取りは確りとしていたが、その様子は彼女の瞳が見えていないという私の考えを確かなものにした。
「かしこまりました。」
サンタマリアを椅子までエスコートすると、リンズが私に入れたてのお茶を差し出してくれる。
それに対して礼を言えば、目礼してそれに答えるその姿は女性ながらに立派な執事のように見える。彼女はサンタマリアの世話役・・・と、いうことなのだろうか。
しかし、それについて詳しく考えるより先にサンタマリアに声をかけられた。
「突然呼び立てたりして悪いわね、ヒロ。」
「いえ・・・。」
正直、言いたいことは本当なら山ほどあるが、さすが世界を支配する天使の中の天使。
その平凡ながらもシャオンが聖母様と称した、後光すら射していそうな姿に、私の文句など気軽に言えそうな雰囲気は皆無であった。
気後れした小心者の私が、それ以上何もいわないと、サンタマリアがみえない目で私に顔を向けたまま言葉を続けた。
「エンリッヒから聞いていた話ではとても強いアーシアンだそうだけど、ワンピースを着ているようじゃ、とてもそんな風には思えないわね。」
「!」
目が見えていないと思い込んでいた私は、その言葉に大いに驚かされた。
驚きも覚めやらぬまま、更なる爆弾が投下される。
「貴方が考えているように私は瞳による視覚は失われているけれど、私にはそれ以上のものが色々見えるの。例えば、貴方がワンピースは早く脱いでしまいたいとか、ヒールが高くて歩きにくいとか、そういった心の中さえ見れれば、貴方の今の姿を想像することは容易いわ。あら?不本意そうね。私のいっていることは間違っている?それともその格好が嫌なだけ?」、
「・・・こういう動きにくい服は、着慣れていないもので。」
微笑むサンタマリアに、私が返すことが出来たのは、それだけだった。
心の中が見えると、彼女は言った。確かに彼女の言った私の心中は当たっていた。
しかし、それだけでこの女が私の心を見ることができると、私が安易には信用するはずもなく、サンタマリアだけでなくエンリッヒやリンズの表情も窺ったが、誰しもその言葉に動揺している様子もない。
サンタマリアが心を見る能力は周知ということか?いや、口裏を合わせているだけ・・・、私を動揺させる意図があるだけかもしれない。
疑う心は、余計なことは口にすまいと私の口を重くした。
しかし黙り込む私など関係なくサンタマリアはリンズを呼び寄せ、私に動きやすい服を用意するように指示し、リンズはそれに従い部屋を出て行った。
「あらら、折角可愛らしくしましたんに。」
サンタマリアの指示に、わざとらしいほど大きなリアクションでエンリッヒが残念がり、シャオンもそれに頷くが、サンタマリアは二人に首を振る。
「二人ともヒロは不浄の大地に生きる『黒の一族』の末裔、生きるために戦い続ける戦士に、動きにくい服装など不安でしかないわ。後、エンリッヒ、貴方が取り上げたその武器も返して上げて、戦士にとって武器は体の一部よ。」
サンタマリアの思いもよらぬ言葉に、私もエンリッヒたちも驚きに目を見開いた。
「ば・・・、何を考えとるんでっか。そんなことしたら・・・・。」
エンリッヒは私をちらりと見やりながら抗議の声を上げた。
その手にはずっと、彼の大鎌と一緒に油断なく私の黒の剣が握られている。
「心配せずとも、この人はこんな天使だらけの場所で戦うほど馬鹿ではありません。あなただって、自分の武器が取り上げられたら不安でしょう?これから話すことのために、ヒロには私を信用してほしいの。武器を返すということは、その気持ちの表れなの。」
毅然とした、異を唱えさせない言葉だった。
その態度の前にエンリッヒは、あの笑みを浮かべる余裕もなく、しぶしぶながら私に黒の剣を差し出さぜるをえなかった。
エンリッヒは妙なマネをするなと低く言ったが、私はそれには答えなかった。
確かにサンタマリアが言うように、逃げる場所もないような敵地同然の場所で、大立ち回りするような馬鹿な真似をする気はない。
それでも、チャンスさえあれば、いつでもこんな場所から逃げ出したいという気持ちは強い。
確かに天使の領域は、最後の楽園といわれるに相応しい場所かもしれないが、私には決して相応しくない場所であることは、僅かな間、この楽園の空気に触れることで骨身に沁みていた。
そんなやり取りをしていると、リンズが洋服をもって返ってきたので、私はそれを受け取り、着替えるための部屋に押し込まれる。
武器を持たせた私を一人にするのも、私を信用しているというサンタマリアの気持ちというわけである。
私は着慣れないワンピースを脱いで、その用意された動きやすいだろう服に袖を通しながら、サンタマリアの言っていたことについて頭をめぐらせた。
彼女は私に信用して欲しいといった。
信用させて、私に何を求めている?
果たして、その言葉を、その意味どおりにとっていいものだろうか。
何せ相手は、心の中を見るとまで言いのけた、化け物としかいいようのない三大天使だ。心が落ち着かないのも無理のない話であるのだ。
まあ、私がここで色々考えたところで、何をどうこうできる相手ではないのは分かりきったことなのだが、それでも、今は黒の剣がこの手に戻ったことで、私の心はいくらか落ち着きを取り戻しつつあった。
それに服を着替え、化粧を落とした私は印象も全く変わり男にしか見えない、そうした元の私に戻ったことも、私を落ち着かせる要因になった。
そして私は怯えそうになる心を引き締めるためにも、黒の剣を握る手に僅かに力を込める。
しかして、少しばかり気後れしている私の心とは反対に、これから起こる想像できない全てのことに、喜んでいるような黒の剣の胎動を感じて私は僅かに苦笑した。
全く、どこまでも持ち主に似ない武器だ。
しかし、そんな黒の剣に勇気付けられて、私は少しだけ勇気を奮い立たせたのであった。
そうして、灯った小さな勇気が萎む前に、さっさと話を終えてしまおうと、天使たちの元に戻った私は、率直に話を切り出した。
「それで、アーシアンの私に三大天使のあなたが、一体何の用があるというんだ?それにさっきあなたは私のことを『黒の一族の末裔』と呼んだ、それは何だ?」
「あらあら、せっかちね。まあ、一ヶ月も拷問され続け、あんな変な科学者に殺されそうになったんだもの、これ以上焦らされるのも嫌よね。そうね、簡単に言えば、私はね、ヒロ。あなたに私たち天使に力を貸して欲しいの。」
・・・嘘くさ。
私は言われた時反射的に思った。
神の力を操る天使が、しかもわざわざ三大天使直々に、どうして何の力も持たないアーシアンの力を借りなければならないというのだ。
「私の話、信用していませんね?」
「・・・。」
その通りだったが、それには言葉を返さなかった。
「まあ、明海の天使である私が、人間のあなたに力を借りたいなどと、普通は信用できませんよね。そのお気持ちはわかります。ただ、これから聞く話を聞けば、私の言っていることも少しは信用してくれると思っています。」
大した自信である。
まあ、確かに彼女だけではない、Drパルマドールの言葉から、もう一人の三大天使も私に何かしら目をつけていたようなのだ。
それに冗談だけでここに私を呼ぶほど、三大天使というのは暇な存在でもないだろう。
何かあるとしたらと思いながら、手の中にある黒の剣に意識を向けた。
黒の武器と、呼ばれるこれしかないだろうとは思いつつも、何を聞かれたところで、私は何も知らないのだという思いがよぎった。
そう思うと、断罪の牢獄でのハクアリティスをめぐる問答と拷問を思い出して気が重くなる。
結局、あそこに立ち戻るのではないだろうかという考えが胸をよぎったのだ。
「心配しなくても、拷問なんてしないわ。」
心が読まれた。
「でも貴方の考えは、正解よ。」
サンタマリアの、瞼の閉じられたままの、のっぺりとした顔が笑みを深めた。
その笑みが、心を読まれているという焦りが不気味な色をのせた。
「黒の武器。私はその力が欲しいの。黒き神が残したその遺産が。」
そうして、明海の天使は語り始めた。
嘘か真か分からぬ、世界にたった一人の神と全てを消された神の物語を・・・。