第136話 悪魔の封印 2-5
さて、これから本当の意味で全てが明らかになろうとしている…そんな雰囲気が漂う場面であることは言うまでもない。
私もそれを期待した。
知りたいような、知りたくないような、この歪んだ世界の原因がこの目の前に現れるのだと。
だが、ごくりと一つ生唾を飲み込んだと思った瞬間に、ぐにゃりと視界が歪んだ。
「!?」
悪魔の記憶の中の美しい登場人物たちの顔が潰れたかと思ったが、それは次の瞬間に元に戻る。
だが、そこには先までとの様子は違っていた。
人物たちの配置、姿、人数までも変わっていた。
「どうしてぇ!?どうしてなのぉおお!?」
その中でもひと際甲高き声で取り乱した様子でいるのは、変わらずに白き神、その人であった。
しかし、そのことに疑問を抱くよりもまず私が思ったことは…
―――いや、この場合『どうしてぇ!?』は私だろうっ!
誰に聞こえる訳でもないのだが、私は叫ぶ。
それはないだろうと思っても仕方ない。
何しろ全部分かりそうだった場面が急に切り替わったのだ。
現れた場面は再び緊迫している様子だったが、どうにも気が抜けたというか、緊張感から解き放たれた私は、へにゃりと座り込んだ。
しかし、この記憶の登場人物ではない私のことなど、さっさとおいて話は進む。
白き神は泣いていた。
絶叫し、泣き叫び、そして、赤い何かをその胸に抱いていた。
その周りを囲んで万象の天使と悪魔、そしてエンシッダがそこにいた。
「あなたぁっ!」
泣き崩れたまま赤い何かを抱きしめる白き神の腕の中にあるものに私は目を見開く。
それは何やら赤く細い物体。
よくよく目を凝らしてみれば、それは人間によく似た形をしたものだと分かった。
頭も腕も胴も足もある。
だが、酷く干からびた様子のそれは肌は波打つほどにしわしわで、まさに骨と皮だけであった。
肌は赤黒く、髪はまばらにしか生えておらず、目玉は半分飛び出し、耳はとんがり、後頭部が腫れあがったように大きく、細く小さい体に対してあまりにアンバランスである。
苦しそうな表情は人間と同じ要素で構成されていても人間には見えず、血にまみれててらてらと光るその様はあまりにおぞましい。
「あれは…何だ?」
泣き叫ぶ白き神は自分の白い洋服が汚れることも厭わずに、それにしがみつく。
まるで大切な何かが消えていくのを必死で引き留めるかのように、力強く抱きしめながらも、その扱いは酷く優しげだ。
突然に現れた存在とに訳が分からずに混乱する私だったが、ふと耳元に聞こえてきた声にそれを理解することとなる。
『あれこそ、黒き神の本当の姿。』
僅かな吐息とともに聞こえてきた声に、驚きすぎてみっともなく叫んで飛びのいた。
だが、吐息を感じるくらいだ。確かに私に話しかけた存在を感じるのに、声の主はあたりを見回しても何処にもいない。
そもそもここは悪魔の記憶の中であり、私はその傍観者にすぎない訳で、私に気が付くものなどいないはずなのだ。
『お前もオウェルの真の姿を見たはずだ。神は人間の姿でほとんどを過ごすが、その真の姿は全く別のものだ。』
言葉の主の居所も正体も分からないままだったが、その言葉にオウェルが封印された異端で見せた、異形の獣の姿が思い出された。
オウェルも確かにあの姿こそが真実の姿であると言っていた。
だが、それでもオウェルの真の姿にはなるほどこれが神かと言われても、異形であっても漂う神聖な雰囲気や人間が立ち入ることができない威厳が存在した。
しかし、目の前にあるのはどんなに見たってあまりに弱弱しく醜い姿。それが
「黒…き神?」
『神の真の姿とは、すなわちその神の本性。死の象徴である黒き神の本性がアレさ。』
恐ろしく、醜く、そして、同時に哀れさも悲しさも感じるその姿が、死の本性。
『あれは正に死にかけているが、本当はあんな干からびて今にも息絶えそうな姿でもぴんぴんしているんだ。それはそれで気分が悪くなる姿だがな。』
黒き神によほどの恨みでもあるのか、謎の声の主の黒き神に向ける言葉は辛辣だ。
その異形の姿だけでなく、血塗れのままぐったりとした黒き神らしき存在の様子は、確かに瀕死に近い状態のように見え、確か神は不死であるはずだというから、それはいささか奇異に感じられた。
一瞬、底意地の悪い黒き神のことだ、何かの演技かとも思ったが、白き神の様子からしてそれがただの演技とも考えにくい。
では、あれが本当に黒き神だとして、かの神は真実、死にかけているということだろうか?
どうして?一体、誰にあそこまでの傷を与えられたのだろう?
そして、黒き神だと謎の存在に教えてもらわなければ、気が付きもしなかっただろうその事実をどうして私に?
「あんんたは…」
しかし、そうして私が謎の存在に語りかえる前に、甲高い声が場の硬直している空気を切り裂いた。
「許さないっ!私の愛しい人にっ!!1」
ぎらりと血走った目で、誰かに叫ぶでもなく、大声で楚々とした雰囲気のかけらもなく白き神は腹の底から絶叫する。
その言葉にも目を丸くする。
愛しい人…それは白き神にとっての黒き神?
対立しあっていたと思っていたのに、白き神は黒き神を愛していたということなのか?
いや、白き神が愛していたのは万象の天使が生まれ変わる前の魂である無色の神ヨイのはずで…?
「イヌア様!落ち着いてくださいっ!」
「五月蠅い!」
「黒き神は死んだわけではない!」
「黙れ!」
エンシッダが彼女を宥めようとするが、狂気に犯されたような白き神には無駄な言葉であるようだ。
それを悪魔と万象の天使はまるで他人事のように、私と同じように傍観している。
だが、私は気がつく。
白き神から立ち上る強い強い灰色の魔力の匂いに…。
元々灰色の魔力に侵されていたはずの白き神であったが、目に見えるほどの灰色の魔力は感じなかった。
その気配が血まみれの黒き神を強く抱き締めれば、抱きしめるほどに強くなる。
「諦めるんだな。白き神、貴方は何もかもを望みすぎた。」
その白き神に剣を突き付けるのは、悪魔ヴォルツィッタ。
彼は先程までの記憶の中とはどうにも雰囲気が変わっているように感じた。
姿は変わらずとも、白き神を見下ろす瞳の色も、皮肉に歪んだ口元も、彼が纏う魔力の気配すらも、何だかそれまで人間だった彼が全く違う生き物になったように変化している。
私に姿は似ていなくとも、どこか根源のような部分で繋がっていると感じていた部分が全く感じられなくなったのだ。
―――何だ?悪魔に何があった?いや、そもそもあれは悪魔なのか?
「悪魔!貴様は何をした?!ラーオディルは?!異能者は何処に?!」
白き神といえば悪魔が剣を突き付けようとも、黒き神との世界に入り込んで悪魔に視線すらも向けなかったが、それに対していつもどこか超然としているエンシッダが激情に任せたまま悪魔に喰ってかかった。
いつも不遜すぎて誰かに傅く姿など想像もできない彼だが、偽ではなく本物の白き神には忠義な家臣だったのだろう。
そして、彼の言葉もまた私の疑問と同じものであった。
彼の言葉から、どうやら先から一同は異能者に出会った直後の場面であることが推測できる。
そして、エンシッダもまた世界を創造したという異能者とやらに出会ったのだろう。
しかし、今はその存在が消え、更にラーオディルもまた消えた。
それに加えて、白き神は発狂し、黒き神は瀕死の状況、何かを知っていそうな悪魔とこれば、混乱するエンシッダにとって悪魔に喰ってかかるのは当然と言えば当然なのかもしれない。
―――ああ、いや、まだ万象の天使がこの場にいたな
未だ一言も発しない万象の天使の存在を視界には捕えていても注意していなかった私は、ふとそのことに気が付いて混乱する場面で万象の天使がどうしているか視線を向けた。
「?」
しかし、その姿を見て私は首を小さく傾げる。
悪魔の横にいて立つ姿は万象の天使は虚ろな瞳をしていた。
強い意志を秘めたいつも妖しい色を放つ紫の瞳からは生気が消え、何処を見ているか分からないように視線が定まっていない。
更に体に力が入らないのか、凭れかかる様に悪魔に身を寄せ、悪魔もまたそれを退けようともしない。
そして、私はもう一つの事実に気が付く。
万象の天使のその背中は私が初めて出会ったときと同じく、大きく広がる白い翼が片翼しかないのだ。
先までは確かにあった翼の片方が既にないということは、伝説の通りでいけば悪魔が片翼を既に切り落としたということだ。
『そうだ。やっと気が付いたか。お前に見せなかった記憶の中で、<俺>はアイツの翼を切り落とした。』
「なるほど、そうだったの…かぁって?!<俺>が翼を切り落としたって、あんたは―――」
再び発せられた言葉の間にちりばめられたヒントに、私はその人物が誰であるかに気が付く。
そうだ、そもそもここは『ヤツ』の記憶の中なのだ。
同じ魂を共有する故に私は『ヤツ』の記憶を見ることができているが、本来は私が覗くことなどできない、この記憶は『ヤツ』だけの所有物でなくてはならない。
「ヴォルツィッタ。出てきたらどうだ?私が驚いているのが、そんなに楽しいのか?」
低く唸るような声の私に、押し殺していても、からかう色が消えない笑い声がした。
「悪い悪い。別に楽しんでいた訳じゃないさ。記憶の中にも俺がいるからな。同一人物が二人もいたら、ヒロが混乱すると思っただけさ。」
そして、声がどこか反響するようなものから、クリアなものになると同時に想像通り悪魔ヴォルツィッタが現れた。
そして、どうみても私の反応をからかっているとしか思えない嘲りの表情を浮かべたまま、指を一つ鳴らすと私と悪魔を置いたまま続いていた記憶の進行を止めた。
喚くエンシッダ、死にかけの黒き神、発狂した白き神、虚ろな万象の天使、そして、記憶の中のどこか別人のような悪魔。
動きを止めたままの一同は異能者と会う前と後では、その大小に違いにあっても、明らかに何かが違ってきている。
その理由は一体何なのだろう?
「どうして、異能者を私に見せない?」
記憶を止めてみせた悪魔を見た瞬間に、いきなり場面を変えたのが彼だと察した。
それはどうでもいい場面を先送りしたとは思えない。
何らかの悪魔の意図を感じて、私は警戒したまま彼に言った。
「どうせすぐに会うことになる。お前と異能者の感動の対面をより効果的にするためさ。変な勘ぐりはやめろよ。」
悪魔と出会うのはこれで二回目。
実際は心の中で彼を感じる場面は何度かあったが、こうして精神世界であっても実体を感じて対面するのは悪魔に乗っ取られた灰色の花園の時以来だ。
だが、やはり私はあの時の悪魔と、この目の前の悪魔が違うと感じた。
それは記憶の中の悪魔と同じ、私と同じ根っこの部分が悪魔から根こそぎ消えてしまったような喪失感にも似ていた。
だからかもしれないが、私の中の第六感が警戒しろと叫んでいた。
「あんたは万象の天使と繋がっているのか?私をここに送り込んだのは奴だ。なのに、あんたが道先案内人のようにこうして出てくる。」
「それは封印が解かれたから。」
「何?」
返ってきた言葉は小さく掠れていて聞き取りにくかったが、私が聞き返したのは聞こえなかったからじゃない。私の問いに対してのそれが答えとなっていなかったら。
「俺は千年前、全てを封印した。世界の胎内も、白き神も、黒き神も、灰色の魔力も…そして俺の浅ましい罪も。」
―――悪魔の罪
かつて出会った時も悪魔は自分の罪を断ち切ってくれと言っていた。
だが、世界を救ったともいえる彼に何の罪があるというのであろう?
「それを永遠に封印するために俺は万象の天使の翼を切り落とし灰色の魔力を使わせないようにし、自らも罪人の処刑台で魂すらも砕かれて消えるつもりだった。少なくとも、そうすれば二度と俺の封印は解かれないはずだったんだ。」
はき捨てるように言って、悪魔は私を指さす。
「だが、俺の魂は消えていなかった。そして、お前がこの世に生を受けた。最悪だ。お前の誕生と同時に、お前の魂の中で覚醒した俺は嘆いたよ。だが、嘆いていても仕方ないから、ただひたすらに願った。お前がこの場所に近づかないように、俺の封印を解いてしまわないように。」
エンシッダに乞われ悪魔の封印と解くという話になった時、そういえば、酷く自分の中で何かが騒いだような気がしていたが、それはやはり悪魔の意識だったらしい。
「だが、事態は更に最悪のシナリオで進んだ。エンシッダに先を越されないようにエヴァの封印をお前に解かせたのに、あの性悪のせいで結局エヴァは万象の天使の元に戻った。そして、灰色の魔力を取り戻した万象の天使が封印を解いた。」
「ちょ…ちょっと待て!あんたの話をさっきから聞いていると、まるでエヴァが灰色の魔力だと言っているみたいだっ!」
話の先は聞きたい気がしたが、それよりも気になったので私は慌てて声を上げた。
だが、慌てる私など無視してあっけらかんと悪魔は言い放つ。
「何だ気が付いてなかったのか。そうさ、エヴァ…お前がそう名付けた万象の天使の片翼こそ、ヤツの灰色の魔力。そして、エヴァこそが神に忌み嫌われた子供そのもの。」
ガンと頭を金槌で叩かれたような、強い衝撃が走った。
―――ヒロちゃん、僕を忘れないで
忘れられない最後の言葉とともに、数年前エヴァとともに訪れた『呪われた街』での出来事が鮮明に思い出された。
『ああ、やっと貴方に会えた。』
そう言って私に強すぎる力で抱きついてきたエヴァ。
そうだ、あの時のあの表情、あの気配はいつものエヴァとは違っていた。
―――あれはラーオディル?
最後の『呪われた街』での出来事というのは番外編『異邦の少年 亡国の遺産』でのエピソードです。次話で説明を加えたいと思うので読んでいただかなくても大丈夫だと思いますが、気になった方はどうぞ。