第118話 嵐の前の静けさは胸に痛く 3
<SIDE アラシ>
「決戦は最果ての渓谷!!全ては人間の自由のためにっ!!」
女神の十字軍の司令官であり、エンシッダ様の代理人であるハレの言葉は、力強く信じるに値するものだ。
だからこそ、人間が自由を勝ち取るための決戦を前にして、俺はその言葉だけを信じ、我武者羅に戦わなくてはならない。
なのに…今の俺は盛り上がる仲間たちの中、一人疑心暗鬼の中に取り残されている。(周りは興奮しすぎて、俺が一人沈んでいようが気にする者もない)
そして、俺はどうして自分がそんな状態なのかも理解しているつもりだ。
―――イヤァア!!
それは数日前のハクアリティス様の耳から消えない絶叫に似た悲鳴。
ハクアリティス様を追って聖櫃の部屋に忍び込んだ俺を待ち受けていた姿なき怪物と、突如として現われたエンシッダ様にヴィ・ヴィスターチャにヒロ。
怪物とヒロが最初に消え、エンシッダ様達もすぐにその場から立ち去った。
立ち去っただけでエンシッダ様から状況に対する説明はなく、結局、何が起こったか分からず呆然とした俺と子供たちと、混乱したままのハクアリティス様だけが聖櫃から漏れる光の中に取り残された形となった。
「エンシッダァ!!!どこに行ったの!?私にあんなことを言って、ただで済むと思っているの!?」
俺の中で息づいていた儚くて美しい彼女の面影は欠片もない。
鬼の形相で金切り声をあげるハクアリティス様に子供たちは怯えるように壁際に身を寄せている。
俺も少々の我儘とヒステリーを交えた彼女は見たことがあったが、これほどに常軌を逸した様子の彼女は見たことはなかった。
しかし、これほどに取り乱すのは異常だが、確かにあんなことを言われてはハクアリティス様が怒るのも無理はないとも思う。
―――お人形さんはお人形さんらしくしていればいいのさ
その言葉の本意のほどは知れないが、信じていた人間に普通『お人形』さん扱いされたら傷つくものだし、プライドの高い彼女はそれもより一層に違いない。
でも…これほどに??
「何よぉおおおっ私は天使の花嫁よ!!!何で?どうして?」
髪を振り乱し虚空に向って叫ぶ。
儚い様子の彼女の中にここまでの激しさがあったとは思わなかったが、だてにその上っ面だけに惹かれたわけじゃない。(まあ、少々引いている自分がいるのも確かなのだが)
誰だって色々な面があって、その一部分に好意を感じたとしても、それが消えたからと言って惚れた女が俺の中で何でもない女にすぐにすり替わる訳じゃない。
もしかしたら、時間がたてば俺がハクアリティス様への気持ちを過去のものにできるかもしれない。
だけれど、今の俺の気持ちは現在進行形なのだ。
彼女の思わぬ一面を見たとしても、そうは簡単に気持ちを切り替えることなんて出来ないんだ。
だから、彼女が傷ついているのならばそれを助けてあげたいと思うのは当然のことで、髪を振り乱し体を動かす彼女が壁にぶつかりそうになるのを見て、瞬間的に彼女の肩を抱きしめた。
「ハクアリティス様っ!しっかりしてください。」
「離してっ!私が何をしったていうのよ!!もう、私に酷いことしないで、お願いよ、ラインディルト!」
だが、錯乱している彼女は俺が誰だか分らないらしい。
思わず強く掴んだ俺に怯えるように叫んだ彼女の名に俺ははっとして、掴んだ手を放す。
―――ラインディルト?
それは忌々しい天使の長の一人の名前ではないか。
せめて彼女の夫である万象の天使の名であれば、忌々しくとも理解することができたが、どうしてここでその名前が出てくるのだと、俺は不思議に思った。
同時に今度は怯えるように体を小さくして蹲る彼女に、今度こそ俺は呆然としてどうしたものかと途方に暮れる。
ともかく、子供たちもいることだし、この場所に居続けていいわけもなく、俺はなるべく彼女を刺激しないように優しい声を心掛けた。
「ハクアリティス様?」
とりあえずは名前を呼んでみれば、ぴくりと体が揺れる。
「大丈夫。」
普段は出さないような声音も、惚れた女相手だからこそ自然と口に出た。
そろりそろりと震えが止まる訳ではないが、俺の優しい声が(自分で言っていて気色悪いが)伝わったのかハクアリティス様が顔を上げようとする。
「俺はアラシです。貴方に何も酷いことはしない。さあ、帰りましょう?」
そう言ってやれば、やっと自我を取り戻してくれたのか、のろのろと彼女は俺のほうに視線を向ける。
だが、その瞳は涙に濡れ、同時に俺の姿は映っていない虚ろの影を貼り付かせていた。
「エヴァンシェッド?」
しかして、出てきた名前は俺の意に決して添わぬ者の名。
彼女の夫にして、我ら人間の最大の敵。
カッと頭に血が上る感覚が俺を支配するが、ここで彼女を刺激するわけにはいかないのでグッと否定する言葉を飲み込んだ。
「やっと、やっと会えたのですね。」
俺の差し出した手に纏わり、涙に溢れた笑みを浮かべる彼女は、本当に美しく幸せそうに見えた。
そして、俺を愛する夫と間違えたまま、ハクアリティスが俺に抱きつこうとした瞬間、俺は後ろから掴みかかられ、床に叩きつけられた。
「うわっ!」
「キャアアッ」
痛みよりも先に聞こえてきたハクアリティス様の悲鳴がそれを忘れさせて、俺は瞬時に起き上がろうとしたが…
「たかが人間が私の所有物に気安く触るな。」
顔先に突きつけられた刃が淡い黄色の光に鈍く光を放つ。
「…大地の天使」
その先にいたのは天使の領域襲撃のために、情報として写真で見たことのある大地の天使ラインディルト。
その表情には冷え冷えとした、だが、どう見ての俺を見下す表情が張り付いている。
「どうして天使がこんな所にいる?」
咄嗟にでたのは、人間の最後の砦に存在する異端の存在の理由。
そして、次いでラインディルトに腕を掴まれてそこから逃げようと、激しくもがくハクアリティス様が目に入る。
「ハクアリティス様に何をする!!」
「そんなことは貴様に関係ない。言っただろう、これは私の所有物だ。」
俺に剣の切っ先を突きつけたまま、関係ないと言いながら、俺を見るその瞳は冷え冷えとしていながら憎悪の炎が見え隠れする。
「いやぁ!!離して!助けて、エヴァンシェッドさまぁ!!!」
静かなラインディルトの声が、俺ではなく助けてくれるはずもない天使の名を呼ぶ声でかき消される。
それが無性に悔しくて切ない。
そして、それはラインディルトに対しても何らかの感情を動かしたようで、俺を見ていた憎悪の瞳は皮肉に歪められると、俺に剣を突き付けたままにハクアリティス様に向けられた。
「自分の置かれている立場が分からないとはいい気なものだ。人形というのであれば、せめて姿だけでなく中身も本物と同じにしてくれればいいものを、性格はまるであの女とは違うのだから。」
まただ、エンシッダ様だけじゃない。
この天使もまたハクアリティス様を『天使』と呼ぶ。
「ハクアリティス様はハクアリティス様だろう?貴様もエンシッダ様も何を言っている?」
思わずついて出た言葉に片眉をぴくりと器用に上げて、ラインディルトが再び俺に視線を返す。
「人間、これが『ハクアリティス』だと?」
声が高く高く響く。
「『ハクアリティス』。我らが主エヴァンシェッド様に選ばれたたった一人の妻たる存在に許されたその名が、このできそこないの人形の名だと?」
皮肉に歪められた瞳に唇の動きもプラスされ、整った天使の顔が酷く醜く見えた。
「あの女は千年前に死んだ。罪人の巡礼地で黒き神からエヴァンシェッド様を守ってな。」
―――死んだ?
「だったら、そこにいる彼女は?」
死んだ人間が生きているはずもない。
「だから、『人形』…なんだよ。この女は死んだハクアリティスの代わり。あの女が千年前にするはずだった大事のための身代わりにすぎん。」
「どういう意味だ!?」
ラインディルトの言葉の本当の意味は何も理解できなかった。
だが、『ハクアリティス様』が万象の天使の本物の妻ではなく、その代わりのための存在であることは何となく分かった。
…『ハクアリティス様』自身は、自分こそが万象の天使の妻だと思っているのに、この矛盾は何なのだろう?
「それにしても全く可愛くない女だ。お前があの方のためになら何でもするというから、自由を与えてやったというのに黄色の神を解放するだけのこと如き失敗しおって。嫌だ嫌だと泣き叫ぶだけとは。」
それは俺に対する返答ではなく、独り言に近い言葉だった。
そして、それを打ち切るとラインディルトはハクアリティス様をぐいっと引き寄せた。
「これ以上を聞きたければエンシッダに直接聞け。私とハクアリティスがここにいることを許しているのはあの男だからな。なあ、ハクアリティス?」
「離して!助けて!」
離れた剣の瞬間に二人を追ったが、そんな意味深な言葉だけを残して彼らもまた去っていった。
最後に残ったのは俺と子供たち3人と、そして、混乱する状況と、エンシッダ様に対する一つの疑惑。
―――私とハクアリティスがここにいることを許しているのは『あの男』だからな
『あの男』、すなわちエンシッダ様は天使がここにいることを許しているという。
ハクアリティス様を『人形』と呼んだあの方は、恐らく彼女が万象の天使の妻でないことも知っているのだろう。(まあ、それが確かなことかは定かではないが)
元々エンシッダ様の考えていることなど、俺は何も理解していなかっただろうし、これからも理解することはなかったろうと思う。
でも、それでも彼が人間の未来を切り開くと信じていられたからこそ、俺は彼に従い続けてきたのだ。
でも、ここにきて俺のその確固たる何かが崩れ落ちようとしていた。
天使が銀月の都にいるということ、そして、ただ惚れた女が苦しそうに泣いていたということ。
だけれど、だからといって何の力もない、黒の雷を持っていてもその力の解放をしない俺に何ができるわけではなく、俺は釈然としないままに最後の戦いへと身を投じるしかないのである。
熱狂し続ける人間たちの群れの中、俺は力の宿らぬ黒の雷をつけた拳を無意識のうちに握りしめていた。