第16話 人間というものの定義 4
目の前にあるものが人間なのかそれとも魔物なのか、私には判断が付かなかった。
ただマントを取ったその姿が何なのかと問われれば、やはり人間としかいいようがない。
だって、頭も手足もそのシルエットは人間のそれと寸分変わりないのだから。
それでも手の先に付いている爪の鋭さも、肌の継ぎ接ぎされたような多くの傷跡の残る青紫の肌も、生気のない顔に浮かぶ禍々しく光る赤い瞳も、どれが生きている人間の姿といえるのであろう?
でも、人間でないというのであれば何であると私は言えばいいのだろう?
私は目の前の存在に何と名をつけていいかすら思いつかない。
だけど、そんな私が唯一ついえることがある。
それは私の首を掴むその『協力者』の顔に怒りも憎しみも狂気すら人間が持つ感情という名の表情は、何一つ浮かんでいないということ。
私はそれが無性にやるせなかった。
「ひゃはははっ!苦しそう、苦しそうな顔ですね、アーシアン!どうですか?わたくしの人体実験の『協力者』の力は?この素晴しい力は!」
酸素不足で動かない頭に興奮したDrパルマドールの声が響く。
「ぐ・・『協力者』?人体実験の『被験者』・・の間違い・だろう?」
私の首を掴むその鋭い爪が生えた手に、私は何とか自分の鎖に拘束されたままの手をかけることができた。
しかし、相手のあまりの力の強さに首から手を剥がすどころか、抵抗したことにより更に首にかかる力が強くなる。
「うぐっ」
「ひふふ・・まあ、まあ、そういう言い方もありますかね。でも『被験者』より『協力者』、『協力者』のほうが良くないですか?わたくしは、わたくしの研究の糧となってくれるアーシアン、アーシアンの皆さんに敬意を、そう敬意を払っているのですよ?」
やはり、噂どおり断罪の牢獄から連れ出した囚人たちを使って、この狂った科学者は人体実験を繰り返していたのだ。
「け・敬意だ・・・と?くそ・たれっ!」
どちらにしろこの科学者の研究ために彼らは人体実験に『協力させられた』だけではないか。
あの私の目の前で連れて行かれた囚人女性も、すでにこの男の手で人体実験の犠牲となったのであろうか?
色々なことが頭をよぎり私は怒りだか何だか分からない感情で、目の前が真っ赤になるような感覚を覚えた。
「黙りなさい!強がりを言っても無駄。無駄ですよ。わたくしの『協力者』にたかが、ふふ、たかがアーシアン如きが敵うはずもないのですから。まあ、ここで一思い、一思いに首の骨を折ってやってもいいのですが、一応その剣を使って戦っている記録を残さないといけないですからね。一応。」
しかして、Dr.パルマドールは声だけで私の首を絞めているかつて人間だったその人に、私を放すように命じる。
Dr.パルマドールの命令を理解し、その人は私の首を何の躊躇いもなく放すと、そのまま直立不動で立ち尽くし顔は無感情な顔のまま視線は何処を見ているか分からない。
「わざわざ一端は殺さないでいてあげるのです。ええ、あげるのですから、さっさと、剣をとりなさいな。まあ、どうせ、どうせですよ?先に死ぬか、少し後に死ぬかの、どっちかですがねぇ。ふふ、どっちかです。」
掴まれた首には恐らくこの『協力者』の手の跡がくっきりと残っているに違いない。
私はそこを両手で擦りながら、けたたましい声を無視して何も映すことのないその瞳を見つめた。
「おい、変人科学者。これは本当に人間なのか?」
「誰が変人です!誰が!まあ、いいでしょう。彼らは確かに人間でしたよ?今は人間よりも素晴しい、『魔人』という新たな存在に、わたくしが、このわたくしが生まれ変わらせてあげたのです!さあ、ちみも死ぬ前に、死ぬ前に、わたくしの素晴しい研究に触れて、触れてですよ!最後にわたくしのすごさ!を思い知って死ぬといいのです!さあ、死ぬのです!!」
質問されると答えずにはいられないのは、きっと自分のことについては、どんなことでも聞かれるということが嬉しくて堪らないのだ。
あまりに人間として素直すぎるDr.パルマドールの感情など、私には手に取るように分かった。
―――だが、この目の前の存在にはもう嬉しいという感情もその中には存在しないのだ
「私の質問に答えろよ。大体、私のことは断罪の牢獄に返さないといけないんじゃないのか?」
「ふふふん!天空騎士団など、恐るるに足らず!足らずなのです。ラインディルト様には、ちみが黒の武器の保持者でなければ、いつものように研究に使ってもいいと、ひひ、使ってもいい!と許可を得ています!」
まあ、『ちみ』みたいな低脳で無礼なやつは研究にも使ってやらないと、子供のように付け足された。
こっちだってそんなもの願い下げである。
「・・・三大天使が許可をしているということは、これは天使も容認している研究ということなのか?」
そもそもこんな研究所が白き神の御許にあること事態が、その証拠のような気もするが、私は聞かずにいられなかった。
まだ、私は天使や神に夢を持っていたかったのかもしれない。
彼らという存在は人間を救ってくれるものであるという、美しい夢を。
しかし、そんなものはどうしたって愚かな夢か幻でしかないのだ。
「当然!当然です!この生態兵器・魔人の研究は天使たちの中でも、今一番注目、なんて言っても、一番注目されている研究なのです!」
やはり天使たちはやはり人間を人間とも思っていないのだ。
これでは、人間は天使の家畜か奴隷である。
過去の罪だけで、何故に私たちがここまでの扱いを受けなければならないというのだ。
私は魔人と言われた、人間の成れの果てを目の当たりにして、やりきれなさと怒りを覚えた。
天使達だけにではない、この同胞を同胞とも思わない腐った科学者にもだ。
「どうして、こんな下らないことを・・・。」
しかし、言いたい事は山ほどあったはずなのに、私の口から出たのは低いそんな言葉だけだった。
後はもう言葉にならずに、あふれ出る怒りが体の震えになるだけだった。
「下らない?この素晴しい研究のどこが下らないというのです?!この魔人はですね?ある方法を使って、まあ、それは内緒ですが。人間の身体能力を飛躍的に、神のごとく飛躍的に!上げることができるのですよ?あなたも今、実際にそれで、体感したでしょう?!その力が手に入るのであれば、人間たちは皆、何をしても、ちみだって何をしたって、この魔人になりたいと思うでしょう!!!当然思うのです!」
―――誰が、こんな、もはや人間ではない姿になりたいと思うだろう?
こんな腐った科学者の言いなりになり、人間としてすら扱われず、何の感情すらも持たない姿などに、誰がなりたいと思うのだろう。
どうしてそんな風に考えることができる?
私には、この魔人と呼ばれた人が、どんな思いをしてこんな姿になったのか想像すらつかなし、この人のために何かをしてあげたいなどと、そんな大層なことは考えてはいない。
ただ、今はこの私の怒りを増長させるだけの、狂った科学者の息の根を止めてやりたいという、純粋な殺意と衝動だけが私を支配していた。
私はその感情に身を任せると、まだ喚いているDrの声ももう耳に入らず、魔人の横を通り過ぎて、黒の剣の元まで無言で歩いた。
黙って愛剣を見つめる私は、やっぱり僅かに伸ばしかけた手を彷徨わせる。
何故だかこの剣を取るのが怖かった。でも、今は・・・
「黒の剣・・・・、私に力を貸してくれるか?」
見下ろした剣が答えるはずもないが、無性に聞いておかないと不安になった。
そして、その言葉を黒の剣に伝えただけで、何故だか心が軽くなったような気がして、彷徨っていたその手が戸惑いを断ち切り黒の剣の柄を確りと掴む。
私は黒の剣の柄を鎖で拘束されたままの両手で握ると、刃の部分を使って、何とか器用に鎖を壊すことに成功した。
自由になる両手の感触を確かめると、私は戻ってきた黒の剣の感触も確かめた。
黒の剣は一ヶ月前と変わらないように私の手に戻り、その姿を少しだけ見つめた後、私は自分の手の平を傷つけ黒の剣の刃の部分に自分の血を垂らし、言霊を呟いた。
「目覚めよ、黒の剣」
そして、私は黒の剣を解放したのだ。
「ううううううう?それかね?それが、あの副団長が言っていたやつかね?むむむ?」
黒く侵食していく剣を見て、それまで一人で喚いていたDrが興味深げに呟く。
「確かに、確かに、黒く変色は、黒くはなるようですね。しかし!それくらいで黒の武器と断定するのは早いでしょう。ええ、早すぎです!魔人38号、やっておしまいなさい!おしまいなさいです!」
Dr.パルマドールがそう口早に命令すると、魔人は、ユラリと動いたかと思うと次の瞬間にはその鋭い爪を私に向けて攻撃していた。
私に視線を移すことなく攻撃のモーションに入るその速さは、とても人間のものとは思えない、野生の動物の本能的な動きのようだ。
幸いあらかじめ攻撃されるだろうことは予測できていたので、避けるだけならば何とかなる。
しかし、その後も次々に繰り出される攻撃を、紙一重で避けることはできるものの、私はそれ以上のことは何一つできない。
防戦一方である。
「どうしたかね?かね?避けているだけでは、その魔人は倒せないよ?それじゃあ、死んじゃいますよ?死じゃっていいのですか?」
その私を見てはしゃぐ声が、うっとおしい。
死んじゃって、いいわけはない。
しかし、私の目的はこの魔人を倒すことじゃないのだ。
魔人を殺すために黒の剣を解放したわけではない。
だから、別にこれはこれでいいのだ、というか今はこれしかできない。
魔人から繰り出される速くそして重い、爪による斬撃は受けるだけで、精一杯だし、その相手の刃は、人の爪とは思えない強度を持っている。
解放状態の黒の剣のほうが、刃こぼれを起こさないか心配になってくるくらいだ。
―――ただ、私は今、待っているのだ
これだけ重い攻撃を立て続けに力一杯い繰り出すためには、前に思いっきり体重を乗せて攻撃する必要がある。
よって魔人の体の重心は、次第に私のほうに傾いてくるざるを得ないのだ。
そして、その決定的瞬間はやってくる。
その時、私は黒の剣ごと体を後ろに引けばよい。
そうすれば、思いっきり体重を乗せいている腕の勢いで、魔人の体勢は前のめりに体勢を崩さざるをえない。
私はその隙を見逃さなければいいのだ。
「黒の鎖。」
言霊と共に首、両手首、両足首に黒の剣から生まれ出でた黒い鎖が巻き付いて、魔人を部屋の床に磔にしてしまう。
「何ですか?今のは何ですかね?」
Dr.パルマドールが、突然起こった事態に声を上げたが、私は無視した。
そして、拘束を解こうともがき動物のように呻く魔人を見下ろして、小さく呟いた。
「悪いな。そこで大人しくしていてくれ。」
もともとこの人とは戦う気などなかった。
ただ、少しの間だけここで大人しくしてくれればいい。
私は謝ってしまうと、ゆっくりと部屋の天井を見上げた。
私がさっきまでいた部屋は恐らくこの真上のはずだ。
そして、Dr.パルマドールの気配はこの部屋にはないが、この頭上に確かに感じることができる。まだあの部屋にいるのだ。
私は気配を感じながらそのDr.パルマドールのいる辺りの真下まで歩くと、徐に黒の剣を顔の前で構えた。
それから、瞼を軽く閉じて神経を集中させると暗記している言霊を口の中で呟いた。
「我黒き剣の保持者は、希う。我体に眠りし、黒き力の目覚めをもちて、我前に立ちふさがりし、全ての存在を、打ち滅ぼせし力にかえ。今、我手に黒の目覚めを。」
呟く言霊の一言一言に応えるように、黒の剣の黒さが深まり、その刀身が振るえ、熱を帯び始めるのを感じた。
同時に体が血が熱くなり、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「ちみ、ちみっ!?何をしようというんだね?ちみの敵はちみの後ろ!後ろだよ?!」
さすがに魔人に背を向けて何事かやりだした私に何か感じるところがあるのか、Drパルマドールの焦った声が耳に入った。
しかし、もう遅い。
私はグッと柄を握りしめて黒の剣を振り上げると、最後の言霊を言い放った。
「黒の目覚め」
言霊と同時に剣を振り下ろすと、剣の中で私の中で熱くなっていたエネルギーが黒い大きな力の塊となって、天井目掛けて飛んでいく。
そして、天井にエネルギーがぶつかった衝撃音と爆煙があがる。
「ガハッ!」
その直後に誰かの叫びと何かが落ちてきた音。
煙の中には一つの人影。
私は煙の中に入ると、その人影を見下ろした。
「かくれんぼは終わりだ。」
まさか私が天井をぶち抜いて自身を引き摺り下ろすなどとは、考えていなかったのだろう。
状況が分からないまま、尻餅をついたまま私をぽかんと見上げるDr.パルマドールがそこにいた。
黒の剣を解放したときから、私の狙いは魔人ではない。この男だったのだ。
「ひひぃーひっ」
剣を鼻先に突きつけて低く言った私にDr.パルマドールの叫び声が上がる。
Dr.パルマドールは逃げ出そうと体を動かすが、突然のことに動転しているのか一歩も動くことができないどころか、立ち上がることすらできず手足をバタつかせることしかできない。
そして、出た言葉がこれである。
「た・助けるの・・・です!わたくしを助けるのです!」
どんな状況でも、偉そうな態度は変わらない。
しかし、今の私はそれを許せるほど寛容ではないのだ。
「助けるのです?」
低い声で問い直すとDr.パルマドールが顔をこわばらせる。
私の顔が冗談を言っている顔ではなく、本気で自分を殺すつもりがあると察しているのだろう。
「た・助けて!助けてください!」
だからこそ、この男は自分の命のために素直にそう叫ぶのだ。しかし・・・
「魔人はお前にそう言わなかったのか?」
この研究所に引っ立てられるとき、人体実験に協力させられるとき、この魔人も言ったはずだ、今この目の前の男と同じように恐怖に顔を引きつらせて、この同じ言葉を。
「そ・それは、それは・・」
必死で何か言い繕おうと考えて、視線がさまようDr.パルマドール。
いかに天才でもこの命の危機的状況においては、その優秀な脳みそも上手く機能しないらしい。
言葉は一向に出てこない。
それでは、答えずとも答えを言っているのも同じだ。
「言っただろう?言わないはずはないだろう?そしてお前はその人を、どうした?・・・今から私がするのは、それと同じなだけだ。因果応報って聞いたことあるだろ?」
それだけ言うと、私は何の躊躇いもなく剣をDr.パルマドールの首に向かって振り切った。
もう、この男の戯言を利く気はなかった。
さっさとこの世から消してしまいたかったのだ。
断末魔のような、あの動物の鳴き声じみた奇声が高らかに上がるはずだった・・・しかして、何故だか剣がDr.パルマドールの首を切り落とすことはなかった。
言っておくが、私が黒の剣を退けたわけではない。
何かが黒の剣の刃をDr.パルマドールの首まで辿りつくまえに、受け止めていたのだ。
残念なことにDr.パルマドールは自分の命を助けてくれた相手を、あまりの恐怖に気を失ったため見ることができなかった。
しかし、私は黒の剣を受け止めている刃のその先にある人影に見覚があった。
「どうもぉ。ご機嫌よろしゅう。ヒロさん、お元気でっかぁ?」
妙な口調に馴れ馴れしい態度。
そして、その見ているだけでムカつく嫌味で無意味な笑み。
「ああ、お蔭様で楽しい囚人生活を送らせてもらったよ。天使さま。」
それはあの天使。
私の黒の剣を受け止めていたのは、あの不浄の大地で血みどろの戦いを繰り広げたあの天使エンリッヒだった。
加筆・修正 08.5.30