第156話 そして私は楔となる 4
「ぐずっ」
しばし号泣の後、私は意外と速く泣きやんだ。
「ブ―――っ!」
思いっきり鼻をかめば、自分の中で妙にすっきりした感覚だけが残る。
悪魔のというか、元々は私の着ていた服の裾が長かったので、他に代用品もなくその裾で鼻をかませてもらった。
思いっきりそれをなした私の顔を、いくらかひきつった顔で悪魔が見返す。
「……大丈夫かよ?」
私はそれに言葉なく、一つ頷くことで答えた。
「ったく。殴られるくらいは覚悟したが、あんなに泣かれるとは思わなかったぞ。しかも、大の男の涙なんぞ可愛くもなんともないし……でも、まあちょっと安心した。」
悪魔は言いながら私の肩を拳で叩く。
「世界の楔がお前で良かったよ。お前になら世界を任せられる。何処までも人間らしさを失わないお前なら、失うことの苦しみと悲しみを知ってなお生きようとする強さがあるお前なら、世界をいい方向に変えられる。俺はそう信じるさ。」
いやいや、世界を任されるなんて正直勘弁願いたいと言いたかったが、笑う悪魔の顔はあまりに清々しく、私はこの状況に不釣り合いなほどのその表情に毒気を抜かれた。
「じゃ、俺も行くわ。後はお前に任せた!」
そして、そうやってあまりに明るい声で悪魔は世界の理の方に駆けていってしまうと、跡形もなくその姿を消した。
―――カツン
後に残った彼に突き刺さっていた全知の杓杖が、音を立てて地面に落ちる。
何というか世界を任されたにしては、それまでの重々しい会話とは打って変わった軽々しい別れ。
私はそれを形作った要因が自分であることは承知していたが、思わず茫然としてしまった。
「あれ?」
思わずそんな呟きがこぼれおちてしまうくらい、それはあまりに呆気なかったのだ。
『あ!そうだ忘れてた!!』
しかし、そんな別れの余韻の中で、悪魔がうっかりと言ったように声だけを私によこす。
私は呆然としていたので驚きすぎて少しだけとび跳ねたが、悪魔はそんな私の様子などお構いなしで言葉を立て続けに畳みかける。
『ラオの方は世界の理になったが、万象の天使の方はラオとは相いれなかったから、多分体の方に残ってるはずだ。』
その言葉にすっかり忘れていた倒れている万象の天使に目をやった。
目を覚ます気配はないが、息をしているらしく胸は浅く上下を続けている。
『そいつにはまだまだ天使を導く役割と責任が残ってる。悪いが、全知の杓杖をそいつに返してやっといてくれな!』
と、それが本当の意味で悪魔最後の言葉となった。
「……」
こちらの返事すら聞かない一方的な言葉にやはりしばし茫然として、
「はあああああ」
私はここ最近稀にみる特大の溜息を吐きだした。
そして、溜息を吐きながら見上げた世界の理には、子供の左右でそれを抱きしめる一組の男女の影を確認することができた。
この結末が正しかったのかなんて私には分からないし、やはり納得できない部分は大きい。
それでもあくまでそれは私の考えであり、彼ら3人の想いはきっとまた別なのであろう。
そう思うことで私は少しだけ救われたような気がした。
背中に背負う存在がごそごそと動いて呻くのを感じて、私はそれを振り返った。
「起きたか、万象の天使。」
「―――ヒロ!?俺はっ」
「いきなり人の背中で動くな!」
私を確認した途端にがばっと体を起こそうとした天使を怒鳴りつける。
結局、声をかけても叩いても起きなかった天使を私はとりあえず放っておくこともできず、担ぐことにした。
それを下ろすと天使は酷く神妙な顔をして私に問うてきた。
「神に忌み嫌われた子供は?」
ずっと子供に体を乗っ取られ続けていたという自覚はあるらしい、その問いは一連の事象をある程度理解したうえでの問いかけだった。
「世界の理になった。悪魔も一緒だし、当分はこの大地も安泰だろう。」
「俺はどうして?俺は……」
本当に訳が分からないといったその様子に、彼もまた色々なことに巻き込まれ翻弄されてきた人物などだと知る。
「お前と子供は元は同じ魂だとしても、その離れすぎていた時間が長すぎて、はっきり言って同じ魂とはいえなかったってことらしい。私も詳しくは分からないが、悪魔はお前に天使たちの責任をとれって言っていた。」
全知の杓杖をそう言って早々に返す。
ラーオディルが抜けて完全な万象の天使を見ると、泥だらけで血だらけでもやはり近寄りがたいほどの美しさである。
白き神が灰色の魔力によって造りだした人工的な命と魂。
同じく魂を灰色の魔力によって形成された私と彼では、よく似た境遇だというのにどうにもこの天使には私との共通点というものが想像し辛く、私は彼が苦手だ。
「……そうか。」
そんな思いはとりあえず置いておいて、天使は私のそんな大雑把すぎる説明で大体のことは理解してくれたらしい。
彼は杖を受け取ると、気持ちをすぐに切り替えたらしい。
「それで他はどうした?」
「他?」
だが、すぐにそう言われて天使に目をやった瞬間、彼の首に何かがからみつくのが見えて私は驚く。
「!?」
そして、それに気がついた次の瞬間には強い力に突き飛ばされる。
「他…だなんて、酷い言い方ではなくて?愛しいヨイ。」
そこには血みどろの女が立っていた。
目は黄金に爛々と輝きながら血走り、長い髪にも白い肌にも血糊がこびりついた、女神と言うよりはまるで暗黒的な儀式の最中の魔女。
「し…白き・神。」
そういえば白・黒の神は互いの譲れない願いの為に戦っていたはずだ。
「嫌だわ。貴方にならば名前で呼ばれても構わないと言ったじゃない。ヨイ。」
万象の天使の背後からまるで蛇がとぐろを巻くような粘着質な感じで抱きついて、白き神は恐ろしい顔に妖艶な笑顔を張り付けた。
天使の首筋にあてた指には、刃物のように鋭く長い爪が突きつけられる。
その爪から恐らく黒き神の思しき血が滴り落ちている。
「俺はヨイじゃない!」
だが、その凶刃を恐れずに天使は白き神をはねつけてそう叫んだ。
「ヨイ?」
そんな彼に白き神が茫然とその名を呼び、露わになった白き神の更なる恐ろしい姿を私は見ることとなる。
天使が盾になっていてその全貌は見えていなかったが、白き神が着ていたはずのドレスのほとんどは視る姿もなく、白だったそれはどす黒い赤に染まっていた。
更に天使の首筋に突き付けていない方の腕を見て私は驚愕する。
血まみれのそれは明らかに白き神の『腕』ではなかった。
そこには細い女の腕の2倍はあろうかという筋肉質で体毛の濃い腕が、その先は天使に突き付けていた長い爪ではなく、短い武骨な指が5本付いた明らかに男の拳が存在していた。
天使の言葉に茫然として、だらんと下げられた両の腕の長さは明らかに違う。
「どうして?ねえ…なんで貴方もウ・ダイも私の言うことを理解してくれないの?」
魔女の顔が一瞬だけ、頼りなげなあどけない少女の顔になる。
「やっぱり…全部初めからやり直さないと駄目?貴方もウ・ダイも一回リセットして、新しい貴方達に生まれ変わらせないと駄目なの?ああ!!何処!?」
静かだった声は自分で言っていることに興奮してきたのか、次第にヒステリックになっていく。
対ではない二つの腕が激しく揺れて、彼女は男と女の手で自分の顔を覆った。
べったり掌についた血が、顔に更なる恐怖を重ねる。
「世界の理!!!何処!?エンシッダ、早く早く!世界を変える力を私に!!!!」
ヴィ・ヴィスターチャには先ほど出会った。
彼女と一緒にはいなかったエンシッダは果たして生きているのかも不明だ。
黒き神の気配もここからでは感じない。
こんな状況の白き神に二人の安否を確かめる術はない。
「無駄だ。白き神。」
だから、私は私の口でその事実を告げる。
白き神のあまりに鬼気迫る様子に圧倒されて、体は本能的に震えていた。
それでも私には告げる義務がある。白き神と相対する責任がある。
「ドーイウ・イミ?」
ゆらりとヒステリックな様子が消えて、静かに低く問われた。
ころころと変わる白き神の人格が恐ろしかった。
「世界の理は貴方のためには動かない。異能者は私が殺し、神に忌み嫌われた子供が世界の理になった。そして、悪魔はその傍らに存在する。貴方が悪魔を餌に子供を利用することは永遠に不可能になった…そういう意味だ。」
彼らはカグヤか、ラーオディルに契約を持ちかけて世界の理を変えるつもりだった。
だが、カグヤは消滅し、ラーオディルが悪魔と言う目的を達成した今、それは決して叶わぬ願い。
「悪魔が?あの子供を許したというの?共に永遠に苦しむ道を選んだ??ローラレライを見捨てたというの?」
「ローラレライも二人と一緒だ。彼らは3人でいることを選んだ。」
その言葉に言葉を失った後、白き神から急速に狂気に満ちた表情が消えた。
だらんとしていた体は背筋が伸び、血みどろの彼女が狂気の魔女から威厳ある女神へとその姿は変化した。
その姿は見た目には恐ろしげな魔女のままだが、畏怖を感じるほどに神々しくて私はたじろいだ。
「なるほど、ではここにはもう私が求めるべき力はないということですね。よくわかりました。ありがとう、何一つ持たない者・新たなる世界の楔。」
口調も表情も気配すらも一変したその姿。
まさか、白き神は多重人格者なのかと疑うほどの身の変わりようだった。
それは意図されておこなわれているのか、それとももはや白き神の人格は灰色の魔力によって崩壊されてしまったというのか。
だが、どちらにしても彼女に対する底知れぬ恐怖が私の心臓にひたりと冷気を落とす。
くるりと私たちに興味を失ったかのように白き神は背を向けた。
「どうする気だ?白き神!!」
「世界の理の現在の異能者が使えないというのであれば、新しい異能者を造るだけ。」
「な!?」
背中を向けていた白き神が驚く私を振り返る。
「貴方にはまたすぐに異能者を殺していただかなくてはなりません。そこで大人しくしていてくださいね。」
にっこりと笑ったその瞳には、人格が何度入れ替わろうが耐えることのない深い深い黄色の光が宿ったままであった。
その色は何処までの正気ではなく、間違いなく狂気に囚われた色。
白き神が何をしようとするのか定かではないが、間違いなく世界に新たなる危機が迫っていようことは確かであった。
『お前はまだまだ戦わなくちゃならないからな。』
そういった悪魔の言葉が蘇り、私は苦々しい思いで舌打ちを一つした。