第151話 悪魔の封印 3-2
私の網膜には今、二つの世界がダブって見えている。
一つは今、私が生きている世界。
悪魔とラーオディルとエンシッダとヴィスが、涙を流し続ける私を呆気にとられた顔で見ている。
もう一つは、千年前の世界。
全く同じ場所に悪魔とラーオディルがいた。
悪魔は血まみれで黒の剣に縋りつき、ラーオディルは片翼を切り落とされて気を失っているようだった。
『さあ、あたしを殺して。』
そして、二つの世界で同じ言葉と姿をする一人の少女。
年の頃は14,5と言ったところか、黒く長い髪は少女の身長ほどあろう。まっすぐの綺麗な髪と白い肌以外は何も纏っていない。
だが、その神々しいまでに無垢な裸体は、淫猥な想像を一切受け付けない清廉さを持っていた。
少女の名は世界の理・カグヤということを、世界の理に触れた瞬間に理解した。
大きな球体の中に閉じ込められた前文明から生き続ける異能者。
彼女は泣き続ける私と、悄然とした悪魔に笑顔を見せて訴え続ける。
『貴方は世界の楔となる資格を持つ、何一つ持たぬ者。世界の楔は異能者を殺すことができる唯一の存在。彼は運命の羅針盤・アフリラは殺してもあたしのことは殺してくれなかった。だから、あたしはずっと待ってた。私を殺してくれる次の世界の楔を…それが貴方。』
千年前の幻影の中で、世界の理の傍に一人倒れる男の姿が見えた。
千年前のカグヤはその彼にそっと触れると、男の体を消してその手に淡い光を灯した。
『これは世界の楔が持つ魂の烙印。これを得ることができる魂は数百年に一度存在するかどうか…彼はそれを貴方に託した。託された貴方にはあたしを殺す義務があるのよ。』
そのカグヤの手に光る淡い光は、その言葉に一瞬だけ毒々しい赤色の光を放った。
<IN 千年前>
世界の理に触れたことにより、悪魔によって故意に隠された千年前の事実が私の前で繰り広げられる。
悪魔は茫然とした顔のまま、うつろな瞳を少女に向けた。
「君が異能者か…君を殺すことは容易いかもしれないが、そうしたら世界はどうなる?」
疲れた声のまま、血を流し倒れる万象の天使を見やりながら悪魔は呟く。
俯く彼の表情は見えない。
悪魔が天使の翼を切り落とした…その事実だけは嫌になるほど理解していたが、こうしてその直後の状況を見ると、彼らは一体どんなやり取りを経てその結果にたどり着いたのであろう?
少なくとも悪魔は本当に望んで、天使の翼を切り落としたようには見えない。
「貴方は理解しているんでしょ?あたしが死ねば、異能者という、大地を支える魔力の根源がなくなってこの東方の楽園は消える。でも、それを回避できる方法はあるよ。」
カグヤは無邪気な笑顔で、俯く悪魔を覗き込む。
「あたしと同じ灰色の魔力の根源。ここにあたしの身代わりとなるラーオディルがいる。」
―――異能者が灰色の魔力の根源?
「全ての魔力は灰色の魔力から生まれている。要するに灰色っていうのは、全部を混ぜられた混沌の色なの。だけど、それはとても強い力。全てを灰色に塗りかえてしまう力でもある。だから、普段は異能者というあたしたちを通すことで、それを色々な色に分けて世界に魔力を提供しているという訳。」
私は先ほど悪魔から立ち上っていた魔力の気配の意味をやっと理解する。
様々な色に変わる灰色は、やはり全てを孕む存在であったという訳だ。
「白と黒…二つは私たちに一番近い存在。そして、二つが交わることで灰色の魔力が生まれた。それは白と黒の神だけじゃない、他の神でも同じことが言えるの。だから、世界の理は神同士の交わりを禁じた。それは灰色の魔力…要するに異能者に近い存在を生み出さないため。」
全ての魔力の根源である灰色の魔力を、色々な色に分ける役割も異能者は請け負っているらしい。
それはすなわち魔力の根源であると同時に、その管理者でもあるという訳だ。
そんな大そうな存在には見えないにっこりと笑う美少女相手に、悪魔はぎらりと目を吊り上げた。
「それならば自分たちで禁じておきながら、どうしてラオが存在している?異能者の力…理や運命を司る君たちなら、あいつという存在そのものを存在させるはずがない!」
その言葉に少女のようなカグヤの表情が、凍りついた女のものに一瞬で変わった。
「随分と酷い言葉だね。ヴォルツィッタ…、では貴方は神に忌み嫌われた子供の存在自体を否定する訳?あんなに慈しんで育てたというのに、なんとも薄情なもの。まあ、恋人を殺されているのだから、それも仕方ないのかな?」
「俺の質問に答えろ!君たちは何のためにラオを!!」
悪魔はラーオディルが偶然に生まれたものではなく、異能者たちによって造り出されたということに確信を持っているようであった。
「これはあたしだけじゃない、全ての異能者の総意。」
悪魔の確信に異能者カグヤは、何一つ隠す必要もないと言わんばかりに堂々と答えた。
その表情は少女の無垢さも純真さも兼ね備えない、毒々しいまでの妖艶さと近寄りがたい畏怖が備わっていた。
悪魔はその姿に怯えたように表情を歪める。
「もう、嫌になったのよ。初めは自分たちが造りだした世界が楽しかったけれど、もう飽きたの。だから、神に忌み嫌われた子供を造って、異能者の代わりに人柱になってもらうの。そして、わたしは生まれ変わるの。この体を捨て新しい体に転生して今度はもっと楽しい人生を送るのよ。」
ふふふと笑って、カグヤはくるりくるりとスキップをしながら踊る。
さらさらとその動きに沿って踊る黒髪は軽やかで、カグヤは何一つ憂いがないかのように楽しげだ。
異能者という責務から解放される…ただ、それだけが楽しくて仕方ないとでも言わんばかりのその姿に悪魔は呆然としている。
彼女がこれまで背負ってきた苦しみを考えれば仕方ないのかもしれない。
ずっと一人で世界の為にあんな小さな球体に閉じ込められれば、狂気に取りつかれても致し方ないのかもしれない。
『でも』『だが』…私はそう思う。
この世界はおかしすぎる。
誰かの犠牲の上に成り立つ悲劇と絶望の連鎖…それが世界を形作っている。
『でも』『だが』、悲劇と絶望の連鎖がなければ成り立たない世界は本当の正しいのか?
もっとほかの方法は存在しないのだろうか?
「だから、あたしと取引をしよう?ヴォルツィッタ。」
少女の皮を脱ぎ棄てた女が、悪魔に抱きついた。
甘い息と言葉を耳から毒のように注ぎ込み、細く白い手を蛇のように悪魔の背中に巻きつける。
「貴方は自分の恋人を死に追いやったその子供が憎いのでしょう?ならば、復讐をしましょう。」
カグヤが悪魔の足元で倒れるラーオディルの背中を踏んだ。
白い素足に翼をもがれたことによって滴り落ちる赤い血がべったりとつく。
「死なんて一瞬の苦しみ、それよりただ世界のためだと搾取され続ける異能者という名の人柱にしてしまうことこそが、最高の復讐。異能者のあたしがいうのだもの間違いないわ。そうでしょう?」
「…その復讐を果たすためには、俺が世界の楔となり君を殺すしかないという訳か。」
感情が読み取れない平坦な悪魔の声に、カグヤは明るい笑顔を輝かせる。
「そう!簡単な話でしょ?あたしを殺して、神に忌み嫌われた子供を世界の理に放り込めばそれでお終い。あたしは新しい人生を手に入れることができ、貴方は最高の復讐を遂げることができる。」
抑えられないカグヤの笑い声が世界の中心に響き渡り、彼女は更に悪魔に甘い言葉を囁き続ける。
「それに神に忌み嫌われた子供が世界の理になれば、彼にローラレライを蘇らせることができるわ。世界の楔である貴方は彼の命を握っているも同然だもの。それを盾にローラレライを殺した彼に、ローラレライを蘇らせ、更に貴方と彼女の幸せな姿を見せつけてやりなさいよ!もう、考えるだけで最高の復讐じゃない!!」
復讐のことを考えるだけで興奮するカグヤに対して、きょとんとしたように悪魔は彼女を見やっていた。
それはローラレライを蘇らせようと、狂気にぎらつく瞳をした悪魔とは全くの別人であった。
彼は静かにぽつりと呟いた。
「俺はラオに復讐を…するのか?」
「ええ。それが貴方の願いでしょう?貴方はそのためにここまで来たんじゃないの?」
「…違う。」
「え?」
悪魔の声は小さいがはっきりとしていた。
それに対してカグヤは美しい顔に、まるで狐につままれた様な感情を浮かべた。
「だから、違うと言っている。ラオに復讐…こいつをそれくらい憎めたら楽だったのかもしれない。だけど、俺にはできない!ローラレライのことを許すことはできないけど、こいつは俺の大事な『家族』だ。」
悪魔に肩を掴まれ引き離され、自分の願いとは逆のことを言い出した悪魔に怒りを露わにしてカグヤはくってかかる。
「愚かな!!貴方は恋人を殺されてなお、この醜く憎い子供を許すの?!」
足元のラーオディルを小さく蹴とばしながら吐き出すように叫ぶカグヤの形相は、まるで鬼の様である。
「許せる訳ないだろ!」
「じゃあっ!」
悪魔の言葉に飛びつくカグヤに、ぎろりと彼は強い視線を向ける。
カグヤはその強さにたじろぐように、体の動きを止めた。
「だが、ラオの人生を醜く、恨まるよう、憎まれるように生み出したのは君たちだろう?俺はこいつのたった一人の家族だ。だから、分かる。ラオは本当に可哀そうな子供だ。ずっと誰かに利用され、虐げられ…俺なんか、ちっぽけな人間しか頼りがいない。俺みたいな人間はこの世に五万といるのに…こいつにとってだけ、俺は誰よりも特別だった。そして、その事実は俺にとっても救いだった。」
悪魔は膝をつき、目を覚ます気配もないラーオディルの顔を撫でた。
その表情はまるで小さな子供を慈しむ親のように、穏やかで優しげである。
「俺たちは何処で何を間違えたんだろうな?」
そこにはただ憎いとか愛しているとか、そんな風にきっちりと分けられない複雑な思いが込められていた。
悪魔はラーオディルのことをちゃんと大切に思っていた。
きっとそれは私がエヴァのことを大切に思っていたのと似ているのではないかと想像がついた。
そんな悪魔の様子にカグヤは作戦を変えたのか、もう一度冷静さを取り戻して彼に言葉をかける。
「そう…じゃあ、貴方はもう二度とローラレライとは会うことはできない。彼女を捨てて、貴方はこれから彼女を殺した子供と生きていくというの?」
悪魔の弱みに付け込んだ卑怯な言葉だ。
だが、悪魔はもはやそんな言葉では揺らがなかった。
彼の中で何かが定まっている。
呆然としていた表情から一変し、彼の瞳には断固たる何かが宿っていた。
「それもできないさ。それは確かだ。ラオを許したいと思う自分をきっと俺は許せない。そして、俺はきっとローラレライを失った悲しみと絶望をいつか忘れてラオを許してしまう。そんなこと彼女に申し訳なくてできる訳がない。」
それは私が翼に願った時と同じ苦しみであった。
そんなどっちつかずとも思われる回答に、カグヤは憤り言い捨てる。
「もういいわ!!!」
怒りに身を任せて叫ぶ。
「貴方ができないというのであれば、もう一度はじめからやり直すまでよ!!世界の楔になりうる魂を見つけ、この場所に連れてくる。時間は永遠にあるんだもん!だから、貴方も神に忌み嫌われた子供ももういらない。あたしの前から消えて!!」
ヒステリックに言い終えて肩で息をするカグヤを、酷く冷静な表情で見上げる悪魔。
「なあ、少し時間をくれないか?」
静かに吐き出されたその言葉がその後千年の世界の運命と、そして、これから私が直面する運命に大きく関わる提案となる。