第105話 堕神 4
何が起きているかなんか、俺には全く分からなかった。
ただ、壁一面にはめ込まれた神の子たちが眠る箱に、黄色の女神の放つ光に浮かび上がったその異形なモンスターがハクアリティス様を今にも襲おうとしている事実だけは認識できた。
その姿はまるでライオンのような雰囲気だが、だからといってそれだと断定できない異形を纏っている。
大きさのそれぞれ違う4つの翼が広げられ、巨大なギザギザの鱗らしきものがついた尾がしなり、鋭い爪と牙が伸び、影なのでその大きさの正確な所は知れないが俺の目算では10メートルはある。
「な・んなの?」
その目には映らぬ、だが、その気配と影だけは確かに存在するモンスターに子供たちも怯え、正直、俺の心中にも怯えと恐怖が支配している。でも、
「こないでぇ!!!」
気になる女が目の前で手の届く場所で恐ろしさに震え泣いているというのに、何もせずに尻込みするなんて絶対にしたくはなかった。
「ハクアリティス様っ!!!」
だって、今まで自分たちが生き残るために多くの同胞が天使たちの生贄になっているのを黙ってみてきた。
自分の命を、贖罪の街の全ての人間を守るために聖櫃という名の死刑台に連れて行かれる仲間たちを黙って見送るしか俺にはできなかった。
―――でも、今は違う
俺が守りたいと思っているもの、この都も仲間たちも、そしてハクアリティス様を守ることに何一つ躊躇う理由なのどない。
だから、俺は彼女の名を叫びながら子供たちを置いて駆ける。
モンスターに再びぶち当たることのないように手を前にかざし、気配を感じ、ハクアリティス様とモンスターの間に立ちふさがった。
姿の見えぬ相手にどう立ち向かえばいいかなど分かるはずもないが、この時の俺はただ夢中だった。
ある意味、我を忘れた状態のような俺はただハクアリティス様を、このいつも何かに怯え泣いている女を守りたいという一心に支配されていたのだ。
そして、今まで何一つ守れなかった俺にとってそれはひどく心地の良い感情でもあった。
姿なきモンスターからは、本来ならばあるだろう息遣いも叫びも聞こえてきはしない。
だが、視界の端に映る、唯一その存在を確かめることのできる影はまさに雄たけびの一つでもあげて、俺とハクアリティス様に向ってその鋭い爪を振りおろそうとしている様子が伺えた。
俺は黒の雷をつけた拳を顔の前で交差させ、その衝撃に備える。
ヒロの黒の剣とは違い、何一つ力のない俺の黒の武器であっても、せめてハクアリティス様だけでもこの刃から守る盾になればいい。
この時の俺は本当にそれだけを思って、そこに立っていた。だが、
「・・・?」
どれほど待てど暮らせど、俺を殺してしまうほどの衝撃は何一つやってはこない。
聞こえるのは絶え間ないハクアリティス様の嗚咽と、そして
「ギュエ!」
何やら苦しそうな潰れた声と何かが落ちてきたようなドスンとい音、そして、突如として感じられた数人の人の気配。
「あーーー!」
状況が変わったのを感じて恐る恐る顔の前の腕をどけ、それを確認する前にガキたちの喜色ばんだ声がその人間の名を叫んだ。
「エンシッダ様ぁ、ヒロ!!!」
そこには俺とハクアリティス様の前に悠然と立ちはだかるエンシッダ様といつもその横に立つヴィ・ヴィスターチャの静かなる立ち姿と、そして、何故だか一人床に這いつくばっているヒロ。(たぶん、さっきの何かの落ちる音はヒロが床に沈んだ音だったに違いない)
「ど・・どうして?」
どうして彼らが突如現れたかはわからないが、周りを確認してみればエンシッダ様が魔法のシールドを張り、モンスターの爪がそのシールドによって遮られている影が確認でき、繰り返し腕を振り上げ続けるモンスターの影はまるで壊れた玩具のように見えた。
「オウェル、もうやめるんだ。」
その様子に呆然としていた俺は、エンシッダ様の俺のことなど一切無視して告げられた言葉に我に変える。
それはモンスターの影さえなければひどく滑稽な姿で、俺やガキどもなどこの場にはいないかのように、恐らく目の前にいるだろうモンスターに語りかけている。
「これがオウェル?」
そして、それに呼応してヒロが床に這いつくばったまま驚いたように声を上げた。
彼も俺のことなんて見向きもしないままに、おそらくモンスターがいる方を見上げている。
「おい、ヒロ?」
俺はもう置いてきぼりをくらっているのが嫌で、とりあえず声をかけやすいヒロの名を呼んだ。
ハクアリティス様の方と言えば恐怖は去った今でも嗚咽を上げたまま、俺の背にその細い腕を回していた。
普段の俺ならば、それに胸ときめくところだろうが状況が状況だった。
「あ・・・アラシ、いたのか?それにハクアリティス?」
俺が声をかければ、あっけらかんと俺の存在に気がつくヒロ、そして、彼女を見てほんの僅かに眉をひそめる。
そういえば、彼には俺の彼女への思いを見破られていたのだ。
俺は何となくバツが悪くて(まあ、別に疾しいことは何一つないのだが)、ヒロの無言の問いには答えず自分の疑問をすぐにぶつけた。
「いたのかって、ていうかエンシッダ様と何を話しているんだ?オウェルって??」
恐らく目の前にいるだろうはずのモンスターのことだろうというのは見当がついた、そして、彼らにはそれが目に見えていることも・・・だが、それがどうしてハクアリティス様に襲いかかっていたのか俺にはそれが重要だった。
「何ってこの目の前にいる奴のことだよ・・・私も信じられんが人の形をしていた彼がこんな姿に」
「ヒロにはあの影が見えているのか?」
「え?」
どうやら、ヒロにはモンスターが見えていることが当たり前のようで、見えないなどとは微塵も思っていないようだ。
「今のオウェルが見えるのは、灰色の魔力に侵されている魂を持つものだけだ。アラシにもヴィスにも見えはしない。この世の中でそれを見れるのは、俺とヒロにハクアリティス、それに―――」
エンシッダ様は俺やヒロの方を見ずに淡々と告げる。
何でもないような意味の分からない言葉、もしこれがエンシッダ様以外の口から出たものであれば、俺は何気なしに聞き逃していたことだろう。
だが、俺は食い入るように俺を振り向かない背中に目を凝らし、俺になど興味のないエンシッダ様の言葉に耳を傾ける。
それはこの状況も状況だが、それ以上にエンシッダ様といういまや俺に、いや贖罪の街の人間たちにとって神にも勝る存在の口から出た言葉という意味合いが大きい。
―――例え彼にとって俺たちという存在がとるに足りなくとも
彼と接していれば分かる。
人間のためだと、世界のためだと俺たちに天使たちからの独立を勧めてくれた、このかつてエンディミアンの長であった人の本当の心がそうでないことを。
それでも、贖罪の街でただ天使たちに浪費され続けていくことに脅えるしかなかった俺たちにとって、この方の本当の心が何処にあろうともそこからの解放はたった一つの希望。
ただ死にゆくためだけに生きてきた俺たちにとって、彼は救世主なのだ。
そして、彼の元以外に俺たちの生きていく術はない。
だから、エンシッダ様の言葉は何一つ聞き洩らしたくなかった。
生きてゆくために、そう生きたいというただその人間にとって本当のでしかないその一つの想い故に俺は必至だった。だが、
「もう、やめてっ!!!」
俺の背に張り付いていたハクアリティス様の高い高い悲鳴のような叫びがそのエンシッダ様の言葉を遮る。
「エンシッダ、貴方また私の邪魔をするのっ!?」
先ほどまであった怯えの表情は消え去り、エンシッダ様に対して敵意をむき出しにしてヒステリックに叫びながら立ち上がるハクアリティス様。
「それは御挨拶だな。君こそ何をしようとしていた?」
「私はただ彼女の願いを叶えてあげたかっただけよっ!!」
「彼女?・・・まさか、ディルアナのことか?」
そこで初めてこちらを振り返ったエンシッダ様の表情は俺が今まで見たことのないものだった。
いつも何処か悠然としていて、本当の表情を見せる気配もなかった彼のいつになく険しい様子。
特にハクアリティス様には甘い様子だった彼の突然の変化も相まって俺は戸惑う。
「それ以外に何があるっていうの?今も聞こえるわ・・・彼女の彼を呼ぶ声が!!どうして彼女をこんな場所に閉じ込めておくの?愛する人と一緒にいさせてあげないのよっ!!」
いつも高飛車で、しかし酷く儚い印象を持った美しいハクアリティス様の強い強い叫び、それはきっと今は一緒にいられない彼女がだた一人焦がれる存在への叫びでもあったのだろう。
『ねえ、アラシ。私ね、早くあの人に会いたいの。』
黒の雷にいた時に見せたとても愛らしい笑顔がダブる。
全く違う表情に言葉、状況なのに何故だか俺にはあの時の彼女とこの鬼のような形相で叫ぶ彼女が同じに見えた。
だが、エンシッダ様はそれに何故だか酷く嫌悪したような表情を浮かべると彼女を一瞥し、再び姿なきモンスターへと相対した。
「勝手に自分とディルアナを重ねて悲劇のヒロインぶるのは勝手だけど、もう二度とこんなことをするな。ディルアナを聖櫃から出すようなことをしてみろ神の子たちは皆、息絶え、ディルアナだって死ぬことになるんだ。」
それを聞いた瞬間にどくんと胸が不安定にな鳴った。
それは、もしかしたら現実になっていたかもしれない事実への恐怖と、そうならなかったことへの安堵。
やはり、聖櫃から神を出すことは絶対にしてはならないことだったようだ。
ハクアリティス様を止めた自分にほっと息をつくと同時に、ガキどもの親をはじめ神の子たちの無事に胸をなでおろした。
だが、俺のそんな心とは相反しエンシッダ様は更に彼女を逆上させる言葉を募るのだ。
「まあ、貴方がそれをするまえにオウェルが貴方を殺すだろうがね。今回のことでよく分かっただろう?オウェルはディルアナを守るためなら貴方を殺すことだって厭わない。殺されたくなければ、二度とこんな事をするな。お人形はお人形らしくあの天使の傍で微笑んでいればいいんだ。」
「何ですってぇ?!」
淡々と、だがどう見たって敵意を露わにするエンシッダ様と激情を振り回すハクアリティス様、そして、それについていけていない俺やヒロにガキども。
しかし、もともと足もとが覚束ない様子だったハクアリティス様だ。
勢いよく叫びながら立ち上がった途端にふらりとその場に崩れ落ちる。
「ハクアリティス様っ!」
その細い肩に触れた瞬間にぞくりとするほど冷たい彼女の体に驚き、俺は彼女に置いた手を思わずどけてしまう。
それに気がついた彼女は俺を振り払い、エンシッダ様をぎろりと睨みつける。
その瞳は血走り、儚い彼女のイメージがガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
だが、エンシッダ様はそれを余裕で見下して、
「所詮、貴方はお人形。どんなに本物そっくりにつくっても貴方が本物になり替わることなどない。」
と酷く侮蔑のこもった声で告げると、ハクアリティス様の瞳がこれでもかというくらいに開き、そして彼女はがっくりと項垂る。
「おい、どういう意味だ?」
謎かけのようなエンシッダ様の言葉に訝しげなヒロの問い。
「君に教える義理はないよ。それより、君の出番だ。さっさとオウェルを大人しくさせてくれ。」
「はぁ?私にどうしろっていうんだよ??」
エンシッダ様の興味はすでにハクアリティス様から失せ、彼とヒロは何やら言い争いを始める。
その後ろで俺は彼らの会話に耳を傾けながらも、エンシッダ様に言われた言葉によりぴくりとも動かなくなったハクアリティス様が心配で恐る恐る彼女の体を支える。
先ほども冷たいと感じた彼女の肌がさらに氷のように冷たくなっているように感じられた。
―――お人形さん
僅かの体温を感じられないまるで死体のように冷たい体、感情の色を失くした作られたように完全に美しい顔。
ありえない話のはずなのに、エンシッダ様が彼女に向っていったその言葉が、何故だか本当のような錯覚に俺は眩暈を覚えた。
エヴァ:もう君の年齢なんてどうでもいいよ。それよりさっさと済ませてしまおう
エンリッヒ:・・・いけずぅ
エヴァ:はい、好きな異性のタイプ
エンリッヒ:お願いだから無視だけは
エヴァ:は・や・く
エンリッヒ:・・・か、家庭的な女性?
エヴァ:何それ最後だけ妙に素を出さないでよ
エンリッヒ:何でっか?!ふざけたら無視して、真面目になったら怒るなんて!!
エヴァ:男のくせに女っぽいヒステリックはやめてください
エンリッヒ:もういやだぁ!!!!
かくして、面倒な相手には容赦ない年下のエヴァに気がつけば泣かされていたエンリッヒは逃げかえっていった(笑)