第155話 そして私は楔となる 3
<SIDE ヒロ>
がくりと悪魔の腕の中で意識を失った男…その中からラーオディル・オヴァラという存在が消えたことを私は悟った。
子供のあどけなさがなくなり、その表情は意識を失っていても一変したのが分かった。
悪魔の腕に抱かれたままあまりに安らかな表情のまま消え去った子供に、私は追いすがる声すらかけることができなかった。
呆然としながら、カグヤを殺した時に粉々に割れたと思われる世界の理の散らばっていた破片がキラキラと輝きだす。
「?」
何が起こったのだろうとあたりを見回すと、淡い光を放った破片たちはそのまま忽然と姿を消すと、次の瞬間に元通り世界の理として存在していた。
その中心に胎児のように丸まって収まる子供の人影が見える。
新たなる世界の理の誕生であった。
「これで本当にお前にはもう誰もいなくなっちまったな。」
それを茫然と見上げていたが、悪魔のその言葉に意識が現実に戻る。
「黙れ!!」
胸を貫かれたままへらへらと笑う悪魔を見下ろす。
先ほどまで私を鬼気迫る様子で殺そうとしていた人物とは思えない緊張感のなさに、急激な怒りが湧き上がる。
「そうかっかするな。お前、世界の楔だといっても体は人間と大差ないんだ。そのままだと出血多量で死ぬ。」
「お前はっ…!」
勢いのままに無抵抗な悪魔の胸倉をつかんだ瞬間に、悪魔の言うとおりあまりの出血の多さに意識が遠のいてふらりと体が揺れた。
悪魔とてその胸には全知の杓杖が刺さったままだというのに、何一つ変わらないままに平然として声を押し殺したように笑う。
「ほらな?だから言わんこっちゃない。…これでどうだ?」
そして、私に胸倉を掴まれたまま悪魔は私を灰色の魔力で包むと、自分で負わせた傷を治す。
灰色の魔力に治癒能力まであるとは知らなかったが、体が途端に軽くなった。
「どういうつもりだ?」
「お前はこれからまだまだ戦う。傷を治すくらいのサービスは必要だろう?」
声は軽いがその顔色は今にも死にそうなほど白い。
私は戦う意志も生きる意志すらもなくしたような悪魔に掴んだ胸倉を乱暴に突き放した。
「いてっ!折角、傷を治してやったんだ。もう少し丁寧に扱ってくれてもいいないか?」
「元々、お前がつけた傷だろうが!」
「ははっ…それもそうだな。」
怒気が削がれて、残ったのはやりきれない現実と自分の不甲斐なさへの悔しさだけ。
「…お前はこれで良かったのか?」
それは果たして悪魔に対する問いかけだったのだろうか?それとも自分自身に対する問いかけだったのだろうか?
悪魔がしたかったこと。
それは彼は私を世界の楔に仕立て上げて、異能者カグヤを殺させること。
それは本来ならば千年前に悪魔の手によってなされてしかるべき事象。
そして、カグヤの代わりに東方の楽園の新たなる人柱となるべく存在したのが神に忌み嫌われた子供。
荒れ果てた世界の中心で、世界の理は新たなる主を得てその淡い光をきらきらと放ちだす。
誰かの犠牲なしに成立しないこの大地で子供は永遠に搾取され続け、この場所で全ての幸せの為に犠牲になり続ける。
結局、事象は悪魔と私と言う実行者の違いがある訳で、カグヤが千年前に提示したとおりに成立した訳だ。
だが、悪魔は別に私に世界の理という厄介事を押し付けるためだけに、千年という年月を待っていた訳じゃない。
「ラオと一緒に永遠に苦しみ続ける道は、お前にとって納得できる結末なのか?」
千年前の悪魔とカグヤの会話が私の中で何度も繰り返される。
『なあ、時間をくれないか?』
その言葉の後、悪魔は信じられないような提案をカグヤと交わした。
「ああ…俺は納得しているよ。この世界を守るためには、もう創造主であることに飽きたカグヤが世界の理であり続けることはあまりに危険だ。彼女がこれ以上世界の理でいたら、きっと大地を消滅させてでもこの場所から飛び出していただろうからな。」
カグヤは確かにそれぐらいもう異能者であることに飽いていた。
彼女の境遇に同情こそすれ、それはあまりに無責任だ。
だが、それは異能者という存在に対する人格の否定になるのかもしれない。
ラーオディルが、エヴァが、あの場所に存在してしまったからこそそう想う。
「だからこそ、確かに実質問題として彼女の代わりの人柱は必要だった。でも、俺にはできなかった。ラオを、一人だけで犠牲にするなんて俺にはできなかった。あいつが例え世界の全てに憎まれる存在になろうと、俺があいつを許せなくても、ラオは俺の家族だ。あいつを大切に思っていた時間は、心は偽りなんかじゃない。確かに存在してた。」
悪魔の中に存在する矛盾。
ラオを憎みたい気持ちと、大切にしたい気持ち。
どうにも一貫しない彼の行動と感情の原因はそこにあった。
そして、彼は最終的にその結論を出すことはなかった。いや、出そうとしなかったのかもしれない。
子供を人柱にすることは彼への復讐なのか?
彼と一緒に永遠の牢獄に囚われることは彼への愛情なのか?
複雑に絡み合う二人の感情と事情を、他人の私が推し量ることも、それに異議を唱えることもできないだろう。
でも、少なくとも私はこの結末に納得などできそうもなかった。
「だから、一緒に犠牲になるのか?」
吐き出した言葉に悪魔は表情を泣き笑いに歪めた。
「ああ。俺と一緒ならラオの奴も多分大人しくしててくれるだろうし。お前の言葉のおかげでこうしてローラレライも一緒だ。」
悪魔が自分の持つ右手の剣を愛おしそうに撫でた。
封印された異端で出会ったローラレライの何かを決意したような儚い笑みが浮かんで消えた。
ラオを一人にできないなら、ラオを許せないけど許したいから、一緒に犠牲になろうとする悪魔。
そのためには彼が世界の楔になる訳にはいかなかった。
世界の楔になってしまえば、楔は死ぬまで異能者の監視者でなくてはならないからだ。
だから、悪魔は新たなる世界の楔の存在をカグヤに待つように提案した。
それもただの楔じゃない。
灰色の魔力によって造られた人工的な魂…『私』だ。
そう、私は元々悪魔とは違う魂だった。予言の歌の『楔』は本来ならば悪魔であった。
悪魔の転生した姿だと、何度言われても違和感が拭えなかった理由はこれだ。
それでも、様々な存在が私を悪魔だと確信していたのは、悪魔の魂そのものが私の魂の中に存在していたから。
千年前、悪魔として罪人の処刑台で消滅させられた魂は、私と同様に造られた灰色の魔力による悪魔そっくりのダミーの魂。
そして、悪魔自身は造り出した私の魂を隠れ蓑として、とある異端の一族、要するに私の祖先の中に紛れ込んだ。
そして、千年前からの予言を利用すべく時を待った。
「お前には全部押しつけて悪いとは思ってる。だが、予言通り俺が楔となれば世界は破滅さ。世界を守るためにカグヤを殺し、ラオを世界の理に仕立てた後、俺は間違いなくローラレライを蘇らせる。だが、その後、俺がラオを見捨てられるはずがないんだ。それがあいつに対する愛情なのか、罪悪感からなのかは分からないが、いつか俺はラオを世界の楔から解放する。」
そうすれば世界の理を失って東方の楽園は破滅するしかない。
「それにラオがただただ世界の犠牲になるとも思えないしな。俺を求めて、あいつはそれこそ白き神やらエンシッダを利用し、利用されてこの世界はあっという間にめちゃくちゃになるのが目に見えている。まあ、エンシッダ達はそれを待っていたみたいだがな。」
そうさせないために、悪魔は私を世界の楔として、悪魔の生まれ変わりとして偽った。
私を世界の楔として彼らの意識を集中させておいて、自分は予言を変えるべく、自分の運命を変えるべく私に隠れながら暗躍を続けていたという訳だ。
「この世界は異能者の気持ち次第であっという間に消滅する可能性のある儚い存在だ。異能者だけじゃない、神でも人間でも天使でも……誰かが本気で世界を破滅させようとしたらその引き金は誰でも引ける。」
それを知らずに平凡でも次の日が来ることを疑わずに過ごしてきた日々が遠い。
「別に俺は世界を守りたいとかそんな大そうなことを考えた訳じゃない。ただ、守りたかった。それはラオであり、ローラレライであり、俺の友達や仲間だった。その全部はもう皆ほとんどいなくなっちまったけど、そいつらがいたこの世界を残しておきたい。それは俺のエゴだ。でもな……多分、この世界中全てが抱くエゴだ。」
それでもこの結末を私は納得したくない。理解したくない。
私がしたかったこと。
家族に生きていて欲しかった。
恋人と一緒に生きたかった。
仲間を友達をエヴァを守りたかった。
誰も犠牲になんてしたくなかった。
……だけど、何一つ私はできなかった。
私は全てを失って『何一つ持たない者』になったんだ。
「私は世界の楔になるために、全部失ってきたのか?」
どんなに足掻いても私は何一つこの手にすることができなかった。手にしても失ってきた。
それは決められていたことなのか?悪魔によって動かされてきたことだったのか?
もしそうなのだとしたら、私はもう一発くらいこいつを殴らないと……いや、怒りよりもやりきれなさの方が強くなるだろう。
全部、全部初めから決まっていたことで、失うために私は人生を生きてきたというのであれば、それに何の意味があろうと言うのか?
『世界の楔』なんて私には何の意味もない。
私は私という人生を生きていたかった。
世界を救うなんて大義よりも、人間としてまっとうな人生を、大切なものと生きていたかった。
だから、否定してほしかった。
私の人生は『世界の楔』のための人生なんかではなく、私としての人生であったと……なのに!
「だから、すまない……そう俺は言うしかない。お前の人生が世界の楔という因子に引き寄せられているという可能性は大き---ヒロ!?」
悪魔は言葉を続けながら私を見て驚きの声を上げた。
それはそうかもしれない。
「う…うぐっ、ひぃう~~~っ!」
気が付けば私は恥も外聞もなく涙を流し、嗚咽も我慢していなかった。
「な?えっ…!どうしてそこで泣くんだよ?!」
そう聞かれても私も答えられない。
ただ、いろんな感情がもういっぺんに押し寄せてきて、自分の人生何だったの?状態だと宣告されて、私も自分で自分をコントロールできなくなったのだと思う。
悪魔はそんな私をどう扱っていいのか分からなくて、色々と慰めようとしているらしいが私と言えば涙を止めることができない。
いい年した大人が、世界の存亡をかけた戦いの中にいて、こんなみっともなく子供のように泣き続けるなど馬鹿な話だと思うが、それでも私は泣き続けた。
---多分、これが私が人間として最後に流す涙だと頭の片隅で理解しながら