第129話 君こそが僕の罪の証 3
<SIDEアオイ 現在>
それは一瞬、目を閉じた瞬間に通り抜けていった過去の記憶と、言葉では言い表せない複雑で奇妙なたくさんの感情。
ちらりとティアを見下ろせば、初めて出会ったときと変わらぬ強く憎しみのこもった瞳で彼女は俺を睨みつける。
ただ、違うのは彼女の瞳の色。
あの時は漆黒に彩られていた瞳は、今は融合した紅の神イソルマンナの魔力の影響で血のように赤く染まっている。
その瞳の色を見るたびに、『あんたが私を変えたのだ』…と俺は自分の罪を突き付けられているような気分に陥る。
それは神として天狗になっていたときは、決して感じなかった罪悪感。
今となっては当たり前のそれを、千年前の俺は何も知らなかった。
―――彼女と出会ってから、俺は色々なことを教わった様な気がする
天使によって虐げられてきた流離人が最後に行き着いた人体実験という舞台。
その中でもティアは、いや、ティアだけじゃない流離人の全ては何度も逃亡を図り、失敗を繰り返し、その度に天使により酷い折檻を受けていた。
なのに、懲りずに彼らは諦めることも、絶望することもなく、生きるために、自由を得るために努力を続けた。
俺はそんな無駄なあがきを続ける彼らが滑稽にすら見えて馬鹿にしていた。
だけれど、本当の馬鹿が俺のほうだと教えてくれたのも彼らだった。
そして、ティアはそれを昔助けてくれた悪魔に教わったと言った。
『生きている…それこそが希望だって、ヴォルは私たちに教えてくれた。』
そんな簡単な希望があっていいものかと、死という存在があまりに遠い神であった俺は初めにそれを聞いた時は嘲笑すら浮かべた。
だけれど、長い事情は割愛するが、シェルシドラによって死の淵を経験した俺は、その意味を身をもって実感した。
『生きている』、それは何物にも代えがたい素晴らしいことだ。
何をするにも生きていなければ、生き物は世界に何も残せない。
だって、『死』すら『生きていた』という前提がなければ成り立たない。
『生きていた者が死んだ』その事実が残された者に悲しみや苦しみを与える訳であって、生きていなければ死には、意味も存在もありはしないのだ。
だからこそ、生物は皆、生きることに必死なのだ。それが正しい姿なのだ。
それを理解できて俺は初めて自分が重い罪を重ねてきたことに気が付く。
生きているものを自分のエゴで実験に使い、まっすぐに生きてきた彼らの生を捻じ曲げた。
後悔しても遅いことは分かっていても、後悔せずにはいられなかった。
そして、俺は知っている。天使が俺と同じ過ちを行っていることを…。
人間の命を使って楽園を保ち、自分たちの本当の姿を見ないまま、偽りを本当にするために罪を重ねている。
彼らを変えてしまったのは俺たちの罪だけれど、これ以上の罪を彼らに犯し続けてほしくはなかった。
エンシッダにシラユリを人質にされていることも、なりそこねた神たちに対する罪滅ぼしも、俺が人間に協力している大きな要因ではあるが、俺は天使も救ってやりたかった。
…いや、救うなんて大きなことを俺が言うべきじゃないことは分かっている。
でも、それでも俺は天使に気が付いてほしかった。
俺が過去に気が付けなかったように、全ての種族が『生きている』ことに必死なことを、そして、それがどんなに大切なことかを…。
彼らも昔は知っていたはずの、悲しみと絶望と憎しみで忘れてしまったその感情を呼び戻してほしかった。
―――だから、俺は天使と戦う。俺の罪そのものと
「ブルー・ナイツ…やはり、彼女が悲しもうが貴様は骨の一つまで消滅させておくべきだった。」
『まあ、神を殺すなら、それくらいしないと駄目だよね。』
俺の出現に動揺していたはずのシェルシドラが、さすがというべきか、すぐさま自分を取り戻すと殺気をみなぎらせて剣を構えた。
三大天使のラインディルトもサンタマリアもそれに続く。
「他の天使は下がっておいでなさい。神を相手にできるのは私たちだけ…」
『お前たちは神をその身に宿している神喰いだからね。』
その言葉に光を宿さない盲目の瞳が怒りに揺れた。
「まさか、貴様が出てくるとは…な。娘と隠居生活をしていればいいものを…」
『そうできればいいのだけれど、これ以上君たちが罪を重ねるのを俺は見ているだけではいられなくなった。』
「何を!?神がそんな戯言を!!!」
殺気立つ天使群。
『そうだ。神が天使にこんなことをいう権利はない。だけど、天使が人間を虐げる権利だって本当は何もないはずだ。』
誰かに何かされたから、他の誰かにそれをしてもいい。
そんな権利、誰も持ってはいけないものだ。
どこかでこの悲しい連鎖を止めなくては、世界は永遠に苦しみに続けることになる。
だけれど、こうして戦いが始まってしまった以上、もはや言葉は届くまい。
俺は一端、話を切ると再びラインディルトに視線を向けた。
『ラインディルト…君こそ俺にあんなお人形を作らせて、遊びを続けるのかと思えば、こうも呆気なくエンシッダを裏切るなんてどういうつもりだい?』
ついさっきまで銀月の都にいたはずの彼が、当たり前のようにティアに剣を突き付けていたのを見た瞬間は自分の目を疑った。
エンシッダにはラインディルトは『あの人形』を自分のものにするために、天使を裏切ったという話で、ヴィ・ヴィスターチャもそれを容認していたから、まさか彼が再び天使側に戻るなど想像もしていなかった。
―――エンシッダはこうなることを分かっていたのか?
そこまで仮定して、ラインディルトの為に創った『あの人形』の存在が、急に不気味な存在感で俺の中で警鐘を鳴らし始めた。
ラインディルトの個人的趣味のために造るように命令された『あの人形』。
彼の屈折した愛情表現に眉はしかめたが、そのためではなく、万が一、ラインディルトが千年前の再現のために彼女を必要としていたら?
そう考えた途端にこの少々混乱している現状が、ものすごい勢いですっきりと辻褄があっていく。
そして、それが真であることを証明するかのように、ラインディルトが普段は全く動かさない表情をにやりと歪めた。
「アオイ?お人形ってまさか―――」
『君も下がっていて。三大天使たちは俺が相手をするよ。君たちは他の天使たちに邪魔をさせないでいて。』
ティアの言葉を遮って、俺は畳みかけるように言った。
声がかなり焦っていたものになる。
気が付いた事実に気が狂いそうだった。
普段の人型とは違い、かなり見下ろさなければティアの表情を窺うことはできない。
俺を見上げるティアの表情はあきらかに不満げであったが、俺の態度に何かを感じ取ったのか了解といったように手をあげた。
なりそこねた神たちも三大天使には引けを取らないほどの魔力を有しているのは、それを創造した俺が分からないわけではなかったが、興奮や力の解放は彼女たちの中の神の存在を大きくする。
現場こそ見てはいないけど、色濃く残るいつもとは違う濃厚な魔力には彼女の中の神が久々に表に出たことを如実に表していた。
あの事実に気が付いた以上、今後の展開が全く見えてこず、今は無駄に彼らに体力を消耗させるべきではないと俺は判断したのだ。
「貴様、一人で俺たち三人を相手にするというのか?」
馬鹿なことを言うなと言うばかりに、シェルシドラが皮肉に笑う。
『そうだよ。確かに現実的に考えれば、神一人で神三人を相手にすることになるからね。無謀と言えば無謀なのかもしれない。だけど、君たちは俺のように神の魔力を真に解放することはできないだろう?』
そうだ。どんなに神をその身に宿そうと、彼らはあくまで天使で人間なのだ。
俺のような姿になれるはずもなく、かくして、それは神の力の真の解放にはつながらない。
千年前は、白き神によって、灰色の魔力によって、思うような力を発揮できないままに天使に滅ぼされた神だが、今回は俺を制約するものは何一つ存在していない。
だからこそ、彼らは本当の神の力をしらないのだ。
全ての生命の根源から生まれた、純度の高い本当の魔力。
その魔力そのものが命である俺たちの、本当の姿を…。
―――バサリバサリ
広げれば己の体の数倍は長い翼。
その翼が纏う羽の全てには血が通い、魔力が宿って、青白く光る。
『さあ、千年前につけられなかった決着をつけよう。』
それを最後に俺は言葉を無くす。
本来、神は獣に近い。
姿だけじゃない、大きすぎる力は本能を目覚めさせて、俺は高く高く咆哮を上げた。
ビリビリとその咆哮に共鳴して空気が痛いほどに震え、天使たちがその大きさに耳を塞ぎ茫然とこちらを見上げているのが窺えた。
だが、天使たちが我に帰るのを待っている余裕はない。
ふわりと僅かに体を浮かすと、俺は天使に向かって羽を思いっきり羽ばたかせて魔力を秘めた羽と突風を彼らにぶつけた。
三大天使はそれを魔力の盾で退けるも、多くの天使がその攻撃に叫びをあげながら倒れてゆく。
ただ、僅かに傷をつけられただけで苦しげに倒れてゆく天使たち。
魔力は様々な色によって属性が分けられている。
灰色の魔力のように他の魔力を取り込むものは異質で、本来は違う色同士の魔力は反発しあい、混じり合うことは決してない。
故に人間のように魔力を持たない生物以外にとって、自分が持つ色以外の魔力が体に入り込むということは、毒に近い有毒性を持つのだ。
有毒性は入り込んだ魔力と自分の持つ魔力の濃さによって差は出るが、神と天使では、勿論神のほうが魔力の濃さは強いわけで、天使たちは傷を付けた羽から体に入り込んだ俺の魔力によって、一時的だが毒に犯されたような症状に陥ったのだ。
「ブルー・ナイツ!!!」
シェルシドラが叫びながら剣を振り上げて襲いかかるのを、翼から発する衝撃波で吹っ飛ばす。
だが、次の瞬間に背中に強い衝撃を受けて、空中で態勢を崩した。
背後を見ればサンタマリアがいつの間にか俺の背後から魔力を放っていたらしい。
体が熱くひりひりとしたが、それに気をとられている暇はない。
サンタマリアは再びその手に魔力を込め始め、そして左右からはシェルシドラとラインディルトが同時に剣を振り上げていた。
彼らが狙うは俺の首元!天使たちは一気に勝負を決めるつもりらしい。
『アオイ!!!』
他の天使たちの相手をしていたティア達が俺の名前を呼ぶ。
―――ザシュッッ!
しかし、彼らが呼んでくれる名前の余韻に浸る暇もなく、続けざまに背中に走る大きな衝撃、そして首元・胸元に突き刺さる魔力を帯びた剣の感触。
「神のくせに他愛もない…」
耳元でラインディルトの声がした。
体の中に入り込んでくる、俺とは違う濃い魔力の気配。
『ギャアアアアアア』
鋭い痛みが俺を襲い、体が大きく揺れて、俺はまるで断末魔の叫びのような声で啼いた。