第140話 絶望が貴方を殺す 3
注意:この話にはとてもネガティブな発言が含まれています。苦手は方は注意してください。
オウェルは例えディルアナが永遠に聖櫃の中から目覚めることがなくとも、彼女を守る。
それはきっと二度と自分を見つめてくれる瞳がなくても、生きていてくれる…それが最後の希望だからに違いない。
その最後の希望が脅かされる時、彼は自身が灰色の魔力に蝕まれようとも、何ふり構わずそれを奪うものを排除する。
だから、ディルアナの眠る聖櫃を見つめながらうっとりとしているハクアリティスに対して、オウェルは躊躇いなく鋭い爪を振り上げる。
私はその凶刃に倒れるハクアリティスの姿がありありと思い浮かんで咄嗟に目を閉じ、耳を塞ぐことはできないので彼女の断末魔の叫びに身を構えた。
『ギャアアアアアアア』
鼓膜が大きく震える叫びは正に断末魔という言葉に相応しいものだったろうが、それはハクアリティスが発したにしてはあまりに低く獣じみたものに感じられた。
私は不思議も思って恐る恐る画面に再び視線を戻す。
「なっ?!オウェル???」
そう。倒れていたのはハクアリティスではなく、神の本性を露わにしたオウェル。
大きな体が床に倒れ、ハクアリティスがそれを悠然とした笑みで見下ろしていた。
『獣如きが汚らわしい。』
そして、そう呟いた彼女の瞳は黄色く光り、その体からは見慣れた色の魔力が溢れていた。
「灰色の魔力!?どうして!!!」
「ハクアリティスは灰色の魔力によって作り出された人形。記憶のない空っぽの天使ハクアリティスの魂に灰色の魔力を満たして創りだした紛いものだ。灰色の魔力の濃さではハクアリティスの方が上だからね、灰色の魔力を解放させればオウェルが彼女に敵うはずもない。」
―――人形?
すなわちそれは万象の天使と同じく、死人を灰色の魔力によって蘇らせた存在。
しかし、その魂は死んだ人間のものだが生前の記憶は存在せず、全くの別人と言っても差し支えがない。
「だが、ハクアリティスは万象の天使の妻なのだろう?」
そうだ。初めてであった時、彼女は自分のことを『天使の花嫁』だと告げた。
「生前はね。だが、ハクアリティスは一度死んだ。そして、俺が人形として再び命を与えたのさ。天使たちには内緒でね。だけど、記憶を持たないハクアリティスはそれを知らない。彼女は自分のことを本物の万象の天使の妻ハクアリティスだと思っている。自分が一度死んだなんて知らないのさ。そういう教育を施したからね…だけど、別に彼女の誕生は万象の天使が望んだものじゃない。」
今まで感じてきた微妙な違和感が晴れていくのを感じた。
「エヴァンシェッドは人形である苦しみを十二分に知っているかね。ハクアリティスを人形として蘇らせる力は持っていてもそれを決してしようとはしなかった。」
エヴァンシェッドに執着するハクアリティスに対して、エヴァンシェッドの可笑しいほどに無関心な様子。
そもそもエヴァンシェッドは彼女の存在を知らなかった…いや、知っていたとしてもそれは自分の妻としてではない。自分の妻によく似たエンディミアン…その程度だったという訳だ。
「どうしてハクアリティスを人形として蘇らせた?」
エンシッダのことだ聞くだけで胸糞の悪い理由があるに違いない。
「そんな俺ばっかりが悪いみたいに言わないでくれる?もともとはとある人の依頼だったんだよ。君はその人がハクアリティスと一緒にいるところを銀月の都で見ているだろう?」
咄嗟に思い出されたのはヴィ・ヴィスターチャに嘆きの間へ連れて行かれる途中で見た奇妙な場面。
「偽の白き神…と天使?」
そうだ。あの後、あまりに様々なことがあり頭から抜けてしまっていたが、私は銀月の都で偽の白き神とハクアリティス、そして見たことのない天使が何やら揉めている場面を盗み見た。
「白き神の名を偽とつけてもあの女の名として語るな。あの偽物はケルシーと言う。」
私が白き神だと信じていた女性が偽物改めケルシーだと知って、エンシッダのケルシーに対する態度に感じていた矛盾もいくらか解消される。
「まあ、それは今はいいとしよう。話を戻すとハクアリティスを蘇らせろと依頼してきたのは、君は彼を直接知らなかったな。大地の天使ラインディルトさ。」
「大地の天使?神と契約せし天使が…どうして?」
万象の天使を長として彼に従っている(いや、天使たちも一枚岩ではなかったが)三大天使の一角を担っている天使が、どうしてハクアリティスを蘇らせたりしようとしたのだ?
「大地の天使はハクアリティスを愛していたのか?」
万象の天使は自分の背負う苦しみを愛する人に背負わせたくないから彼女を蘇らせなかった。
しかし、万象の天使と同じ気持ちを持つものが他にもいたら?
万象の天使のそんな様子を寧ろ歯がゆく感じている存在がいるとしたら?
そんな私の推測をエンシッダはせせら笑う。
「君は素直すぎるな。蘇らせるから愛…気持ちは分からなくないが、君みたいな愚かなほど素直な男には永遠にあのひん曲がりすぎた天使の感情は理解できないのかもしれない。」
素直というのは褒め言葉だと私は思っているが、その前に『愚かなほど』なんて修飾語が付いてしまっては台無しだ。
「どういう意味だ?」
「ラインディルトはハクアリティスを愛してなどいない。反対に憎んでいた。憎んで憎んでどうしようもない感情を抱いていたよ。まあ、強すぎる憎しみはある意味愛情に勝る執着になる時もあるからね。少なくとも並々ならぬ感情を抱いてはいたよ。どうしてだか理由を知りたいかい?」
私は首を振った。
自分の今の境遇だけで嫌というほど振り回されているというのに、これ以上誰かの事情で振り回されたり悩むのはごめんである。(とか言いつつ、いつも気が付くと巻き込まれている気もするが)
だが、そんな私を見てにやりとエンシッダが嫌な笑みを浮かべる。
「じゃあ、教えてあげるよ。」
いやいや、だから聞いてないよ…とは体もろくに動かせない今の私には突っ込むこともできやしない。
「ラインディルトが愛しているのがエヴァンシェッド…だからさ。」
はっとして今はエヴァンシェッドの意識のない彼を見た。
そこには私を人質(?)にされて動けずにいるラーオディルがいる。
ラーオディルは顔を嫌そうに歪めた。
「ふふふ。そんな嫌な顔をするなよ、ラーオディル。君がヴォルツィッタを想っている感情と、ラインディルトがエヴァンシェッドを想う感情にそう差があるとは思えないよ?」
「違う!」
「まあ、どんなに凶悪だろうが親の愛をヴォルツィッタに求めているだけの君とラインディルトの感情を一緒にするのは可哀想か。彼がエヴァンシェッドに求めるのは性的な面も含めているわけだしね。」
別に誰が誰を愛そうが、とりあえず自分が巻き込まれなければ気にしない。
さて、そういう愛情を大地の天使が万象の天使に向けていたとして、彼の妻であったハクアリティスを憎んでいたというところまでは納得しよう。
しかし、その感情の行き着く先がどうしてハクアリティスを人形として蘇らせるところに行き着く?
それも万象の天使の天敵ともいえるエンシッダに協力を求めてまで、それはなされなければならないことなのか?
「ラインディルトの感情がやはりヒロには理解できないだろう?」
例えばハクアリティスを万象の天使のために蘇らせたと仮定する。
でも、ハクアリティスの所在は彼からも万象の天使に恐らくは告げられていないのであれば、それはどう説明すればいい?
そもそも万象の天使はハクアリティスの人形として復活は望んでいなかったはずだ。
そして、万象の天使がヨイでないという自覚がある以上、人形であるハクアリティスを自分の妻であると認められるはずもない。
もし、本当の意味で大地の天使が万象の天使を愛しているというのであれば、そんな苦悩に万象の天使を突き落とすことをするだろうか?
いや、これは全て私の感情に基づいての推測にすぎず、エンシッダに言わせれば私に大地の天使の感情が理解できるはずがないのか。
「ラインディルトはね、エヴァンシェッドの愛した女性を自分のものにすることで、自分もエヴァンシェッドを愛し愛されている錯覚を手に入れようとしたのさ。エヴァンシェッドを自分のものにできないことを理解していた彼はせめて、彼の一番愛したものを手に入れようとした。そして、貶めようとした。」
全くエンシッダの言っている言葉の意味が理解できなかった。
「その顔は全然理解できてないでしょ?うーん、もっと簡単にいえば…ああ、自分の憧れる人の好きなものを自分も好きになりたい。そうすることで憧れる人に近づけるような、その人と同じ気持ちになれている気がする…そんな感情さ。」
例えばそれが好きな食べ物とかであれば、理解できるような気もする。
でも、私はそれに人間を置き換えることにどうしても拒否感を抱く。
愛した人の愛する人を好きになる…それができることはある意味最大の愛情なのかもしれない。
叶うことのない愛を昇華させるために、愛する人と自分の恋敵である人をも愛する…そうすれば誰も憎まずにいられるかもしれない。
だが、その果てにその人を愛する人から奪ってしまっては誰も救われない。
蘇ったハクアリティスを自分のものにして、大地の天使は満足できたのか?
そうしてハクアリティスもエヴァンシェッドも傷つけることで彼は満足できるのか?
私には決して理解できない感情だと思った。
「ははっ!だから言ったでしょ?ヒロには永遠にラインディルトの行動は理解できないさ。エヴァンシェッドの愛情を得ることが、どんなに努力してもできないと悟った時、さっき言った感情とは別にラインディルトは愛とは別のものでエヴァンシェッドの中に残しかないと思い至ったんだ。」
ハクアリティスを自分のものにして、万象の天使に憎まれようとしたということか?
愛ではなく憎まれることで万象の天使に忘れられないようにした?
「愛しているから大切にしたい幸せにしたい。それは所詮まっすぐに生きてきた綺麗な人間が思うことだけ…誰にも愛されたことのない存在になってみればわかる。自分が暗い汚い、そして御しがたい感情の中で溺れそうになる感覚。その中でたった一つ見つけた光に愛されないと絶望した瞬間、愛でなくてもいい、憎しみでもいいからその人の強い思いが欲しい。そうして、箍が外れた人間は全てを抑える術を忘れてしまうのさ。誰しもが最低だと思うことでも平然と行ってしまう。それこそ…この俺のように…ね。」
小さく萎んでいく言葉の最後を聞いて私はエンシッダをはっとして見ようとしたが、しばし視界から外れていた銀月の都を映していた画面を、床に這いつくばる私の前に出現させエンシッダは私の視界から顔を隠した。
そこにはうっとりと夢見がちに微笑むハクアリティスが、迸る灰色の魔力により浮かび上がりディルアナの聖櫃に触れている姿が映し出されていた。
淡い黄色の光が満ちる部屋で、ハクアリティスの瞳の色だけが異様なほどまでに輝く。
『ああ、彼女を解放できればエヴァンシェッド様は私の元に帰ってきてくれるのね。ラインディルトも私を解放してくれると言ってくれた。』
嬉しそうな声色。
そう呟いて笑う彼女は、何処にでもいるただ恋をする普通の少女なのかもしれない。
だが、彼女は知らない。その行動の先にある、あまりに多くの悲しみを、苦しみを、憎しみを。
「そんなのは嘘だけどね。」
エンシッダの酷く楽しそうな声があまりに無常に私の胸を抉る。
彼女は何も知らない。何も知ろうとはしない。
ただ、自分の都合のいい言葉だけを信じ、そう信じるようにエンシッダやラインディルトに唆されているにすぎない。
そうして利用する輩が悪いのはもちろんだが、だからといって決して彼女が許されることはないだろう。
そして、それを止めることができない自分が私は一番許せない!
「やめさせろぉ!!!」
オウェルの登場により静かになっていた私は再び暴れ出した。
「ディルアナには灰色の魔力を纏う神オウェルがいるからね…俺やラインディルトでは本気を出された彼に勝つのは正直難しい。だから、灰色の魔力で彼に勝るハクアリティスにこの大役を任せることにした。」
しかし、私など無視してエンシッダは悠然と言葉を続ける。
「さあ、ハクアリティス!黄色の神ディルアナを解放するんだ。」
そして、その言葉が聞こえているかのようにハクアリティスは聖櫃に触れたまま灰色の魔力を増大させた。
―――ギギギィ…
千年もの長きにわたり開くことのない聖櫃がゆっくりと重々しい音とともに開き出す。
『頼むっ!やめてくれぇえええええ!!!!!』
ハクアリティスの灰色の魔力に倒され、縛り付けられたオウェルの絶叫が木霊する。
彼は決して届くはずのない腕を伸ばし聖櫃が開くことを止めようとするが、彼の願いは何一つ届くことはない。
そして、それまで部屋を満たしていた淡いディルアナの魔力の光が、目を開けていられないほどに強い光を放った。




