第134話 悪魔の封印 2-3
意識が浮上した時、私はてっきり違う場所に飛ばされると思っていたが、先ほどと同じく不快なほどにグロテスクな場所・世界の胎内であった。
先ほどの衝撃(言葉にするのもおぞましい)から茫然とする思考は復活していなかったが、目の前に万象の天使がいないことで、とりあえずは理性をかき集めることに成功した。(あの天使!あとで絶対にぶん殴る!)
辺りを見回すと忌々しい天使の代わりに人影が二つ、大きいものと小さいものがあることに気がつく。
その姿をきちんと確認して、私は目を見開いた。
「ヴォル!」
子供特有の高く男女の区別が曖昧な声。
その子供の話はオウェルから聞いていた。
恐ろしいほどの美しさは禍々しく、さりとて、子供が心から笑ったとしたら、きっと誰もが幸せになるほど光り輝くことだろう…と。
オウェルはその光り輝く表情は見たことはないといっていたが、私はそれが確かな言葉であったと理解した。
―――その子供、灰色の魔力の根源であるという神に忌み嫌われた子供
胸を押しつぶすような、強い圧迫感を感じる空気。
子供と直接会ったことはなかったが、彼の気配を何度となく感じてきた私は、それをすぐに直感した。
そして、子供が声をかけた人物には見覚えがある。
『ヴォル』、私の前世であるという悪魔ヴォルツィッタだ。
二人は数メートルの距離を保ちながら睨み合っているというか、ラーオディルが一歩近づけば悪魔がじりじりと後退して距離を保ち牽制しあっているような状況だった。
私といえばその中間ほどで彼らの視界の邪魔になっているにも関わらず、私を通り越して睨み合う二人の様子に、私という存在はここでは透明人間なのだと理解した。
そんな状況に戸惑いつつも、私はいきなり放り投げられた自体に適応しようと必死に鈍い思考を巡らせた。
『さあ、千年前の記憶を思い出して…貴方の魂に刻みつけられた悪魔の記憶を体験してくるんだ。』
意識が遠のく前に聞いた万象の天使の声が思い出され、なるほど、まさに言葉のままに私の魂が覚えているという千年前の記憶を恐らく私の意識下で再現しているということだろう。
さりとて、普通に自分の記憶を思い出すよりも、リアルすぎる状況に戸惑いと混乱を覚えずにはいられない。
それにこれほどリアルだというのに、これはあくまで記憶であり記録だ。
私はただ目の前でおこることを見続けるしかできず、何にも干渉できないという感覚も妙なものだった。
試しに悪魔に触れようとしたが、まるで私は幽霊のように彼を通り抜けた。
さて、これから何が起こるのか全く分からないし、どこまでの記憶を私は体験させられるのかも分からない。
しかも、いきなり始まった二人の体面に、状況がどういう形になっているのかも分からない。
とりあえず場所が世界の胎内であることから、恐らくオウェルと別れた後、ラーオディルを止めると言って去った悪魔のその後であると推察された。
「久しぶりだね、会いたかったよ。」
悪魔ヴォルツィッタを見て笑う子供の表情は、真実嬉しそうで幸せそうで、美しく愛らしかった。
誰もがそんな笑顔を向けられて笑顔を返さないわけにはいかないと思うのだが、悪魔は酷く苦々しく顔を顰めた。
「俺はもう会わないと言ったはずだ。ラオ、お前が彼女を殺したことを俺は絶対に許せない。」
そう言って悪魔は黒の剣を強く握った。
かつては家族であったという二人の間に何かがあったのは、どうやら確からしい。
「だが、お前が俺にとって大切な存在であったという事実は変わらない。どんなにお前が憎くても憎みきれない気持ちも嘘じゃない。」
「だったら、一緒にいて?一緒にいよう?」
「俺が許せないのは俺だ。彼女を守れなかった俺、お前にあそこまでさせてしまった俺、お前を憎む俺、お前を許したいと思う俺…あの時から俺は俺を許せないまま生きた心地をしたことがない。」
それは酷く苦しそうな声だった。
その声にラーオディルの表情が変わった。
愛らしき子供から一瞬で魔王のように妖しい空気が湧きあがった。
私はそれが彼の罠であることを理解した。
灰色の魔力、あの得体のしれない魔力で子供は悪魔の思考能力を奪おうとしているのだ。
「じゃあ、全部忘れちゃおうよ。そうすればきっと楽になれるよ?」
「それは違う。」
子供から立ち上った濃い灰色の魔力の気配に、さすがその根源だと思ったが、それに何一つ動じない悪魔。
その中には動揺や苦痛の欠片すら感じなれなかった。
灰色の魔力に対してここまで平然としていられる…私とて膨大な魔力に対して苦痛を感じるというのに、同じ魂をもってしてのこの差は一体何なのだろう?
「忘れて楽になれるかもしれないが、彼女のことを忘れるくらいなら、俺は死んだ方が千倍ましだ。」
『彼女』というのは悪魔の恋人だろうか?
その『彼女』のことを悪魔が口にするたびに、ラーオディルの表情が微妙に引きつることが気になった。
悪魔と子供と彼女…この三者の間に一体何があったのだろう?
「そんなにあの女がいいの?アイツはヴォルを裏切っていたんだよ?僕が…僕の方が何倍も貴方のことを想っているのに、どうして?どうして貴方は僕を選んではくれないの?」
「もう、やめるんだ、ラオ。」
子供の言葉は淡々としているが、その内容は激しい。
「ヴォル、どうしても僕と一緒にいられなっていうなら、灰色の魔力を使って僕はヴォルと一つになる。僕の中で永遠に一緒にいるんだ。だけど、貴方はそれを望まないだろう?お願いだから僕の言うとおりにして。」
それは願いというよりも、脅迫である。
―――ヒトツニナロウ
それは何処からともなく聞こえてきた、私が嫌悪する囁き。
私はこの時、初めてその言葉をなんの根拠もなく拒否する自分の心を知った。
それは恐らく、千年前から続く私の魂が覚えていた記憶が、悪魔が拒否した言葉だからに違いない。
そして、聞こえてくるその囁きはラーオディルの願いであり、灰色の魔力の残る彼の思念に近いものなのかもしれない。
子供は悪魔が世界から消えてなお、その魂を求め続けているのだ。
だが、それほどまでに求められても悪魔は残酷に子供を突き放す。
「お前がどんなに俺を求めても、例え彼女のことがなかったとしても俺は決してお前が求める俺にはなれない。」
悪魔の言葉に愛らしい顔を鬼の形相に変えて、ラーオディルは自分の身の内から実体化するほどに濃い灰色の魔力を放出させ、脅迫を実行に移す。
それはまるで触手のように伸び、悪魔に向かっていく。
だが、悪魔はそれにひるむことすらなく、寧ろまるで触手が見えていないように、呆気なくそれに捕えられた。
「ラオ、いいか?人はどんなに誰かを想っても、決してその人と一つにはなれない。人は生まれてから死ぬまで永遠に一人なんだ。でも、だからこそ人は誰かと一緒にいたいと願う。誰かとの繋がりが大切だと思える。だが、力づくでそれをなしたとしても、それは本当の繋がりではない。」
「でも、失うよりマシさ。知っているでしょ?僕はもう二度と一人になるのは嫌なんだ。」
変わらない無表情の中に、焦りが見えた。
揺れる表情は寧ろ追い詰められているのが、悪魔でなく子供の方だと教えていた。
子供は何をそんなに怯えているのだろう?
一人になるのが怖いのか?
悪魔を失うのが怖いのか?
だが、彼の力をもってすれば、悪魔を失うことを回避することは可能に違いない。
力を使ってそれを強要するのが嫌なのか?
ならば、悪魔に対してラーオディルは灰色の魔力を使ってそれをしている。
それをしてでも悪魔を欲しているということなのか?
二人の間に何があったか、ほとんど知らない私は交わされる会話の本当の意味を知るには至らない。
悪魔に伸びた灰色の魔力の触手は、徐々に悪魔の体を締め上げているようで、悪魔は苦しそうに顔を歪める。
「僕はヴォルに初めて出会った時のことを昨日のことのように覚えてる。名前の通り全てから忌み嫌われていた僕を、たった一人慈しんでくれた。だからこそ、僕は今の僕になれた。誰からも好かれる容姿に全てを超越した力。全部を与えてくれたのはヴォルだ。」
一歩一歩、ラーオディルが悪魔に近づく。
「ヴォル、貴方は僕の全て。僕の世界。その貴方に拒否されたら僕はどうしたらいいの?ねえ、教えてよ?」
無表情に淡々と語っていた子供が、何かに縋るような声で灰色の魔力の上から悪魔に抱きついた。
それはまるで何かに脅える子供のように必死な姿。
だが、悪魔はそれに答えることはなかった。
痛いほどに続く沈黙。
しかして、それがどれくらい続いたか定かではないが、次に再び沈黙を破ったのはラーオディルであった。
「そう…それがヴォルの答えなんだ。」
そこには先程の頼りない子供の姿はなかった。
ただただ冷酷で無常で、オウェルの言葉にあったように全てを支配する、何か禍々しいほどの存在がそこにあった。
悪魔の絶対的な拒否が子供を変えた瞬間を、私は見た。
それまでラーオディルは何を言われても悪魔が自分を見捨てるはずはないと思っていた。
それがラーオディルの力故の根拠なのか、それとも彼と悪魔がこれまで築いてきた関係故の根拠なのかは定かではない。
だが、ここでそれが壊れた。
「なら、僕も答えを出すよ。」
そう子供が言った瞬間に、悪魔を包んでいた灰色の魔力が消えた。
崩れ落ち、噎せて肩で息をする悪魔を見下ろして、ラーオディルは笑った。
その笑みは私が初めて見た、酷く暗い歪んだもので、思わず息をのんだ。
「この世界が僕を拒否するなら、僕は僕を受け入れてくれる新しい世界を創る。でも、新しいものを造る前に古いこの世界を壊さないと。」
それはとても嬉しそうで、今にも歌いだしそうな声だった。
「灰色の魔力を使って世界を壊そうとしても無駄だ。既に東方の楽園は他の大地から隔離されつつある。後は俺が中から封印を完成させるだけだ。」
どうやら、ラーオディルの行動は予想が付いていたらしい。
「まさか、そんな方法で世界が全部壊れるとは思っていないよ。」
だが、ラーオディルはそれをさらりと否定した。
「灰色の魔力で世界を壊しても、それは完全な破壊じゃない。僕は塵一つもこの世界を残すつもりはないんだから。」
「何をするつもりだ?」
そこでそれまで動揺の色一つ見せなかった悪魔の表情が、初めて変化した。
「ねえ、本当にこの世界を造ったのは誰だか知っている?」
悪魔のその表情が楽しくて仕方ないと言ったように、ラーオディルは笑みを一層に深くした。