第139話 絶望が貴方を殺す 2
「ショー…だと?」
絞り出した声は自分で聞いても酷く掠れていて苦しそうであった。
皮膚の内側から悪魔が突き破ってくるような、自分が限界まで膨張させられている感覚は苦しみと同時に私に恐怖を与えた。
だが、今この状況で自分の恐怖に我を忘れて、エンシッダを無視することなどできるはずがなかった。
「そう。俺が千年前から計画していた最高のショー。神と人間の楽しくて悲しい物語の結末さ。ああ、そのためにはこっちの舞台の様子も見ておかなくっちゃね。」
そう言って指を再び鳴らせば、新たな画面が出現する。それは、
「ティアッ…皆!」
そこには万象の天使に攫われるまでは一緒に戦っていた仲間たちが映し出されていた。
天使となりそこねた神・神の子、それに見たことのない巨大な鳥の化物がいた。
見るに鮮やかな青の羽に覆われた化物は、光の具合でその青の色を様々に変える。
しかし、一見すると美しいその様子からは想像もできない圧倒的な力で化物は天使を踏みつぶし、薙ぎ払ってゆく。
画面越しの映像に現実味を感じられず、ただ呆然とする私にエンシッダが声をかける。
「ヒロ。あの化物がアオイ、いや、蒼の神ブルー・ナイツの本性だよ。」
「…アオイが神?」
「そうさ。人と神を掛け合わせる術を造り出した罪深き神。」
アオイのことを人間だと思い込んでいた私は驚いたが、言われてみれば人間だと言われた覚えもないのかもしれない。
だが、神などいないと思っていた世界で、『貴方は神ですか?』なんて問いかけることなんてあるはずもないのだ。
アオイが意図的かそうでないかは別として、私に告げなかった以上は私がその事実を知る術は存在しなかった。
そもそも神がこんなにほいほいと存在しているこの状況が可笑しいのだ。
「アオイが本性を現している以上、人間側の優勢は固いだろう。いいのかい?」
エンシッダはそう言って、あの笑みを浮かべたままにラーオディルに乗っ取られたままの万象の天使を見やる。
アオイらしき化物が上げた獣の如き咆哮が画面から静寂の世界の胎内に響き渡った。
その勢いのままアオイは逃げまどう天使に襲いかかり、人間軍はアオイの後に続いて残った天使を仕留めてゆく。
不浄の大地という名の戦場に生きてきた私だが、これほど多くの人が血を命を流していく様を見たことがなかったから、その凄惨さにただ呆然とした。
戦いの前に覚悟したはずなのに、やはりこうして目の前に突き付けられると現実味が違った。
そんな私をエンシッダの声が呼び戻す。
「お前が背負いきれないほどの罪を背負ってでも守ると決めた一族たちが危機に瀕している…お前はそれでも戦わないのかい?」
万象の天使が答えられないことを知りつつもエンシッダは彼を挑発するように告げる。
「無駄だよ。エヴァンシェッドは全てを諦めた。自分の中にある僕という脅威に戦う気持ちすら彼はなくした。そもそも自分がいなくなると分かっていたから、エヴァンシェッドは全てを準備してここに至っている。自分がいなくても天使たちが戦えるように彼は全てを整えた。」
それを聞いて暗い喜びをエンシッダは露わにした。
「あははははっ!そうか!!いい気味だっ。それなのに天使は負けそうだけどね!!!」
弾けたように笑い出すエンシッダの表情は、心底嬉しそうで狂気に満ちる。
「俺からイヌア・ニルヴァーナ様を奪った顔だけの天使風情がっ!ただ、ヨイの魂を持っているという理由だけで、あいつは俺からあの方の心を奪った!初めから気に入らなかったんだ!!…奴がもう二度と出てこなくなったかと思うとすっきりした。この手で葬り去れなかった事は残念だけどねぇ。はははっは!」
誰かが消えたことをこれほど何の罪悪感もなく喜べることを私は酷く信じられない気持で見つめ、その狂気に私は一人置いていかれる。
「ははは―――はあ…笑い疲れた。あぁ、ヒロ」
そして、ゆらりと私を振り返るエンシッダの瞳は何かに汚れていた。
「失礼。ちょっと色々個人的感情が爆発してしまったかな?さて、ヒロ…君にとってはいいことだよね?このままアオイが頑張ってくれれば人間たちは間違いなく勝利するだろう。人間は新たな大地に踏み出し、運命を生きることとなる。」
―――そうだ。私はそのために戦っている。ここに存在している。
なのに、付きまとうこの不安感は何なのだろう?
エンシッダの言うことを信じることは簡単なことなのに、拭い去れない不安感を私は消すことができない。
だから、必死でその不安を打ち消すために私は言葉を紡ぐ。
「それはお前にとっても良いことだろう?人間軍はお前が作り上げたものだ。」
「本当にそう思っている?」
だが、彼は私の不安を煽る言葉を突き付ける。まるで私の不安こそが真実だと言わんばかりに。
「ヒロ、君は意外と頭がいいから分かっているだろう?俺の意地が悪いことも。俺が本当は人間の幸せなんか願っていないことも。そんな俺がわざわざこんな面倒な手段を使って戦いを仕掛けたか…その理由を君はずっと疑問に思ってきたはずだ。」
そうだ。これまで何度だって私はこの男に問いただしてきた。
『お前の目的は何だ?』
だが、一度とてエンシッダはその問いに真実を答えたことはなかった。返ってくるのは嫌なあの笑顔だけ…。
―――本当は分かっていた
この男がどんなに人間の為だとか言っても、分かっていたから、私は何一つ信じていないつもりだった。
それでもこの男の思惑がどうであれ、ちっぽけな自分でもできることがあると思ったから、せめて目の前のものだけでも守りたいと思ったから私はここまで来たのだ。戦ったのだ。
だが、心のどこかでは、私はこの男を信じていたのかもしれない。
だって、こいつも人間なのだから…本当の意味で人間の為にならないことなどするはずがないと、甘い考えを抱いていたのかもしれない。
だから、私はこれほどにエンシッダから告げられた言葉に愕然としている。信じたくないと願っている。
エンシッダが人間を裏切ることなど…あるはずがないと。
「天使側に味方する気か?」
「まさかっ!俺はいつでもイヌア・ニルヴァーナ様だけの味方さ。彼女を守るためだけに俺はただ存在し動いている。」
「何をする気だ?」
「それを君は見届けるんだ!」
エンシッダは体の動かない私の髪を掴むと、ディルアナの映る画面に私の顔を突きつけた。
場面は私がしばし戦場に目を奪われているうちに状況が変化していた。
そこに映るのはあれほど美しかった。いや、今も美しいままなのにどこか疲れ窶れ果てた女の姿。
しかし、その瞳だけは何かに魅入られたように爛々と光っていた。
「―――ハクアリティス」
「そう。彼女こそがこのショーのヒロイン。」
耳元に囁かれるエンシッダの声が毒のようだと感じた。
ディルアナの聖櫃の部屋に佇むハクアリティス。
この状況には見覚えがあった。それもつい最近だ。
『今、出してあげるから。』
そして、その予感が当たっていることを、吐息と共に吐き出された声で知る。
ハクアリティスの目的はディルアナの解放だ。
「やめさせろっ!!!!」
理解した瞬間に叫んでいた。
同時に脳裏に知り合った神の子たちの顔が鮮明に焼き付いて、次に砕け散った。
「嫌だね。」
その言葉に逆上した。
体が動かないとか、痛いとか、苦しいとか、全部関係なかった。
「アイツらが何をしたっていうんだ!?」
叫んで喚いて、私はエンシッダを振り払いたい一心で我武者羅に動いた。
だって、もしハクアリティスがディルアナを解放すれば、聖櫃の外では生きられない彼女は死ぬ。
そして…ディルアナと命を繋いでいる神の子たちもまたその運命を共にするのだ。
『僕らは絶対に勝たなくちゃならないんだ。勝てないかもしれないなんて、微塵も考えちゃならない。』
この戦いの前にそう言い切ったケルヴェロッカの声が響いた。
あどけない顔に浮かんだその決意を、彼の強さを私は眩しく感じた。
「だから言ったろ?最高のショーだって…ククッ」
「何がショーだ!狂ってるっ、お前がしているのはショーなんかじゃない!現実なんだぞ?!ディルアナを解放すれば神の子は死ぬんだろ?!なのに何でっ?」
『誰かを守りたいのなら、自分が生き残ることを、自分を大切にしないとダメなんだよ!!』
残されるものの苦しみを知り、皆で生きるために辛い戦いを選んだまだまだ子供としか言えない少年。
誰かを傷つけることに傷つかないはずがないのに、戦うことを選んだ。
そして、誰かを守るだけではなく、自分を守るために戦うと言ったケルヴェロッカを私は守りたかった。
彼が守りたいと言った仲間を守りたかった。
結局、私は何かを守りたいとか…何かしらの目的や意義がないと酷く不安定になってしまうのだ。
親を失った心の穴をユイアで埋め、ユイアを失った心の穴をエヴァで埋め、そして、そのエヴァを失った心の穴を私は…。
だが、開いた穴の形も大きさも失った存在の数だけ違うにきまっている。
失った大切な人も、その後に出会った大切な人も、誰一人だって誰かの代替がきくものではない。
だから、私の心は今だって失った大切な人を忘れられない。
それは翼に願わなくたって、大きさは違ったかもしれないが同じだったはずだ。
『なあ、もうこれ以上のものを失うのは辛いだろ?さあ、俺に全てを明け渡せ、もうヒロが傷つく必要はないんだ』
そんな私に悪魔の甘言が囁かれる。
それはまさに悪魔の誘惑。
目の前に迫る絶望が正に私が私として生きることを放棄させようとしていた。
楽になりたいと、悪魔に全てを任せてしまいたいと思わせようとしていた。だけど…
『小娘、証拠にもなくまた現れたのかっ!』
獣の鳴き声と共に響く強い声が私を引き戻す。
「チッ…堕ちた神が気が付いたか。」
「オウェル」
先日と同じようにディルアナを解放しようとするハクアリティスの前に、灰色の魔力で呪いを振り切り本性を現したオウェルが立ちはだかっていた。