第120話 悪魔の封印 1-1
悪魔は楽園に3つの封印を施した
万象の天使の翼を切り落とし、天使に処刑されるまでのその僅かな最後の時間
彼が何を思い、何のために封印をしたのか、その意味を知る者は少ない
しかして、千年との時を経て悪魔の魂を継ぐ者がその封印を解こうとしている
―――まずは一つ目の封印・最果ての渓谷にある封印を封印せしものを
【悪魔の封印】
それは異様な光景だった。
本来、生命が育むことのない不浄の大地にひしめく無数の生命。
だけれど、ひしめく生命、相対する人間と天使は、その生命を散らせる覚悟でその場所に立っている。
―――生きるために死にゆく生命、その悲しい矛盾がやりきれない
天使は封印された最果ての渓谷を背後に大きな空中母艦や戦車とともに、人間を逃がさないために立ちはだかる。
人間は銀月の都を中心に、ただその向こうにある新たなる世界を目指している。
人間と天使、千年の時を経て元は同じである種族は再びぶつかりあおうと、その凄惨なる戦いの火蓋はまさに切って落とされようとしていた。
それなのに私はその戦いの中にはいない。
「戦いは始まっただろうか?」
私は戦い前の緊張感の中ではなく、暗い暗い湿った場所でため息交じりに呟いた。
持たされた僅かな明かりだけを頼りに、ただ黙々と歩き続けるのも大分飽きた。
「そろそろのはずよ。だけど、今は私たちが気にするべきはそのことはじゃないはずよ。無駄口叩いてないでさっさと進むわよ。」
先頭を歩くティアの容赦ない言葉がぴしゃりと私の口を閉じさせる。
「ははっ。まあ、ティアもんなにピリピリすんなよ。」
「黙れ。ボケ男。」
ティアと先日一緒にいた見るからに軽そうな男イフリータの言葉も一刀両断。
「まあ、空気を読めってことだ。」
その後を追いうちをかけるように、ティアの仲間その2らしきキシンがぼそりと口を開く。
そう。私とこのティア・イフリータ・キシンの四人は今から始まろうとしている人間と天使の戦いの戦場ではなく、その地下を走るトンネルの中を鼠のように這いずり回っていた。
どうしてかといえば、私たちは秘密裏に最果ての渓谷にかけられた封印を解くためだ。
人間が目指す西方の魔境に行くためには、最果ての渓谷の先にある世界の果てを超えなくてはならない。
天使の徹底抗戦が予想なれる以上、力押しでその封印を解くより、天使たちの裏をかき先に封印を解くことで戦いに勢いをつけようという作戦だ。
しかして、最果ての渓谷を守る封印は無論としてその近くにあるのが当然で、今は天使たちに占拠されている場所。
そして、最果ての渓谷を守るべき天使はその封印にも、無数の天使を配置しているに違いない。
今は千年前に人間最後の砦であった場所の名残であるように隠しトンネルをこうして進んでいるが、封印の近くにこれで出られたとして、その後、天使の陣内に入ってしまえば袋の鼠状態であることは目に見えている。
「瞬間移動の魔法は使えないのか?」
だから、私はふとつぶやいた。
わざわざこんな地道に歩いて行かずとも、その封印の場所とやらに一瞬で行ってしまって、封印を解いてまた魔法で人間側に戻ってしまえばいいのではないかと思ったのだ。
だが、いい考えだと思った私の意見は馬鹿にしたような笑いと共に一蹴された。
「天使たちだって馬鹿じゃない。瞬間移動を邪魔する防御壁を張っているわ。まあ、それは人間側にも言えることだけれどね。」
確かに瞬間移動の魔法が使えれば、天使側も使ってくるに違ない。
そんな簡単なことは誰でも考えるというわけである。
何となく恥ずかしくなって私は小さく苦笑するしかない。
「そうそう、だから俺たちはこそこそとゴキブリのように―――わかった・わかった黙りますよ。」
そんな私の言葉尻を取ってイフリータが妙に明るい声で言ったが、それはティアとキシンの無言の圧力によって黙らされた。
「ったくよ。妙な空気をやわらげてやろうっていう俺様の優しい気持ちが分からんのかねぇ。」
名残惜しそうにぼそりとそう呟いた言葉はどうやら私にしか聞こえないようだったが、この戦いを前に何とも胆の据わった男であると、小心者の私などは感心してしまう。
そして、雑談は終わり、私たちは再び沈黙と共に天使たちの陣中を目指した。
そもそもこの作戦を言い渡されたのは、つい数時間前のことだったりする。
「ヒロ。君には単独で最果ての渓谷を閉ざす第一の封印を解いてもらうよ。」
見晴らしのいい展望室にたった一つの椅子に踏ん反り返って、エンシッダは相変わらずの似非好青年の皮をかぶって言い放った。
これがつい先ほどの話なのだから、嫌でも記憶は鮮明で悲しくなってくるほどだ。
てっきり人間側の先陣でも切らされるのではないかと、その気満々だった私は思わずあんぐりと口を開けた。
「ちょっと、そのだらしない口を閉じなよ。全く君みたいな男に人間の命運を託すかと思うと俺も気が重い。」
本当は『人間の命運』など考えていなくせにとは、思っていても口には出さない。
話が別の方向へいってしまうし、言ったところでエンシッダに私が口で敵うとは思えない。
「ちょ…待て。第一の封印って?私は戦いに出るんじゃないのか?」
「別に戦うなって言っているわけじゃない。戦うよりも遥かに重要で危険度の高いことをしてもらうだけさ。」
非常に嫌な事を聞いたような気がしたし、にこりと笑ったエンシッダの背後に黒い影が見えた。
「この間、最果ての渓谷に封印が施されている話はしただろ?あそこにある封印は三つ。一つは最果ての渓谷自体を封じたもの、一つは世界の果てを封じたもの。そして、最後は黒き神を封じた封印。」
先日、この話を聞いた時は驚いたと同時に、どうして私というか悪魔の魂が重要なのかを知った。
白き神と天使によって封印されたと思われていた黒き神は、実は悪魔が封印したものであり、その封印は悪魔の魂を持つ私でなくては解くことができないというのだ。
「だが、後者の二つは最果ての渓谷の中にある。とにもかくにも、まずは最果ての渓谷の封印を解かなければ話にならないというわけさ。」
戸惑う私を置いて行ったまま、エンシッダは話し続ける。
どうせここで私が行かないと言っても、それはエンシッダの不利益と同時に、天使と戦う人間たちを窮地に陥れることに繋がる。
先日からさんざんにエンシッダに脅されてきたが、それが言葉だけでなく現実として突きつけられているということだろう。
「それで私はどこに行けばいい?」
だから、ぐだぐだいうのはやめて私は開き直る。
それに戦いはすぐそこまで迫っているのだ。
ここでエンシッダと言い争っている時間はないし、それもまたこの男の思惑の内だと思うと忌々しいが、今はそれもぐっと我慢するしかない。
「あ・そ・こ」
しかし、そんな私をあくまでも馬鹿にしたまま、妙に明るい声でそれだけ言ってエンシッダは豆粒ほどだが、次第に近づきつつある天使の軍勢の中心にあるだろう一つの棒のような影を指さした。
今は遠すぎて小さい影だが、近づけば間違いなくそれなりに大きいだろうその影に私は目を細める。
「こんなに遠くからでも見えるだろ?実際は500メートル近くはある『あれ』こそが第一の封印・悪魔の槍。千年前、ヴォルツィッタが第二・第三の封印を施した後にまるで槍を投げるかのように、灰色の魔力を大地に突き立てて封印を施した事から天使たちがそう名付けた。」
「じゃあ、あれは灰色の魔力、そのものというわけか?」
そんなに大きな魔力が実体化しているなど想像できなくて、私は改めて悪魔の槍と言われたそれを凝視した。
「普通の魔力による封印だったらどんな事をしても俺が解いてみせる。だけど、灰色の魔力だけはお前しか…悪魔にしか解くことはできない。」
「どうしてだ?エンシッダも灰色の魔力を持っているんだろ?」
だからこそ、先日彼は封印された異端まで私とオウェルを追ってこれたはずだ。
「俺やオウェルは灰色の魔力に侵されているにすぎないから、灰色の魔力に耐性はあっても、あんな巨大な魔力を制御することはできない。だが、お前だけは違う。お前は『灰色の魔力を支配する』資格を持つ者だ。だから、お前だけが灰色の魔力の封印を解くことができる。」
いやいや、逆に灰色の魔力に支配される勢いですけど?とは、間違っても言えないエンシッダの雰囲気にごくりと言葉を飲み込む。
「…ともかく、お前にはティアたちをつけてあげるから、彼らを連れて天使の陣中に飛び込んで悪魔の槍を破壊するんだ。灰色の魔力の塊である以上、お前が干渉した瞬間に恐らく悪魔の槍はお前に取り込まれて消滅する。」
そういう状況がどんな真実で成り立つのか、知りたいような知りたくないような奇妙な感覚に陥る。
エンシッダは私が何者なのか間違いなく知っている。
悪魔というだけではない。
悪魔の魂の存在理由、私だけが特別視されるその理由、未だに見えてこない私と灰色の魔力の関係を…。
「悪魔の槍が消滅したと同時に神の子の力を解放して一気に最果ての渓谷に攻め込む。お前たちはそのまま第二の封印の解除にかかれ。」
「ちょ…待てよ。そんな天使の陣中から私とティアたちだけで奥に進めっていうのか?」
いくら意表をついたもので悪魔の槍の消滅までは上手くいったとしても、その先は天使が許さないだろう。
「天使は悪魔の槍で吸収した灰色の魔力でお前が一掃するんだ。あれだけの質量の灰色の魔力だ。全てを解放すればその場にいる多くの天使の魔力を吸収する。」
なるほど灰色の魔力の他の魔力を吸収する性質を利用するという訳である。
「そして、灰色の魔力でパニックに陥った天使陣へ俺たちが総攻撃をかける。だから、灰色の魔力の解放は僅かな間だけに留めるんだ。神の子まで巻き込まれた本末転倒だからな。」
ずいぶん難しい事を簡単に言ってくれるものだ。
私は近づきつつある悪魔の槍を見て難しい顔になる。
さっきも思ったのだが私は灰色の魔力を支配などできない、むしろ支配されそうなほどに振り回されているのだ。
正直、どんなに訓練を重ねても自分の中にあるそれすら御し切れいていないのに、あれほど大きな灰色の魔力を解放させて、それを収められる自信が正直言って―――全くない。
「神の子を使ったところで、圧倒的な力を持つ万象の天使がいる以上、正攻法じゃ人間に勝ち目はない。」
迷っている暇も躊躇している時間もないというわけである。
そこまでの回想を終えて、私は自分の気を引き締めるように手の中にある黒の剣の柄を握り締めた。
自分が天使に殺されることが怖い訳じゃない。
ただ、自分のしでかしたことでたくさんの人間の命が左右されることへの重圧が私を押しつぶそうとしていた。
そんな卑怯なことばかり考える自分を鑑みて、どんなに綺麗事を並べても私は所詮小さな人間にすぎないのだと、心の中で私は自分で自分を嘲笑った。