第122話 悪魔の封印 1-3
「何だ!?」
「に…人間だ!!敵襲!敵襲!!!」
天使たちが突然に上がった爆音に右往左往する。
普段は澄ました顔で人間を見下している天使のそんな姿はさぞ滑稽だろうに、今の私にそれをきちんと確認する余裕はない。
息苦しいトンネルの先には、私が想像していたよりもかなり多い武装した天使がいた。
それが動揺はしているが、一斉に牙を剥いてくるのだ。
ティア達が魔力や武器で天使を薙ぎ払いながら進んでいるので、私はとりあえず黒の剣を構えてはいるものの、何もしないままに走り抜けられているのだが、奇襲でなければあっという間に取り囲まれてジ・エンドであったに違いない。
そして、一目散に高く高くそびえ立つ悪魔の槍に向ってひた走る。
遠くから見た時は小さな棒くらいにしか見えなかったはずだが、こうして近くで見上げてみると頂上が高すぎて確認できないほど。
私はその圧倒的な迫力と高さ、そして灰色の魔力によって構成されているその異質なる気配に、全力で走りながらごくりと唾を飲み込んだ。
「ちっ。思ったより悪魔の槍の守りが堅いわね。」
ティアが女性とは思えない豪快な剣技で天使たちをバッタバッタと切り倒していく。
「おいおい。女が舌うちなんかするなよ。」
それとは対照的に一発必中。
弓を手にしたイフリータは冷静に敵を仕留めている。
「天使も悪魔の槍さえ封印を解かれなければ、最果ての渓谷を守ることができるとわかっているはずだからな。当然と言えば当然だ。」
キシンは武器すら持たず、拳と蹴りだけで天使を倒している。
人間ではないと、なりそこねた神という存在だと聞いたばかりだが、それでも彼らの強さに私は驚くほかない。
はっきり言ってしまえば、その強さは天使など赤子をひねるかの如く…だ。
その強さに圧倒されたのだろうか、気がつけば天使は彼女たちを避けるかのように悪魔の槍への道を開けていた。
「何?俺たちの強さに恐れをなした?」
あまりのあっけない天使の対応にイフリータがおどけながらも警戒するように呟くと、残り僅か数十メートル先にある悪魔の槍の傍から数人の天使の影がずらりと並んだ。
「イフリータが余計な事を言うから、厄介な奴らが出てきたじゃない。馬鹿っ!」
先頭を走るティアが立ち止まり、イフリータを罵った。
彼のせいではないと明らかだが、ずらりと並ぶ天使の面子に彼女が八つ当たりする気持ちも分からなくもない。
「とうの昔に絶滅させたと思っていた種族にまた出会うことになるとは思わなかった。まさか、なりそこねた神が生きていたとはな。しかも、人間の味方をするとは…貴様ら何を考えている?」
その中央に立つのは天使の長・万象の天使エヴァンシェッド。
この世界でたった一人だけ白き翼を背中に背負い、美しくも禍々しき天使は感情の見えない表情でこちらを見下ろしていた。
「どうして私たちのことを?」
その声にはティア達がなりそこねた神であることを知っているのかと問うのと同時に、私たちの作戦を知っていたといわんばかりの天使に対する様子への二つの問いが含まれていた。
「人間側に裏切りの預言者がいるように、我々の元にもマール・ドシャがいる。人間の動向を探ることくらい造作もない。そして、貴様らはもう袋の鼠…なりそこねた神も今度こそ絶滅だ。」
その言葉に万象の天使を中心にずらりと並んでいた天使たちが私たちに刃を向け、私たちに道を開けていた天使たちが取り囲むように移動する。
ちなみに万象の天使の横には三大天使であるサンタマリアや、エンリッヒにシャオンという私も顔を見知った天使がおり、その他の天使も私が知らないだけでかなりの魔力の気配を感じる天使たちがいる。
ある程度のことは予想していたものの人間がすぐそこまで攻め込んでいるというのに、悪魔の槍に対してここまでの守りの布陣を敷いているとは考えていなかった。
未来の予想合戦は、ヴィ・ヴィスターチャの力を過信しすぎた人間側の負けという訳である。
「―――ヒロ」
じりじりと迫りくる天使に追い詰められ、万事休すといった状況でティアが視線は天使に向けたままに小さく呟いた。
「私たちが何とか天使を引き付ける。貴方はここから一人で悪魔の槍まで走って。」
「バッ―――」
この状況下で彼女たちを置いていくなどできるわけがないと、叫ぼうとしてティアに気配だけで制止される。
「黙って。よく聞いて。あの面子相手じゃ、このまま正面切って戦っても殺されるのが目に見えている。でも、悪魔の槍の解放で灰色の魔力が暴走でもすれば状況は分からなくなる。」
「だが、私がそばにいなくては、君たちだってその暴走に巻き込まれる可能性だってあるんだぞ?!」
いや、むしろ巻き込まれる可能性が限りなく高い。
私がそばにいれば灰色の魔力から彼女たちを守ることもできようが、自分に帰属していない灰色の魔力の制御については、どんなに訓練を重ねてもほとんどできていない。
だからといって、あれだけの質量の灰色の魔力を一瞬で自分の中に取り込もうなんて、はっきりいって自殺行為。それをしようとした瞬間に私は灰色の魔力ではち切れてしまうに違いない。
「しかし、やらない訳にはいかないだろう?」
「あったりまえだ。俺たちは何をしても悪魔の槍の解放をしなくちゃいけねえんだ。皆のために。」
―――『皆』…今戦っている全ての人間と、そして戦いの果てに死んでいったたくさんの人間
キシンとイフリータの言葉に私は言葉を詰まらせる。
彼らの言うことは正論で、そして同時にこの状況下で他に何か策がある訳でもなかった。
「そういう事よ。さあ、頼むわよ。」
そういって、ティアたちは後ろにいる私に背後で親指を立てて見せた。
最悪の状況なのに、どこまでも明るい彼女たちの強さが頼もしかった。
そして、そのままティア達はこれまでとはケタの違う魔力を身に纏わせて天使に突撃を仕掛けていった。
同時に巻き起こる爆音と爆煙。
恐らく私を移動しやすくするために、わざと煙を上げさせたのだろうが、その派手さに私は目を白黒させる。
しかし、混乱する天使たちの叫び声と同じく混乱する私…じゃ駄目な訳で、私はその煙と混乱に乗じて低い姿勢のまま気配を消して走り出した。
立ち込める煙の中、すぐそばでティアたちと天使が戦っている気配をびんびんと感じながら走るのはスリルがあり過ぎた。
突然、吹っ飛ばされた天使が横から突っ込んできたり、煙で視界が悪く急に目の前に天使が現れて、慌ててぶん殴って気絶させたり…大した距離を走ったはずではないのに、悪魔の槍の足元に転びながらも辿りついた時は、情けないほどに息を切らしている自分がいた。
「久しぶりだなヒロ。」
そんな私に戦場に似つかわしくない酷く親しげな声がかけられる。
小高く盛り上がった場所に突き刺さっている悪魔の槍の足元には煙は立ち込めておらず、その場所に地面に転がった私を見下ろす一人の天使の姿は鮮明に私の中に飛び込んできた。
「万象の天使…」
「いやなだ。俺と君の仲だろう?エヴァンシェッド、いや、君にならエヴァって呼んでくれても構わないよ?あ、その場合は俺は君のことはヒロちゃんって呼んだほ―――」
「笑えない冗談はやめろ!」
先ほどとは打って変わってにこやかな万象の天使に、エヴァを引き合いに出されて咄嗟に声を荒らげる。
そして、同時に態勢を立て直して黒の剣を握る手に力を込めた。
あたりを見回すと万象の天使以外は、ティアたちとの戦闘に参加しているらしく誰もいない。
「冗談じゃないんだけどな。せっかく、君と俺、二人っきりなんだ。そんなにピリピリしないでくれ。」
まるで私と二人で話したかったと言わんばかりの言葉に、私は眉をひそめた。
「俺と君は切っても切れない関係にある。」
そして、訳のわからない言葉と共に彼は左手の甲を私に見せた。
一方の私と言えば蛇に睨まれた蛙の如くビビりまっくていたが、じりじりと万象の天使と距離を取るように悪魔の槍へと近づきつつあった。
濃く重くなる灰色の魔力は私の体に痛みすら与えたが、|悪魔の槍(ヴァ―シシェル)の気配がざわめくのを感じた。
「この指輪が何だか分かるか?これはエヴァが君に残した最期の想い。君を生かすための契約の証だ。」
だが、その言葉に私はぴたりと歩みを止めた。
「どういう意味だ?」
「エヴァは最期、俺の中に還る運命を理解していた。だが、それでもヒロ、君のことが気がかりだったんだろう。君を生かすために、自分の命を盾に俺に迫ったよ。自分に死なれたくなければ、君を全ての不幸から守り幸せにしろとね。おかげで俺は君を幸せにしなくちゃいけない義務を負った訳さ。」
―――ヒロちゃん、生きて
万象の天使の語ったエヴァが私の中でそっと囁く。
エヴァは自分の運命に従っただけではなかった。
自分の命を盾に万象の天使から逃げることだって不可能じゃなかったはずなのに、私なんかのためにエヴァは自分の存在が消えることを選んでしまった。
そう思うと抑え込んできたエヴァを守ってやれなかった自分の不甲斐なさと、彼を失った喪失感が再び蘇る。
「だから、君にはこれからは俺の傍にいてもらうよ。俺の傍で君は永遠の幸せを手に入れるんだ。悪くないだろ?俺の中のエヴァもそれを望んでいる。」
そして、同時に思う。
―――僕を忘れないで
様々なことがあり忘れた訳ではないが、頭の片隅で燻っていたエヴァの存在が急速に膨れ上がり鮮明になる。
それは翼の封印を解いた時に交わした契約に似ていた。
ユイアを失った絶望を忘れないための契約が、エヴァを失った絶望にすり替わっていくよなそんな感覚。
今の今までそれは大切な人を守れなかったという類似性ゆえの重なりだと思っていたが、それが急に二つの境目がなくなっていくような感覚に陥る。
いや、それどころかユイアの姿が私の心の中で霞み、エヴァという存在だけが私の中で大きく迫ってくる。
―――なんだ…これ?
そして、混じり合う喪失と膨れ上がる絶望が私の目の前を灰色に染める。
グニャリと歪む視界に、私は初めて悪魔の槍の様子が可笑しいことに気がついた。
高く聳え立つ鉱物のように固まっていた灰色の魔力が、バラバラと剥がれ落ち、その破片がグルグルと回っている。
灰色の魔力がエヴァのことで昂った私の感情に反応したのかと、気持ちを落ち着かせて暴走しつつある灰色の魔力を制御しようと試みるが、私の手を離れたかのように灰色の魔力は急旋回を繰り返している。
「無駄だ。悪魔の槍は俺の制御下にある。君がどんなに抵抗しても封印は解かしてあげないよ。」
その言葉にはっとして微笑む万象の天使を信じられない気持で凝視した。
悪魔の槍は灰色の魔力による封印だ。
だから、エンシッダは悪魔の魂を受け継ぐ、灰色の魔力を支配する資格を持つ私だけが解けると告げた。なのに…
「どうして貴様が?」
問いかけながら、様々な情報と思惑が私の頭の中を駆け巡る。
エンシッダの昔話によれば、白き神は灰色の魔力に侵されていた。
翼の色を見れば、万象の天使が白き神を魔力の根源にしていることは間違いないはずだ。
そう考えれば、彼が灰色の魔力と関係していると考えることができる?…いや、ただ灰色の魔力に魂を犯されているだけだというのであれば、エンシッダやオウェルにだってこの封印を解けてもおかしくない。
ならば、万象の天使にはさらに彼らとは違う部分がある?
そう考えて私は先日、エンシッダに聞いた事実を思い出す。
―――人造生命カレド
万象の天使は白き神が亡くしたかつての恋人の魂を灰色の魔力で禁忌を犯して蘇らせたものだと言っていた。
では、その事が万象の天使に何かの作用を引き起こしている?
だが、何一つ確証はないままに、ぐるぐると考え込んでいる私に万象の天使は面白そうに笑って私に手を差し出した。
「どんなに考えても今の君には分からないよ。でも、知りたいだろ?だったら、俺と一緒に来るんだ。どうせ、俺が封印を掌握している以上、人間に勝利はあり得ないんだ。君は大人しく俺と共に―――」
「馬鹿にするな!!」
思い返してみれば天近き城にいた時も、こんな会話をした気がする。
ぐるぐると考え込んでも、いつだって気がつけば私はこんな風に自分の思いに正直に叫んでいる。
そして、あの時は私はこの美しくも恐ろしき天使から逃げ出した。
だが、今度は逃げ出せない。
私の行動で人間の運命が大きく変わるのだ。
私は叫びながら封印の掌握を取り戻すべく悪魔の槍に飛びついた。