第145話 愛より出でし呪いは死の薫りがした 1
『アイシテイル』
言葉を発するだけなら簡単なことなのかもしれない
その言葉の意味も重さも、声に出すだけでは分からない
だから、きっと人はすれ違う
交わし合う『愛』の意味と重さが違うと、時に人は絶望する
『私は』『俺は』…これだけ貴方を思っているのに、どうして同じ『愛』を返してくれないの?と
だれかを独占したい、自分だけを見ていてほしい
それは小さくも大きな我儘
さりとて『愛』が大きい時、人はそれを思ってしまうのだろう
そして、結果としてその『愛』が永遠に心を縛る『呪い』へと変わることがあると私は知った
その『呪い』はいつしか私の心を蝕み、死の薫りを放つ
「ヒロ、私を忘れないで」
でも、それで私は良かったんだ
私の心が君に呪われたって、それが君の『愛』だというのであれば私はそれを受け入れた
ただ、死ぬその瞬間まで君を感じられれば私に悔いはなかったのに
【愛より出でし呪いは死の薫りがした】
<SIDE ヒロ>
『ヒロ、起きて。』
誰かに呼ばれたような気がして目を開いた瞬間に全てを灰色の塗りつくされた世界が広がっていた。
白も黒も強くなく均等に交わったその色に満たされた世界は重々しく、私に強い不安を抱かせた。
こんな気味の悪い世界には長居したくないな…ぼんやりとそんなことを考える。
そして、次の瞬間に気がつく。
―――ここは封印された異端…、かつて私が愛する女を失った世界
それなのにどうしてだ?
灰色の世界に現れた人影に私は瞬きをすることを、息をすることを忘れた。
『ヒロ…やっと、会えた。』
「ユ・イア?」
幻でもよかった。
罪人の巡礼地でだって、黒き神に騙されたってその姿を見ることができただけで満たされた。
悪夢の中で自分に殺される彼女すら愛おしかった。
彼女を愛していた、いや、私は今でもユイアを愛している。
「ユイア!」
ぼうっとしていた意識が急速に覚醒し、目の前にいるのがユイアであることを確信するとすぐに彼女をかき抱いた。
いつもの悪夢ではその瞬間に彼女は消える。
だが、今回は消えることなく彼女は私の腕の中で確かに存在していた。
『痛いわ、ヒロ。』
「あ…いや、すまないっ。」
いつも消える彼女を留めておきたいと思うばかりに強い力でしがみついたので、実際に彼女が存在しているとその力加減は強すぎたのだろう。
私は彼女がまだいることが不思議でならず、ただ謝ることしかできない。
『何?ぼうっとして。』
ふふと彼女が笑って吐く息が首筋に当たる。
「本当に…ユイア、なのか?」
信じられなくて私は彼女の肩を押しやって、改めてその姿をマジマジと見る。
手に感じる彼女の温かさは幻などではなく、そして、目の前にある彼女の姿もまた5年前に失ったままの彼女がそこにいた。
みすぼらしくとも生命力に溢れたユイアの姿に、私は目の前がぼやけるのを感じた。
『何泣いているの?もうっ!ヒロは本当に変わらないのね…私が死んだ時のまま。』
「!」
その言葉にはっとする。
『分かってる。私は死んだ存在よ。本当ならもうこの世にはいるはずのない人間。だけど、私はずっと貴方の傍にいた。この黒の剣の中に。』
「ここが黒の剣の中?封印された異端ではないのか?」
見て感じる限りこの灰色の魔力に満たされた場所は間違いなく封印され異端に違いない。
『封印された異端は全ての異端に繋がる場所。黒の武器もまた灰色の魔力を抑えるために造られた異端の一部。だからこそ、封印された異端に落とされた貴方を私は助けに来ることができた。』
「落とされた…?そうだ!私はっ!!!」
ユイアの言葉にこれまでの記憶が一気に蘇る。
天使と人間の最後の戦い、グロテスクな世界の胎内、第二の悪魔の封印・朽ちた白、そして…
「神の子はっ?アラシは…ハクアリティスは!!」
記憶と共によみがえってくる数々の衝撃に私は気が遠くなった。
『さようなら、ヒロ…お前という物語はこれで終わりだ。後は安らかに眠れ。』
腹の底から聞こえてきた悪魔の声。
『貴方の体は今、悪魔に乗っ取られているわ。そして、悪魔は貴方の精神を完全に殺すために封印された異端に貴方を落とした。』
私はユイアの言葉の意味をはかりかねた。
『悪魔の魂はどういう訳かヒロに完全に転生することなく、私と同じようにこの灰色の世界に残骸として残ったけれど、だからといってただ封印されただけの黒き神のように現実世界に影響を及ぼすほどの力はなかった。彼はその力をほとんどを貴方へと転生させていたから…だから、黒き神が現実世界で自分の願い叶えるためには魂で繋がっている貴方を利用するしかなかった。そして、絶望で貴方の心を喪失させて弱ったところで貴方の体を乗っ取った。』
黄色の女神ディルアナを聖櫃から出したハクアリティス、結果として死んでいく神の子たち、そして、ハクアリティスを殺したアラシ。
連鎖する苦しみと悲しみの中で私は絶望した。
そして、私はその絶望と起こった悲劇から逃げ出して、悪魔につけ入れられた。
何が…せめて皆を守りたいだっ!
私は自分の弱さに胸をかきむしりたくなった。
『でも、私が間に合ってよかった。貴方があのまま灰色の魔力と一つになってしまっていたらと思うと…私は!』
自分を責める私とは違いユイアの言葉は何かに酷く安心していた。
私はその言葉の意味が分からなくて眉をひそめ、そして、ユイアにばかり目がいってしまっていて周囲の灰色の色がまるで生き物のように一部が蠢いていることに初めて気が付いた。
そして、その蠢く灰色は私とユイアをぐるりと取り囲んでいた。
―――ヒトツニナロウ
それに気が付いた途端に聞こえてくる声。
灰色の魔力に彩られたその声は、恐らくその根源である神に忌み嫌われた子供の声、そしてエヴァの声。
『僕を忘れないで、ヒロちゃん』
エヴァを思い出した瞬間に胸に痛みが走る。
崩れ落ちる体とともに、私たちを取り囲んでいた蠢く灰色…恐らく強い灰色の魔力がじりじりとにじり寄ってくる。
『ヒロッ!ダメよ』
「ユイア?」
『エヴァのことを思い出してはダメ!彼こそが灰色の魔力の根源であり、今、この世界の支配者。貴方が少しでもエヴァのことを考えれば、エヴァのことを想う貴方の心はあっという間に灰色の魔力に取り込まれてしまうわ。』
―――ヒトツニナロウ
耳ではなく脳に直接囁きかけるような声は、今にも泣き出しそうな子供の声で、私はユイアが酷く焦った表情をしているというのに、私は蠢く灰色に全く危機感を抱けなかった。
封印された異端は悪魔が封印した灰色の魔力。
どこまでも続くこの場所が、その根源である神に忌み嫌われた子供自体であるという事実はさして驚くことではないだろう。
ずっと、彼は私に『ヒトツニナロウ』と囁き続けてきた。
そして、今、それを叶えるために私を灰色の魔力の一部として取り込もうとしている。だけど、
「どうして私なんだろうな?」
『え?』
「エヴァ…いや、神に忌み嫌われた子供が求めているのは悪魔だろう?生まれ変わりだと言われたところで私と奴は別の人間だというのに、あの子供はどうして悪魔ではなく私を求めるんだろうな?」
私は悪魔じゃないぞ?と意識を持っているのか分からない灰色の魔力に言ってやれば、それまで私を取り込もうと蠢いていたそれがぴたりと動きを止める。
私が逃げる気もないと理解したからか(というか、この状況でどうすればいいのか分からないだけなのだが)、灰色の魔力は私とユイアをすぐ傍で囲んだままの状態になる。
ユイアはその灰色の魔力の様子にほんの少し目を見張った後、私の顔を見て何かを納得したように一つ頷いた。
『貴方はやっぱり変わらない。そんなヒロだからエヴァという子供を通して神に忌み嫌われた子供は貴方を求めた。』
「え?」
『ヒロは優しすぎるから。魂とか転生とか関係なく、きっとエヴァは貴方に惹かれた。貴方ならきっと自分を忘れないはずだって…貴方を苦しめる結果になってもそれを願ってしまった。私と同じように。』
泣きそうな顔で微笑むユイア。
私はこんな顔を見たことがなくて戸惑った。
彼女はいつもだって元気で明るくて…ああ、でもと思いなおす。
『私を忘れないで』
そう言って息と引き取った時の彼女の顔はこれに近かったかもしれない。
それを思いだして私は彼女に縋りつくように再び彼女を抱きしめた。
『ごめんね…ヒロ。』
「何がだ?」
『私も神に忌み嫌われた子供と変わらない。私は最低な手を使って貴方の愛を得ようとした。貴方を永遠に私から逃げられないようにした。貴方の為に死ねば、誰よりも貴方に愛してもらえる…そんな馬鹿なことを考えた。そんなの貴方の為じゃなくて、私のただの我儘だったのに。』
「それは違う!」
私は断言した。
私は彼女が私の為に命を落としたから、彼女を愛した訳じゃない。
「私はユイアを愛していたから、お前の死を受け入れられなかった。忘れられなかったっ!」
『…ありがとう。分かっているの。別にヒロが私のことを想ってくれていなかったなんて、私は思っていない。でも…思うの。私がもしあの時死ななかったら、貴方…今くらい私を愛してくれていた?ううん…分かっている、貴方が私に抱く感情はもうある意味では『愛』とは言えないのかもしれないって、でも、それほどに強い感情を私に持ってくれた?』
何を言っているのか、ユイアの言葉をうまく理解できなかった。
ユイアは泣きそうな顔で笑った。
私はユイアを好きだった。
5年前のあの夜、彼女が好きだったから、ずっと一緒に生きて欲しかったから告白した。
それでは足りなかったのか?
彼女の死によって私の気持ちが変わった?
それが彼女の望む愛の形だった?
確かにユイアが私のために命を落としたとこで私はユイアの死を忘れられなくなった。
それどころか彼女への感情を風化させないように、私は万象の天使の片翼と、いや神に忌み嫌われた子供と契約をした。
でも、ともにずっと生き続けていられれば、ずっと一緒にいれば、もっともっと今私が抱く感情よりも強い愛を二人で育めたんじゃないのか?
そんな私の感情が顔に出ていたのだろう。
ユイアは苦笑して私の頬を慰めるように撫でる。
『ごめんね…今更こんなこと言って困らせて。分かっているの。全てはもう終ってしまったこと。仮定の話は意味のないことよ。ただ、全ては貴方を信じ切れなかった私の愚かさが招いたことなの。そのせいでずっと貴方を苦しめ続けた。貴方はいつだって私を本当に信じてくれていた。愛していてくれたのに…、私が彼女の言葉に耳を傾けてしまった。』
私は首を強く横に振った。
『私が残したのは貴方への呪い…だったのかもしれない。愛じゃなくてもいい、ただ、貴方の心に残りたいと強く願ってしまった。人は誰かと一緒にいても、生まれて死ぬときまで所詮は一人よ。しかも、不浄の大地ではあまりにも簡単に人は死ぬ。親も兄弟もいない私にとって恋人としての貴方は世界に私がいる唯一の証。貴方が私を忘れない限り私は貴方の中で生き続けらる。それがとても甘美な響きに私には思えてしまったの。』
これはユイアの告白なのか?
明るく楽しい彼女がこんな薄暗い感情を抱いていたことを私は気が付いてやれなかった。
『でも…私の死に際に見せた貴方の表情、そして、黒の剣から感じられた貴方の苦しみ、それを見て感じて私は初めて気がつけたの。私は間違っていたって…あの時、私が選ぶべきだったのは貴方の為に犠牲になることじゃなくて、貴方と共に生きていくための選択だったって。生きるための選択をしたからって、結果がどうなっていたかなんてわからない。でも…きっ・と―――』
ユイアの言葉が涙に詰まる。
私の目にも熱いものが集まってくる。
「違うっ!私だって…あの時、君さえ生きていてくればいい。そう思って自分の命を捨てようとしたっ!悪いのはユイアじゃない、君を守れる強さがなかった私だ!!」
『ヒロ…うん、分かってるよ。貴方がそうやって苦しみ続けてきたこと。きっとね、私たちはお互いに間違っていた。間違いは正せないけれど、時はあの時に戻らないけど、でも、こうして私たちはまた会えた。ね?これって奇跡みたいだよね。』
「奇跡?」
『そう。私ずっと貴方に声が届かないこの場所で願っていた。貴方にもう一度会いたいって、私のこの想いを伝えたいって…もし、そんな奇跡が起こせたら…やっと自分を許せるような気がしたの。ううん、許せるじゃない。貴方のことをやっと純粋に愛し続けられる。私に囚われ続けないで貴方に幸せになって生き続けてって心の底から言える。』
泣き笑いのユイアの顔に私も不思議と笑みが浮かんだ。
誰かを愛するがゆえに誰かの為に犠牲になる。
それはとても崇高なようで、とても残酷だ。
私とユイアはその結果、互いに互いを傷つけ苦しみ続けていたのかもしれない。
だけど、こうして再び会えたことで、言葉を交わしたことで、ユイアの言うように決して私の罪が許される訳ではないけれど、自分の心の中で何かが変わったような気がした。
私はこの後、自分がどうなるのかも分からない。
大体、今の状況から言って生きているのか死んでいるのかも曖昧なのかもしれない。
だけど、この後、例え灰色の魔力に取り込まれようが、現実の世界に戻ろうが、私はもうユイアとずっと一緒だ。
不思議とそんな風に思えた。
契約によって強制されていた心が、新しい形となって私の中で温かく息吹いていくような気がした。
「ありがとう。ユイア…ずっと、君は私を見ていてくれたんだな。私はもう大丈夫だ。今度こそ君が望んでくれたように生きて見せる。君に恥じない生を全うしてみせる。」
そして、私はぎゅっと彼女を抱きしめた。
―――ギイイヤヤアアアアア
瞬間に耳を塞ぎたくなるくらい高く強い叫びが響く。
「!?」
驚いて周りを見回せば、私たちを取り囲んでいた灰色の魔力が、沸騰するように泡立ったかと思えば瞬間に立ち消えた。
『貴方と神に忌み嫌われた子供の契約が、貴方と私の<約束>に上書きされた。それによって貴方は灰色の魔力の契約から解き放たれた。』
そう言ってユイアは微笑んで私から離れた。
その足元はさっきまでくっきりとしていたはずなのに、透け始めていた。
『もう時間がないみたい。悪魔が貴方の体を乗っ取って黒の剣と再び契約を交わしたみたい。黒の武器は一人としか契約できないから、私の契約は悪魔によって消されたみたいね…契約は強い強制力を持つけれど優先順位はより強い感情と犠牲を払った方になる。私はやっとこの場所から解放されるわ。』
悪魔が黒の剣を使っているということは、第二の封印が破られるのも時間の問題ということなのだろう。
『最後にヒロの伝えたいことがあるの。<契約>は誰も信じられない人たちが交わす灰色の魔力による強制された願い。だけど、<約束>は強制力なんてない…互いが互いを信じる心によって成り立つただあり続ける想い。確かに灰色の魔力は全ての魔力よりも強い最強の力よ。でもね、私、この灰色の魔力の中で生き続けて何となく分かったの。』
次第に透けていく部分は大きくなっていく。
きっと、これがユイアを見る最後になるだろう。
不思議と悲しみはない。あるのはほんの少しの寂しさと強い感謝の気持ちだけ。
私は彼女の姿を焼きつけようと、瞬きをしないように努力するがさすがに視界が僅かに滲む。
『全てを拒否し続け、疑い続ける灰色の魔力…それはきっと神に忌み嫌われた子供の心そのもの。そして、その彼が貴方を傷つけられないのは、多分貴方を信じてみたい、貴方に受け入れられたいと望んでいる心。灰色の魔力に勝てるとしたら、きっとそれは力なんかじゃないのよ。それは―――』
彼女の言葉は最後に本当に小さな声で私の耳に僅かに聞こえる程度だった。
私は消えていくユイアが何の心配もないように強く頷いた。
そして、灰色の空間に溶けるようにして消えていくその瞬間まで私はずっと彼女を見続けていた。