第112話 裏切り者の懺悔 5
灰色の魔力に魂を染められた瞬間から、俺は俺の人生を生きてきたはずなのに、ぼんやりとした意識の中で、全てが他人事のような感覚で生き続けてきた。
だけれど、ディルアナへの愛情と、神の立場を放棄したという罪悪感だけは、魂を刻むように鮮明で、それがあったからギリギリのところで俺は俺を保つことができ、決して消えることのない苦痛の中を彷徨い続けることとなる。
とにもかくにもディルアナとの愛と引き換えに俺はラーオディルの支配下に入ったが、しかして、ディルアナとすぐに一緒になれた訳ではなく、ラーオディルは自分の願いが叶った後だと彼女を俺から隠したのだ。
その事によりディルアナという人質ができたことにあの時の俺は気がつかない。
ただ、ラーオディルの言うことさえ聞いていれば、いつかディルアナと愛し合うことができる。
餌を前に吊るされた馬の如く、彼女の気持ちさえ聞いていないのに、その強い願望に囚われた俺には何も見ることができなくなっていた。
そして、それからのラーオディルは子供の姿が嘘のように、狡猾で巧妙に世界を自分の思い通りに動かしていくととなる。
神々のほとんど、それこそ黒き神と数人の神以外を灰色の魔力によって従わせていた彼は、東方の楽園の王と言っても過言ではなかったが、元々が神々に極秘扱いされていた彼は以降も一度として公に姿を現すことなく、他の種族を動かす時は決まって白き神に命令をさせた。
そして、灰色の魔力については積極的に研究をさせていたが、その源については神以外には知らせることを許さず、現在までそれを知る者はほとんどいない。
結果、他の種族は勿論のこと白き神に従っていた天使たちとて彼の姿は誰も見てはいない。
彼は自分の存在をほとんど世界から消しつつも、自分のたった一人の願いを叶えようとしていたのだ。その願いとは―――
「僕の目的は黒き神をこの世界から消すこと。そのために君たちに協力をお願いしたいんだ。代わりに君たちの願いも聞いてあげるんだから、これはギブアンドテイク・・・正式な契約だよ。」
死と破壊を司る黒き神ウ・ダイ。
全ての生命の源である白き神イヌア・ニルヴァーナの対存在であり、神々の頂点にいるはずの彼であるが、神の誰一人としてラーオディルの願いに逆らうものはいなかった。
それが灰色の魔力による力なのか、それとも単に自分の欲望に目がくらんだだけなのかは定かではないけれど、黒き神を世界から消すことに神の誰一人として戸惑う者はいなかった。
最高神である神を殺すという世界の理を破ることだとしても、ネジが弾け飛んだ神々に、もう怖いものなどなかったのだ。
それからはラーオディルの言うままに神は様々な理由をつけて、黒き神を世界を危険たらしめる反逆の神として扱い追い詰めていくこととなる。
その目的のためにラーオディルは、まず人間を使った。
一部の欲深い人間たちを唆し大地を奪うための戦いを仕掛けるようにさせ、千年戦争の引き金を引かせると、前々より不穏な噂の絶えなかった黒き神をその黒幕へと仕立て上げた。
同時に自分の手駒を増やすために自分の魔力の研究の結果である『天使』の研究を進めさせた。
しかし、当時は神一人が契約できる天使は多くて数人、神の子のように一人の神に多数の人間が契約することはできなかった。
そこで研究やたちが開発したのが聖櫃である。
聖櫃さえ使えば、神は無限の天使を使役することが可能となる。だが、それには決定的な欠陥があった。
すなわち、聖櫃に入った神は永遠にそこから出ることはできず、死にも等しい眠りを続けなければならなかったのだ。
―――故に聖櫃の実用化はお蔵入りとなった・・・『表面上』は
しかして、神一人当たりの天使の数は増えずとも、命を人質にとったことにより、決して神に逆らうことのない天使という名の下僕は、魅惑的で神のほとんどが天使を手に入れた時、その数は一種族にも匹敵するほど多くなっていった。
ちなみに、俺は一度も天使を持たなかった。
ラーオディルによって灰色の魔力の僕となっている俺が、何者かをそんな風に使役するなんて懐疑的でその気になれなかったのだ。
そして、増えゆく天使を使い黒き神や他の種族の差別に苦しんでいた人間たちを段々と追い詰めてゆくラーオディル。
しかし、破壊を司る神の最強の名を持つ黒き神の強さは、魔力を持つとはいえ元は人間である天使には少々荷がかち過ぎた。
その絶対的な強さに数で対抗していったのだが、天使にも多くの犠牲が出ていった。
しかし、それに対して神の態度はまるで天使を消耗品としか見ていないような態度で・・・人間という記憶をなくしたとて自己を確立している彼らに神に対する不満が次第に膨れ上がっていたことに神だけは気づかずにいた。
―――そして、全ては最果ての渓谷で動き出す
そこは東方の楽園と西方の魔境の狭間である場所、天使たちが黒き神たちを追い込んだ最後の戦場。
俺はここで親友であったヴォルツィッタと対峙していた。
天使たちにより黒き神も人間たちも全てを無に帰す作戦、すなわち万象の天使による終焉の宣告だ。
黒き神に対して絶対的なダメージを与えるために、大地一つを破壊するほどの最終兵器を持ち出してきたことには俺も驚いたが、もはや灰色の魔力によってラーオディルに完全に支配されていた俺にそれに反対する気持ちは微塵もない。
そして、この時、俺に命じられた役目があった。
「このままここにいたら、間違いなく死ぬ。ヴォルツィッタ、俺と一緒に逃げるんだ。」
それは悪魔ヴォルツィッタの命を守ること。
ラーオディルがヴォルツィッタと家族であることを、俺はラーオディルによって知らされた。
そして、黒き神の下僕として使役されている彼を助けるために黒き神を消滅させたいんだと、この作戦の前に俺に語った。
その作戦は命令だけではなく、彼の親友でもある俺にとっては何一つ断る理由のないものはずだ。なのに―――
「そんなことができるわけがないだろっ!?仲間を裏切ることはできないし、大体、俺は黒き神の契約によって縛られているんだぞ?」
天使との戦いに傷つきボロボロなのに、ヴォルツィッタはそれをこれまで見たことのないくらいの怒りの表情で拒否をした。
「それだったら心配いらない。灰色の魔力を使えば世界の理など無いにも等しい。全部、ラーオディル様にお任せすればいんだ。」
だから、俺は彼を安心させるためにそう言って笑う。
だが、それはヴォルツィッタの表情を更に厳しく歪めるだけだった。
「お・まえ、まさか・・・っ!俺が灰色の魔力には注意しろっていったのに!!」
そして、火に油を注いだかのごとく怒りのままに俺に掴みかかってきた。
「分かってるのか!?灰色の魔力に支配されたら、もう後戻りはできない!お前はもはや神ですらなく、あの子供の下僕なんだぞ!」
自分だって同じくせにそんな事を言いうヴォルツィッタにカチンとくる。
いや、本当は彼の言っていることが、見て見ぬふりをしてきた俺の中の罪悪感と理性を刺激する。
俺はそれから逃れたい一心で叫ぶ。
「でも、灰色の魔力がなければ、俺はディルアナを手に入れられないじゃないか!!」
その言葉にはっとしたようにヴォルツィッタの瞳が見開き、俺に掴みかかっていた手から力が抜ける。
「オウェル、お前・・そのために?」
神同士の恋愛が禁忌であることをヴォルツィッタは何処かで知ったのだろうか?
俺の言葉に全てを悟ったかのように、今度は悲しげに悔しげに表情を揺らした。
「・・・バカ野郎。だからって、お前自身を犠牲にして彼女を得て、それで本当に幸せになれるのかよぉ?」
顔を俯け、何かに耐えるように一瞬の激情が嘘のように小さな声。
同時にそれは俺も何処かで分かっている、苦しい真実でもあった。でも、俺はそれから目をそむけ続けてきた。
「でもっ、苦しかった!苦しくて苦しくて・・・どうしようもなかったんだよ!!!」
それは偽らざる俺の真の叫びだった。
親友も民も世界をも裏切って、それでも俺はディルアナを手に入れたかった。
それが例え灰色の魔力が見せた狂気だとしても、それは俺の心そのものだと俺が感じていたのだから、全てが灰色の魔力のせいにはできない。
―――さあ、僕の手を取るかどうかは、君が決めろ
そうだ。ラーオディルの手を取ったのは俺。
これは全部、全部、俺が自分で決めたことなんだ。だから―――
「それにお前も言ったろ?灰色の魔力に染まった以上、もう後戻りはできないんだよ。」
そう言って、俺はヴォルツィッタの面前に剣を突きつけた。
「お前をこの戦場から連れ出すことができなければ、俺はディルアナを得ることができない。全てを裏切ったことすら無意味になるんだ。」
「オウェ――」
「動くなっ!」
目を見開くヴォルツィッタに構わず、俺は剣の切っ先を今度はその喉元スレスレに近づけた。
「ともかく、俺はお前をラーオディル様の元へ連れていく。ラーオディル様はこの戦いで全てに決着をつけるつもりだ。これさえ終われば全てが上手くいく。」
だから、どんなことをしても、例え力づくになったとしても俺はヴォルツィッタを連れてゆく。
「俺がそれに従うとでも思っているのか?黒き神との契約がなくなったとしても、一族を捨てることは俺にはできないっ!皆は俺の家族なんだ!」
「ラーオディル様だって、家族なんだろ?」
その言葉にヴォルツィッタの様子が変わった。
「・・・違う。」
「何が違うっていうんだよ?ラーオディル様はお前のためにこの戦いをしているんだぞ?!それをっ」
確かにこの耳でそれを聞いた。
ヴォルツィッタが唯一の家族で、彼を助けるために黒き神を倒したいと語ったラーオディルに偽りはなかった。
いつも浮かべている子供らしからぬ不気味な笑みも、何を考えているか分からない様子もなく、ただヴォルツィッタを想うたった一人の子供の姿だった。
「違う!!」
なのに、どうしてヴォルツィッタがそれを拒むんだ?
あのこの世の至高を集めたような、世界の理すら超越する存在にそこまで想われていて、どうしてそれに不快感すら露わにすることができる?
「グッ・・・」
そして、その感情のままにあふれ出たヴォルツィッタの灰色の魔力は、俺が突きつけていた剣を取り上げ、俺の体に巻きついてきた。
その力の強さに俺は驚く。
俺だって灰色の魔力を持っているし、元は神なんだ。
ヴォルツィッタの強さは理解していたつもりだったが、彼の魔力の強さがここまでだとは思っていなかった。
「オウェル。お前は何も分かってないんだよ。アイツの本当の恐ろしさの微塵も分かっていねぇ。」
ゆらりと彼の傍らに現われる魔力に形作られた女性の姿。
「アレは全てを奪う。なあ、ローラレライ・・・そうだろう?」
もの言わぬ彼女に語りかけ、ヴォルツィッタは今まで見たこともないほどに苦しそうな様子で溜息をついた。
そして、灰色の魔力でグルグル巻きにして蓑虫のようにした俺を地面に放り投げると、彼は俺に背を向ける。
「ヴォルツィッタ!何処に行くつもりだ!?」
「アイツを止めに行く。」
背中を向けたまま、ヴォルツィッタは言いきった。
「これまで俺はアイツから、ラーオディルから逃げ続けてきた。アイツがしたことを許せなくて、アイツを見るとあの時のことを思い出すから、それからも逃げたくて、自分の中から全て消し去って、ただただ逃げた。でも、その結果がこれだ。」
丸まる背中が震えている。
「俺は決着をつけなくちゃならない。お前みたいにこのまま世界を見捨てるなんて俺にはできないから。」
そして、去っていく後姿が次第に小さくなっていく。
「ヴォルツィッタァ!!!!」
腹の底から、みっともない姿で彼を呼び続けても彼は決して振り向くことはなかった。
―――それが俺の彼の姿を見た最期となる
その後、驚いたことに万象の天使による終焉の宣告は発動されないまま最果ての渓谷での戦いは天使たちの勝利に終わり、黒き神は白き神により封印され、そしてラーオディルを止めると言って去っていったヴォルツィッタは彼ではなく万象の天使の翼を切り落とし、その罪により処刑されることとなる。
だが、表面上は黒き神の封印という大きな結果だけが歴史に残る戦いであったが、その裏にはもっと大いなる野望があったんだ。
「何だ結局失敗したんだ。オウェル。」
地面に転がったままの俺を見下ろす冷たい声に、叫び疲れた俺が視線を上げる。
「ラーオディル・さま?」
叫びつづけて声が掠れていたが、俺はその人の名を呼ぶ。
そこには戦いどころか、滅多に姿を現さないラーオディル、その人が立っていたのだ。
「全く役に立たないなぁ」
その瞳はかつて見たことのないくらいに、冷たく何の色も見せておらず、だが、禍々しいまでに美しく、俺は恐怖に震えながらも、ただただ彼のその瞳に見惚れていた。
お待たせし分、今回は少しだけボリュームアップ(?)