第141話 絶望が貴方を殺す 4
注意:この話には暴力表現や暴力行動の描写があります。苦手な方は避けてください。
もしこれまでの全ての事柄が、エンシッダによる私を絶望させるための計画であるというならば、まさに拍手喝さい大成功としか言いようがない。
足元から這い上がる絶望は私という存在を脆弱で小さなものにして、エンシッダの目論み通り私はもう後少しで悪魔にこの身を明け渡してしまうだろう。
開いてしまった聖櫃からまるで羽が舞い降りるかのように、ゆっくりとした速度で堕ちてゆくディルアナは美しかった。
しかし、その美しさと引き換えにエンシッダによって突きつけられたもう一つの画面を見た瞬間に、私は声にならない叫びを上げた。
それまで天使と戦っていた神の子たちがまるで糸の切れた人形のようにぷっつりと意識を途絶えさせて倒れていく姿は、いっそあまりの不自然さに滑稽なくらいで私は信じたくなくて首を激しく横に振った。
『ケルヴェロッカ!?』
ティアの鋭い悲鳴が耳に届く。
人間軍のほとんどは神の子で形成されていたが、神になりそこねた存在や人間も戦いには参加している。
その全てが自分の近くにいた神の子の名を呼んだ。
聞き覚えのある名前もあれば、知らない名前もある。
『自分を守ることが、大切な人を守ることになる。』
ケルヴェロッカの言葉が何度も何度も頭の中で繰り返された。
私が忘れた大切な眩しい何かを確かに持っていた少年が、どうして死ななくてはならないのだろう?
「あ―――」
言葉は出ず音だけが私から漏れる。
ティアの混乱した様子に次いで、倒れて動かなくなったケルヴェロッカの姿がズームアップされていく。
主人の異変にケルヴェロッカの子犬が彼を小突くがケルヴェロッカは全く動かない。
―――だって、ケルヴェロッカは死んだ
聖櫃におさまった神は死をもってしか、そこから解放されることはない。
聖櫃の中にいる限り命は永遠に続いていくが、その瞳はそれと同じだけ開くことはない。
終焉のない神にとってまさに死の牢獄…それが聖櫃だ。
神の子たちはその聖櫃におさまった神と命を繋いだ。
すなわち聖櫃の中の神ディルアナさえ死ななければ、彼らが死ぬことは体が消滅しない限りあり得ない。
だが、ディルアナが死ねばその全てが消えてなくなる。
そして、今、聖櫃から解放されたディルアナは死んだ…それはすなわち神の子たちの死を意味することでもある。
それは理解している。理解しているんだ。
なのに…感情がそれを理解したくないと私に告げている!
―――どうして!?神の子が死ななくてはならない?!
私はその湧きあがる激情のままにエンシッダを睨みつけた。
「おお、怖い。だけど、神の子を死に追いやった直接の原因は俺じゃない。ディルアナを解放したのはハクアリティスだよ?」
そう言って笑顔のままエンシッダは床に這いつくばる私の背中に乗せた足に力を込め、更に私の前にもう一度銀月の都を映す画面を突きつけた。
『さあ、ディルアナ。起きて?貴方の愛する人の所に行きましょう?』
ハクアリティスが意識のないままに床に静かに降り立ったディルアナの肩をゆする。
そこには神の子たちの死など知らないハクアリティスが、のんきな顔をして目覚めるはずのないディルアナを起こそうとしていた。
もし、ディルアナを解放したのがいっそエンシッダであれば、この絶望よりも深い怒りをぶつけることができたのであろうか?
『あら?』
ディルアナを無理やり起こそうとするが、意識のない人間を例え細い女性でも起き上がらせるのはハクアリティスの力では難しい。
ハクアリティスは起こそうとしたディルアナと共に崩れ倒れる。
『もうっ!何な―――』
自分のしたことの重大性も知らないまま呑気に文句を言おうとしたハクアリティスに対して、その時厳しい声が飛ぶ。
『何をやっているんだ!!!』
初めはオウェルかと思った。
だが、画面の奥にいる彼は床に伏せたまま動かないディルアナを見つめたまま動かないままであった。
「誰だ?」
ヴィスを使って未来を全て見通しているらしいエンシッダすらも、その存在の登場は知らなかったらしい、僅かに眉をひそめてその声の主へと画面を切り替える。
そこには私も見慣れた人物がいた。
いや、それどころかこの面子には既視感すら感じた。
「ア…ラシ」
神の子たちと天使と交戦中だと思っていた彼がそこにいた。
それもこの間この場所にいた時と同じように、クリエスを始め3人の人間の子供がその背中に張り付いている。
「どうして…?」
茫然としながら私はアラシのかつて見たこともないほどに強い絶望と憎しみを秘めた表情を目の当たりにする。
アラシは基本的に乱暴でガサツだが、面倒見がよくその心根は非常に温厚で優しい。
だからこそ、彼はあんな我儘なハクアリティスを好きだと…とそこまで考えを巡らせてはっとする。
そうだ。アラシはハクアリティスが好きだったはずだ。
その感情が変化したかは知らないが、その彼女に対してあれほど強い憎しみを抱いた表情をする彼を慮ると私は酷く胸が痛んだ。
『何を怒っているのアラシ?それよりも貴方もディルアナを起こすのを手伝って頂戴。』
しかし、ハクアリティスはアラシの中の憎しみにも絶望にも気が付かない。
その鈍感さが無邪気さが、ある意味彼女の魅力だったのかもしれない。
だが、この時はその全てが裏目に出る。
『貴方はっ!!自分が何をしたのか理解しているのか?』
『何って?ディルアナを箱から出して上げただけよ?箱から出たいって、愛する人に会いたいっていう彼女の声が聞こえたから。』
それはまるで自分がしたことは正しく親切であると言わんばかりの声音だった。
感情を抑えきれていないアラシは、その声を聞くにつれてブルブルと大きく体を震わせている。
彼の感情は既に沸点を大きく超えている。
後はいつそれが爆発をするかどうかという状況だ。
私は画面越しにアラシが強く手を握り締める様子を見て、咄嗟に声を出す。
「だ…めだ―――」
「やめろっ!アラシ!!!」
私の声をかき消して叫んだのは私を踏みつけたままのエンシッダであった。
そして、彼の声は画面越しでも聞こえているのか、アラシはびくりと体を硬直させて衝動に任せた行動を止めた。
「そうだ。お前は俺に忠誠を誓っているだろう?お前の仲間である人間たちの命と未来を引き換えに、お前は俺に魂を売ったはずだ。ハクアリティスは殺すな。」
『…これが貴方の思い描いた筋書き通りの未来という訳ですか?』
俯いたアラシから発せられた声は理性と感情の狭間で大きく揺れていた。
「だったら、どうする?それでも君は何を犠牲にしても自分の仲間を守ると決めているはずだ。」
『神の子には何の罪もないのにっ!!』
それでもまだ『仲間』=『守るもの』があるアラシは耐えなくてはならない。
愛しさがある故に憎しみが膨れ上がらんとする存在を目の前に彼は堪えなくてはならないのだ…まあ、もしかするとアラシにとってはそれが幸いなのかもしれない。
例え彼女が許されない罪を犯したとしても、愛する人を手にかけた苦しみは彼を死に等しい絶望へ追い落とすであろうから。
『お父さんっ!!!』
その時、高い声が画面の向こうから突き抜けて聞こえてきた。
「?」
画面を横切る小さな影は、ディルアナがいなくなったことにより淡い光を失った聖櫃の一つに近寄った。
「あれは―――」
アラシの後ろにいた一人の少女。
先日出会ったクリエスの友人の一人…名前は忘れたが、彼らは一様に家族が神の子であったはずだ。
『なあっ!アラシ…一体、何があったんだ??テレサのお父さんは?』
子供に聖櫃の本当の意味を理解することはできないだろうし、大人たちがそれをしているとは思えない。
それでも空気を読むことに敏感な子供であれば、アラシのただならぬ様子に何かを感じるのであろう。
それにディルアナを失った聖櫃はその維持機能を停止しているからだろう、僅かに残っていた聖櫃の中の神の子たちはいつものように安らかな寝顔ではなく、苦悶の表情のままにぐったりとしている。
『お父さんっ!!!お父さん!!』
どんどんと聖櫃を叩く少女の声に父親は瞳を開くこともない。
『アラシ!!』
少年の叫びにアラシが持つ答えはない。
そして、世界の歴史を夢に見るという少女クリエスだけは、恐らく聖櫃からディルアナが解放されている意味を理解しているのであろう、顔を真っ青にして座り込んでいる。
『おと…おかあ…さんっ!』
あふれる涙は堪えることをしないまま丸い頬を伝う。
『何で?どうしてお父さんとお母さんを殺したの!?』
ハクアリティスに慟哭をぶつけるかの如くクリエスは叫んだ。
その言葉に事態を理解していなかった二人の子供がびくりと体を揺らした。
『何を言っているの?』
『女神様を聖櫃から出したら神の子は皆死んじゃうんだよ!?なのにっ!!!』
ハクアリティスもクリエスの言葉にやっと自分が犯した罪に気が付き始めたらしい。
だが、ハクアリティスにその事態に対応できる術はないであろう。
おろおろとあたりを見回わし、美しい顔に憐憫の表情を浮かべる。
『私はただ…ディルアナが―――』
『そんなこと知らない!!』
うろたえるハクアリティスに聖櫃に縋りついていた少女が声を張り上げた。
『返して!!!お父さんを…私のたった一人のお父さんを返して!貴方がっ!!』
年端もいかない子供にこんな声をこんな表情をさせたくなくて、私は戦っていたはずなのに…そう思うと強く胸が痛む。
『待って…じゃあ、ディルアナを元に戻せばいいんじゃない?ねえ、アラシ…そうでしょ?』
子供たちが捲し立てる中、唯一の味方であろうとアラシに近寄りハクアリティスはその腕をつかむ。
『聖櫃に出た瞬間に神は死ぬ。そして、死んだ存在は誰しもが蘇らない…それが神であろうとも。』
纏わりつくハクアリティスを払いのけて、アラシは無情に現実をハクアリティスに突き付ける。
『そんな…だって、私は知らなかった!ただっ、ディルアナが出たいって言うから!!!私は彼女の願いを聞いただけよ!?』
『でも、あんたが皆を殺したんだろ!!!』
アラシの横にいた少年が涙を流し始めたハクアリティスを一喝した。
その声にハクアリティスは怯え、少年の憎しみに満ちた表情に恐怖に青ざめた。
『あんたが誰だか僕たちは知らない。もしかして、本当に女神様が外に出たいって言ったのかもしれない…でも、あんたは間違いなく僕やテレサやクリエスの家族を殺したんだよ。』
アラシに突き放されて床に崩れ落ちたハクアリティスを見下ろして、少年は瞳には涙をたたえ、嗚咽を堪えながら言葉を続ける。
『僕は絶対にあんたを許さない。』
そして、振り上げられた少年の手に私は鈍く光るものを画面越しに見つけた。
「な?」
何処からそれが現れたのかも分からない。
だが、その冷たい光を放つ存在はナイフのような刃物にしか見えなくて、私はそれを振り上げる少年とその下で呆然とするハクアリティスを画面越しに見つめるしかできない。
―――ドス…
音として表現しにくい鈍い何かが刺さる音が響いて、赤い血が画面に飛び散るのが目に焼きつく。
そして、それを最後に私の意識は急激に遠のく…いや、遠のくというよりは自分という存在が酷く小さく希薄になっていく感覚。
『さようなら、ヒロ…お前という物語はこれで終わりだ。後は安らかに眠れ。』
最後に聞こえた悪魔の声は、絶望に麻痺した私にとってあまりに心地よかった。
なあ、エヴァ?結局、私は何もできなかったよ。
何処から始まっていたかも分からない絶望や憎悪や悲しみの連鎖を断ち切ることも、それから皆を守ることもできなかった。
皆、ただ幸せになりたいだけなのに、どうしてそれすら許されないんだろうか?
好きな人と一緒にいたい、家族と笑いあいたい、友達と遊びたい…みんなみんな小さな願いなのに、そのために誰しもが大きな代償を払って、その幸せのために他では誰かが大きな絶望を背負っている。
こんな理不尽で悲しくて辛い世界を生きることが私の罪であるなら、本当はこれを続けていかなくてはならないのかも知れない。
だけど、もうそれも―――…