第152話 悪魔の封印 3-3
<IN 現在>
涙が溢れるのを止めるように瞼をぎゅっと閉じ、そして、もう一度きちんと開く。
そこにはさっきまで現在と一緒にあった過去の幻影が消え、カグヤは一人になって私の前で微笑んでいた。
『ねえ、あたしをこの世界から解放して。』
過去の全てを見た私はその微笑みに返すリアクションが見つからない。
微笑み返せばいいのか、頷けばいいのか、怒ればいいのか、泣けばいいのか…過去を知り、現在の状況を把握して、自分がどうするのが一番いいのか分からない。何が正しいのか、何が間違っているのかも分からない。
だから、結局私は湧きあがった感情に従って、差し出されるカグヤに向かって首を横に何度も何度もふる。
「ヒロちゃん?」
恐らくカグヤの姿は他の人間には見えていないのだろう。不思議そうにラーオディルが問いかけてくる。
そして、先ほどまで私を殺そうと迫り来ていた悪魔が、ただ静かに私を見つめていた。
その瞳はまるで私が否定したい過去を肯定するかのようで、
「私は絶対に納得しない!」
私はとっさにそう叫んでいた。
「満身創痍でそんなことが言える立場だとでも思っているのか?」
悪魔はすぐに私にそう返す。
「何の話をしている!?」
私たちの間で交わされる言葉の意味が分からないからエンシッダが焦れたように吠えた。
だが、悪魔はそれを無感情に無視をして、私はそれに答える余裕がない。
悪魔が言うように過去を知ったところで出血多量で死にかけの私に悪魔を止める術などないのだ。
でも、だからといって全てを諦めることをしたくなかった。いや、諦めないと私は誓ったのだ。
「それでも俺に逆らう…お前がそのつもりならば俺がとる行動は一つ。世界の理が定めた運命に逆らうのであればお前に待つのは死だけだ。」
悪魔はそういうとすぐに黒の剣を構えて私に突っ込んでくる。
目にもとまらない早さとはこのことだろう。
私は攻撃に備えることすらできないまま悪魔に切り付けられ、再び地面に叩きつけられる。
「がぁっ!」
そして、そのまま地面から起き上がれない。
起き上がりたくても痛みが強く、更に悪魔はもがく私に剣の切っ先を突き付けて私の動きを完全に掌握した。
目の前すぐに迫る銀色に鈍く光る黒の剣から、私の血が滴り落ち鉄くさい臭いが漂った。
「まだ死にたくはないだろう?過去を見たというのであれば、自分のなすべきことをしろ。そうれば…」
「嫌だ!!」
大量の血を流したせいだろう。意識は何度も遠のきそうになるが、痛みが私を繋ぎとめる。
声を出すだけでも痛みは増し、息を吸っても吸っても息苦しさがなくならず、次第にぜいぜいと呼吸が浅くなってくるのを感じた。
悪魔は痛みや苦しみで私が屈服しないことをすぐに悟ったらしい。
「では、死ぬがいい。」
それならばと躊躇いもなく、そういうと私に突き付けていた黒の剣を振り上げた。
死を覚悟するのはこの状況ではあまりに簡単なことだ。
私は動かない体に鞭を打って、凶刃から逃れようともがく。
「やめて!!!」
しかし、それを行動に起こす前に悲鳴に似た叫びで私たちの間に割って入った。
その声が聞こえた瞬間、突き付けられていた黒の剣が重力に従って地面に落ち、凶悪な悪魔の気配が私から遠のく。
何が起こったのかと揺らぐ視界の先で起こっている事態に目を見開く。
そこにいたのは縄の様なものに巻きつかれ、空中で締め上げられている悪魔。
その縄の様なものの先には、
「もう…やめよう?ヴォル。」
ラーオディルが立っていた。
縄のようなものはどうやら灰色の魔力によって造られたものらしく、強い魔力の気配を感じた。
だが、悪魔はラーオディルに囚われていても、まるで焦る様子がない。
「お前がそれを言うのか、ラオ?お前が『やめろ』と?俺がどんなに懇願しても何一つ聞かなかったお前が?世界を壊してでも俺と一つになりたいと願うお前が?」
悪魔の言葉は確実にラーオディルの心を抉る。
その言葉に大人の顔のラーオディルが、子供の泣き顔のように歪んだ。
世界中の全てを敵にまわしても動じることのない子供が、今、たった一人の欲した人物によって追い詰められていた。
ラーオディルにとって悪魔とはそれだけの人物なのだと、彼と接したことで私は理解していた。
世界を壊しても手に入れたいと思ったのは悪魔という存在なのか、家族という繋がりなのか…はたまたその両方なのか。
もはや、ラーオディル自身も分からなくなっているのかもしれない。
千年という長い月日が、ただの深く暗い執着へとその姿を変えた。
その執着を悪魔の代わり同じ魂を持つ私で代用しようとして、それが満たされなければ世界の理を怖綿して全てを壊そうとした。
だが、悪魔ヴォルツィッタの完全なる覚醒によって、ラーオディルの描いたシナリオも大きく変わった。
「そうだね…千年前の僕ならヴォルのその感情を寧ろ利用して色々考えたろうね。でも、僕はヒロ…ううん、ヒロちゃんを失いたくないよ。」
そう言って私を見たラーオディルの中にエヴァを感じた。
「俺よりヒロを選ぶのか?」
「違う!僕にとってヴォルもヒロちゃんも選びようがない!!大切なんだよ、二人ともっ!!僕に大切なものをくれた!ずっと、ずっと一緒にいたいと思うくらい!!」
それはラーオディルの言葉であり、エヴァの言葉であった。
灰色の魔力による狂気が、悪魔という衝撃に一瞬だけ消え去ったような、子供のただの言葉の叫び…それは胸が痛くなるほど切ない願い。
だが、事態は更に混乱の一途を辿ろうとしだす。
「だから…もう、終わりにしよう。ヴォル。」
目にいっぱい涙をためてラーオディルは微笑んだ。
『終わり』?
私は胸を塞ぐ重苦し言葉に首を振った。
「やめろ!!」
だが、私の声など聞いていないと言わんばかりに、きれいに悲しく微笑んだままラーオディルは全知の杓杖を勢いよく悪魔の胸めがけて突き立てた。
「!!!!」
杖はまるで鋭い剣のようにやすやすと悪魔の体を貫く。
更に悪魔が背に世界の理を接していたために、杖は世界の理も同時に貫いた。
「ああ、これでやっとずっと一緒…だよね?」
恍惚としたラーオディルの表情。
「…」
胸を貫かれ、ぐったりとした様子で俯く悪魔。
「ア…アアアア!?」
止める暇も与えられず、ラーオディルの凶行を止められなかったエンシッダは狂ったように叫んだ。
「やめろおおおおお!!!」
そして、私は血が噴き出すのも構わずに腹の底から吠えた。
起き上がらない体を恨み、目の前で起こる事態に何一つできない自分。
こうしてラーオディルはある意味、彼の思い通りに悪魔を手に入れてしまった。
「これからは貴方の魂と一緒にこの世界で永遠の時を過ごす。これで僕はやっと孤独から解き放たれるんだ。」
そうして、灰色の魔力の縄に囚われたまま力尽きた悪魔の頬に手を添えて微笑む。
正気に戻ったかと思われた子供はやはり誰かと一つになりたいという妄執に囚われたままだったということか、はたまた、彼の正気こそがこの私には妄執としか思えない思考そのものなのか分からない。
だけど、私はやはり『誰かと一つになりたい』とは思えない。
それは『誰か』が『私』になるということであり、『誰か』とは永遠に会えなくなるということ。
『誰か』とは他人であるからこそ、分からない存在であるからこそ、欲しいと願い、分かりたいと思い、不安になり、絶望したりする。
もしそれが『私』になってしまったら、その感情は一体どこに行くのであろう?
『私』という孤独は誰かと一つになれることで本当に解消されるのであろうか?
『私』という孤独があるからこそ、『誰か』と他人同士であっても一緒に入れることが愛おしいのではないのだろうか?
ラーオディルや悪魔からすれば二十数年しか生きていない私のそんな考えなど、とるに足らないことかもしれない。
だが、それでも私にはやはりラーオディルの思いを良しとしてやることができなかった。
そして、それは悪魔もまた同じだったのかもしれない。
彼の考えと私の考えもまた重ならないものだったが、悪魔もまたラーオディルの考えを良しとはしていなかったのだ。
「やっぱり、お前は馬鹿だな。ラオ」
まるで死んだかのように沈黙していた悪魔が、ふと優しく囁いた。
「…ヴォル?」
まさか、悪魔からそんな言葉が返ってくるとは思わなかったラーオディルはきょとんとした表情で涙を止めた。
だが、全てを知る私は叫んだ。
「悪魔!!私は納得しないぞ!ラーオディル!!さっさと悪魔を世界の理から引き離せっ!!!」
「ど…それって?」
私の言葉に混乱したように表情を揺らすラーオディル。
だが、全ては遅い。
全知の杓杖が世界の理に突き立てられたことによって、理を包む悪魔の最後の封印がまるで卵の殻が割れるかのようにひび割れてゆく。
封印の向こうで息づく異能者のすさまじい魔力の気配。
世界から解放されたいと、自分を縛るこの大地に恨みすら抱くカグヤの凶暴な気配が感じられた。
封印は人間から異能者を封じているだけではない、世界に飽きた異能者を留めておくための楔でもあった。
『さあ、これで貴方はあたしを殺さない訳にはいかなくなった。』
全ては千年前から決まっていたとでもいうのだろうか?
『あたしを殺さなくては東方の楽園はラーオディルではなく、封印から解き放たれたあたしの灰色の魔力によって消滅する。そして、あたしを殺した後は新しい人柱を据えなくては大地は成り立たない。その人柱は…』