第164話 楽園の終焉に歓喜の声を上げろ! 8
『我の中で煩いのは誰だ?』
遠くから何か言われたような気がした。
意識がはっきりしてくるのと同時に、それが声ではなく泣き声にすり替わった。
(ダ・・・レ?)
そんな風に問いかけながら瞼を開けると、世にも恐ろしい赤子の顔のアップが迫る。
「うわっ…」
思わず赤子を放り投げそうになったが、かろうじて思いとどまり、それと同時に記憶が蘇る。
あれだけの高さから落ちたにも関わらず、私はオウェルに最後までしがみつき、彼をクッションにしたことで五体満足でいられたようだ。
体は痛む部分も多いが動けないほどじゃない。
赤子も元気良く泣いていることから、大した外傷等はなさそうだ。ただ……
「おい、オウェル!!」
私たちのクッションになる形で地面に打ち付けられたオウェルは、呼吸のための上下運動はあるものの完全に沈黙してしまっていた。
その呼吸も今にも消えそうに細い。
手当てしたやりたいところだが、今はそれもできる状況ではない。
混乱と焦りの中でオウェルを見下ろしながら次の逃げる算段を考えようとした時、私に降り注ぐ太陽の光が遮られた。
雲ひとつない空であったはずなのに、そう考えた次の瞬間に胸がひやりと冷える感覚。
「!!!」
恐怖に突き動かされて見上げた空に息をのむ。
「ウァブーシュカ!!!」
どうやらオウェルの墜落により、あっという間に追いつかれたらしい。
私が見上げる空の全てを覆い尽くすほどの巨体は白っぽい硬質なもの、まるで鱗のようなもので覆われている。
巨大な化物はこちらに顔らしき方向をゆっくりと下に向けると、大きく口を開けた。
その中はまるでブラックホールのように何一つ存在しない闇が広がっていた。
ウァブーシュカは大きく息を吸うと、一気に声を吐き出す。
「うわああああ!!」
何が起こったか分からないまま、ウァブーシュカにとっては吐息だろうが、それが私にとってはすさまじい突風となり、私は一気に吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。
衝撃に目の前に星が弾けて散る。
遠のく意識を必死に掴みとめながら、腕の中の赤子だけは離すものかと抱く腕に力を込めた。
赤子に思い入れがある訳じゃない。
だけど、私はクゥとこの赤子を無事にあの娘に返すと約束したのだから。
衝撃に叩きつけられて立ち直った瞬間に、ウァブーシュカの様子を確認することもなく私は自分の足で駆けだしていた。
走り出した途端に頭をぶつけたのか、ぐらりと体が傾くが、無理やりに態勢を立て直す。
どろりとしたものが頭から流れ出たのを感じた。確認しなくてもそれが血だと分かる。
だが、それを確かめることもなく私は全力疾走した。
ぞわりと私の背中に感じるプレッシャーが凶悪さを増す。
逃げられたことに苛立ちを感じているのか、ウァブーシュカが大きく一つ吠えた。
(逃げられない!)
遠目で見ていた時には、何かしらこの化物から逃げ出す方法が見つかるに違いないという楽観的な考えがあった。
しかし、ウァブーシュカと言う存在は私が考えているよりも、はるかに規格外だと肌で感じて理解できた。
不浄の大地の大地につき立つ岩肌が崩れる音が断続的に響く。
ちらりと背後に視線を送れば、地面に体を埋めて大地を喰らいながら追いかけてくるウァブーシュカが目に入る。
その様は正に悪夢。私の中には恐怖しか存在しなくなった。
それももう私から数百メートルも離れていない。
このままいけば、あっという間に地面と共に私は赤子共々、ウァブーシュカのあのブラックホールの如き体の中に喰われる。
「はあっ…はあ…」
死ぬほどの全力疾走に筋肉と肺が苦痛を訴える。
それでも足を止める訳にはいかなかった。
ただただ恐怖に突き動かされて必死で逃げる逃げる逃げる…ふと、そういえばこんなことが前にもあったと脳裏に過る。
『良かった!怪我はなさそうだね、ヒロちゃん!』
酸素が足りなくて朦朧とする頭にそんな懐かしい声が響く。
そういえば、まだただの何も知らずにエヴァと旅していた時も怪物豚に追いかけられてこんな風に全力疾走で逃げていた。
ただの人間だろうが、世界の楔なんて大層な存在になろうが、私という存在に進歩はないのだと思わず笑みが浮かんだ。いや、苦しすぎて多分表情は笑みにはならず、見苦しい顔になったに違いない。
そう…私はいつだってみっともなく、それでもただ全力で生きているだけの小さな存在。
それが私。それでも私は―――
「あっ!!」
飛び散る岩の大きな欠片が私の背中に直撃した。
痛みよりも、その勢いに全力疾走していた私のバランスがぐらりと揺らぎ、そのまま地面に倒れこむ。
赤子が傷つかぬように腕に囲みこみ転んで、転がった私は背中から倒れこんだ。
途端に目の前に広がるウァブーシュカの大きな口。
大きすぎるそれは私の視界いっぱいに広がって、もう口以外には何一つ存在しない。
きらきら光る外側と全く違う口の中は、まるでブラックホールのように真っ暗な闇が広がっていた。
その中に入ったら二度と外に出られない。
それを見た瞬間にそれを確信させる闇。全てを無に帰すための闇。
私はその闇の中に取り込まれることを確信した。
咄嗟に右手に嵌る指輪を赤子の小さな手に握らせて、口の中で呪文を小さくつぶやく。
赤子は血に濡れた指輪を抱いたまま、彼の大切な人の元へ戻り、私はその場にただ一人残った。
「―――これでいい。」
吐き出された独り言と共に、私は次の瞬間深い深い闇の中に溶け込んだ。
『お前は誰だ?』
気がついた時、私は白い空間にいた。
てっきり光一つない闇の中だと思っていた私はほんの少し拍子抜けする。
そう、ここはウァブーシュカの胎内。
『私はヒロ。』
そう言葉を発することはできたが、白い空間の中で私と言う体は存在しなくなっていた。
私は白い空間に溶け込んだまま、体を失い意識だけの存在になっているようだ。
それでも不思議と逃げ回っていた時の恐怖や焦りは湧いてこない。
『我の体の中でどうして個を保つ?我は全てに終わりを告げる者・ウァブーシュカ。我の中では人も神も全ての生物が無になる。』
『私は世界の楔になったことで、元々お前の一部だからじゃないか?』
体は無に帰されても、意識だけが私として残っていることがウァブーシュカには疑問らしい。
ウァブーシュカの胎内に取り込まれたことにより、私はウァブーシュカの意識を強く感じるようになったようだが、それはウァブーシュカも同じらしい。
しかし、それは彼?彼女?にとってはなじみない感覚らしく、彼(とりあえず彼にする)の戸惑いが強く感じられた。
『我とお前は違う。いや、そもそも我という個はどこにも存在しない。我はただ役割を遂げるためだけの存在であり。我という個も、お前という個も我の中には存在しない。そうであるのに、どうして我はお前と対話している?お前は我と対話している?』
『ああ、お前に自分を認識する個は本来なかったんだろう。ただ、灰色の魔力を喰らうだけの存在に個は必要ない。だが、世界の楔と繋がった時、お前は変わったんだよ。私の前の世界の楔、お前の中に誰かが存在した時、お前の中に『個』が生まれた。だからこそ、お前は世界の楔によって制御されるようになった。』
そう。だからこそ私もそれに賭けた。
最終手段だと思っていたけど、最終はこの化物の中に取り込まれてでもウァブーシュカの意識に干渉して、世界の終わりを止める。
うっかり喰われたところで、私と言う存在も消え果て、そもそもウァブーシュカという個すら存在しなかったら元も子もないのだが、まあ、こうして私の憶測は当たっていた訳だ。
だが、ウァブーシュカの方はそれで納得いかないらしい。
『我には世界を終わらせるという役割しか存在しない。そして、今はその時、我は誰にも制御されない。』
『我とか個とか…それは全部、相対する相手があって初めて存在する。一人だったら、自分の認識する言葉も、誰かと比較する言葉も必要ないからな。そもそも世界というのは常に相対する・相反する存在があってこそ成立している。生があるから死が存在し、死が存在するから生が存在する。どっちがなくては、どちからが存在する意味はない。死がなくては、生きるということに意味はなく。生という事実がなくては、死は意味をなくす。』
『意味が分からない。』
『分からなくてもいいさ。私が少しずつ教えてやる。』
『お前が?』
その声にはまるで迷い子のような気弱なニュアンスがあった。
どうも結局、私はこういう存在と共にある運命らしい。
それでもいいと思えた。
私がどれほど見苦しく生き恥をさらしながら生きてきたように、この世界全てにはそうやってでも生きていく権利がある。
それは決して誰かが勝手に終わらせるものじゃない。
生きている限り死が常に付きまとい、それは予期せぬ形で訪れることもあるだろう。
人はそれを運命と呼ぶかもしれない。仕方ないと諦めるのかもしれない。
それでも…生きている限り、それはその生者だけのものであり、生者と関係する者たちのものだ。
そして、私も…体がなくなろうが、ウァブーシュカに取り込まれようが、まだ私と言う個がある限り、それは決して生の終わりじゃない。
『ああ。だから、世界を壊すのはもうやめろ。この世界のことお前も知りたいだろう?』
自分でも軽すぎる言葉だと思ったが、内心では必死だった。
一歩間違えばウァブーシュカはこのまま大地を喰らい尽くすつもりなのは、取り込まれてすぐに理解していた。
『……』
『迷っている。それはお前に世界が知りたいという欲求がある証拠。それこそお前に個がある証。さあ、行こう。私にもお前が知っている世界を教えてくれ。私はもっともっと世界のことを知らなくてはならないからな。』
『どうしてだ?』
『世界を変えるためさ。』
そう言い切った自分に迷いはなかった。
異能者によって歪んだ世界、いや、異能者すらも歪められた世界。
この世界の成り立ちは絶対におかしい。
歪んでいても何でも叶えることができるこの世界を楽園だと呼ぶ者がいるかもしれない。
だったら、私はこの楽園に終焉を告げる者になる。
誰もが幸せだと思える世界、誰も犠牲にならない世界、それを造るのは永遠に不可能かもしれない。単なる絵空事なのかもしれない。
それでも願わなければ何も変わらない。想っているだけじゃ変わらない、言葉にするだけじゃ変わらない。
自分のために、仲間のために、世界のために、私は世界を変える。
そのために私はとりあえず『私を変える』ことから始めることにする。
自分のことで精一杯である自分、世界を知ろうとしなかった自分、…自分の嫌いな部分なんてありすぎて困るくらいだ。
とりあえず、そこから始めよう。
私と言う個から世界を変えるなんて、それはあまりに時間がかかることかもしれないけど、それでも自分を変えることを世界の全ての生きる者が始めた時、それはきっと大きなうねりになるに違いない。