第132話 悪魔の封印 2−1
―――貴方を愛しています。例えこの愛が世界を滅ぼすのだとしても
【悪魔の封印 2】
突如として暗転した視界と急速な浮遊感。
最近、何度か経験したこの感覚は、間違いなく移動魔法に違いないと私は咄嗟に身構えた。
何せこの後に待ち構えているのは…『ベシャリ』という自分が床に叩きつけられる音と衝撃だ。
だから、その経験を元に私は身構えた訳なのだが…
「?」
いくら待ってもそれはやってこない。
「どうしたヒロ?」
そして、そう声を掛けられて私ははっとして、顔を間近で覗き見るようにしている万象の天使にぎょっとして勢いよく身を引いた。
どうやら、いつもとは違って今回は床に叩きつけられることはなかったらしい。
それなのに身構えしまっていた自分が妙に恥ずかしくて赤面する私に、万象の天使は小首をかしげる。(小奇麗な男はそんな婦女子がするような仕草をしても様になるのが憎らしい)
「い…いや、何でもない。っていうかここ…はあっ!?」
彼の注意を逸らそうと一体何処に移動したのかと聞こうかと周囲を見回した瞬間、自分でもこんな声が出るのかというくらい素っ頓狂な声が出た。
本当は残してきたティア達や神の子たちのことは、この上なく気がかりだったが、思わず諸々の不安ごとが吹っ飛ぶくらい茫然とした。
そこは何と表現したらいいものか、今まで見たこともなければ、こんな場所があると想像したこともない、あまりにグロテスクな場所だった。
何かの粘膜に覆われている場所は、全体的に赤っぽい…その壁一面に何か血管のようなものが浮き出ていて、そこまで認識することができて、ああ、と納得した。
―――ここは何かの体内だ
何かの体内に入るなんて経験したこともなかったが、殺して食べたりするために開いたことのある動物の体内にこの場所はよく似ていた。
更に感じるのは足の裏を通じて伝わってくる脈打つ血管に鼓動から、この場所が生きていることは間違いないと確信した。
「ああ、ここは少し特殊な場所だからな。初めてきた人は大体ヒロみたいに驚くんだ。」
「な、何なんだよ…この場所は?」
ついでにどう考えても『少し特殊な場所』という言葉で片付けられないだろうと心の中でつっこんだ。
「この場所は古い言葉でヴァラウィーダ…世界の胎内という名前だ。名前の通り、ここは正に世界の体の中らしい。」
「世界の体?」
言っている意味が理解できなかった。
世界というのは私が現実に生きている場所で、その多くは不浄の大地という名の荒れ地であったり、何処までも広がる空であったりするはずで、少なくともこんな何かの胎内であるとは思えない。
故にここが世界の胎内だというのであれば、私が生きてきた世界は一体何だというのだ?生き物の体の中ということなのか?
空や大地、その全てが幻とか、そういうオチなのか?
「理解できないのは仕方ない。俺だって世界に体がある理由を知らない。だけど、体があるってわかったところで、俺たちが知らなかっただけで今までと世界の何が変わる訳じゃない。別にいつも通り生きていけばいいだけだろ?」
「ま…まあ」
そうなのか?と言われた言葉には疑問を投げかけざるを得なかったが、あくまで自然とそんな風に言う彼に私は声に出してそれを言えない。
しかし、きっと言葉に出さずとも、私の思いは顔に出ていたのだろう。
万象の天使は一瞬苦笑を滲ませ、それ以上は彼は言葉を続けなかった…いや、続けられなかったとった方がよかったのかもしれない。
彼は『アルモノ』を目にとめると、その表情を酷く強張らせる。
「?」
私も彼のそんな様子に引きつけられるように『ソレ』に視線を向けて目を見開く。
―――それは恐らく人間だったものが朽ち果てたモノ
シルエットからそれが人影だというのは理解できた。
それは右手を前に大きく突き出し、こちらに迫りくるような、鬼気迫る勢いで何かを求めているような様子を漂わせていた。
しかし、シルエットは人の形を呈していても、それを形成するのはまるで泥のような黒ずんだ物体で、人だった形は崩れつつあった。
ただ、目や口や鼻の窪み、体のシルエットを形作る曲線などは、崩れ始めていても人間と知ることができるまで形を保ち、むしろ崩れ始めてはいたが、まるで今にも絶叫しそうなほどにリアリティを持っていた。
故に彫刻や造り物とは言い切れない。
まるで生きた人間が長い年月をかけて、すこしづく腐っていったような、形をとどめたままに腐っていった人間。
何となくそんな言葉がぴったりだと思った。
「ヴァオルガ・ニルヴァーナ」
ぽつりと呟かれた音は聞きなれない言葉。
その後にそれを説明するように万象の天使は続けた。
「朽ち果てた白…という意味さ。あれこそが俺たちが生命の源だと崇めている白き神イヌア・ニルヴァーナのなれの果て。」
「へ…あ?白き…神?」
何やら先ほどより驚いてばかりだなと思いつつも、目を白黒させるしかできない自分が情けなかった。
だが、白き神イヌア・ニルヴァーナには少なくとも数週間前は銀月の都にいたはずで、その後にあんな姿になったということなのか?
「ヒロが知っている白き神は偽物だよ。彼女は元々白き神の侍女だった女神。白き神になりかわらせてあげるかわりに、天使の為の白き神であることを契約させた。」
「そ…そうなのか。」
驚く反面、なるほどと納得する部分があった。
罪人の巡礼地で過ごしたのは僅かな時間だったが、その中で感じた(本名は不明なためとりあえず)偽白き神は神の頂点に立つにしては存在感が薄く、天使に対しても酷く自虐的な様子だった。
「白き神があんな風になって、それでも天使の権威として白き神は必要だった。だから、代役を立てたという訳だ。彼女も白き神同様に俺に執着していたから、白き神になりかわって俺を独占できると言ったら簡単に主を裏切ってくれた。」
これをもしそこらの男が言っていたら、なんてナルシストな野郎だと思うところだが、この万象の天使が言うとあくまで自然だった。
それにしても偽白き神が万象の天使に執着しているのは了解していたが、そこまで話を聞くと果たして本物の白き神がどうしてこんな風になったのかが問題となってくる。
何しろ生命の源とされる白き神があれ程までに恐ろしい姿になっていようとは…、生命の気配の欠片もない。
それどころか深い死の気配を強く感じる。それに…
『最果ての渓谷に彼女の目的があるからさ。それを叶えるために彼女は一時的に俺の元にいるにすぎない。彼女も俺も互いを利用しているだけなのさ。』
封印された異端で偽白き神が人間の元にいる理由を聞いた時に、エンシッダがそう言った言葉を思い出した。
ここに至るまで私も私なりに、千年前のことや自分のことを知ってきたつもりだったが、まだまだ知らせざる真実があり、私の知らないところで蠢く何かが存在している。
その事実に冷たいものが喉を通るような感覚が私を支配するが、ここまできてもはや逃げ出すわけにはいかない。
―――人間の未来を守るために私は戦うと決めたのだから
驚愕や混乱に挫けそうになる心をそう思って奮い立たせながら、私はしっかりと世にも恐ろしげな白き神のなれの果てを見据えた。
「お前が見せたいといったのは『アレ』のことなのか?」
私が今考えなければならないのは千年前の知られざる真実なのではなく、天使と人間の戦いの行方だ。
いきなりの展開に万象の天使との会話に流されつつあったのを軌道修正するためにも、私は黒の剣を構え、天使から距離をとった。
「『アレ』っていうのは失礼じゃないか。朽ち果てた白…いや、あの白き神はヒロが求めている第二の悪魔の封印だぞ?」
「な―――」
第二の悪魔の封印、それは先程この万象の天使が解いた第一の封印悪魔の槍の先にあった西方の魔境と東方の楽園を分かつたった一つの存在。
それさえ破壊できれば人間は天使の支配から解放され、私が必ず壊すと約束したもの。
―――それが本物の白き神?
「悪魔は千年前、この場所で白き神を封印すると同時に東方の楽園を封印した。」
「東方の楽園を封印?」
その言葉に違和感を感じた。
「そう世界の果ては人間を閉じ込めるためにあるものじゃない。あれは他の大地を守るための封印。東方の楽園こそが封印された存在なのさ。」
何から?という疑問は口にできなかった。
それに聞かずともすぐに万象の天使はその答えを教えてくれた。
「この楽園は白き神という灰色の魔力から、世界を守るために封印された大地なのさ。」