episode1
あ。
しまったと思った。
鍵を落としたらしい。
「あーもう、最悪……」
吐いた息が青い空に吸い込まれるように消えた。
7月末。
まだ暑い。
まさかあの鍵を落とすことになるなんて。
体が一気に重くなる。
物憂げ、なんて言葉が可愛く感じるほど酷い顔をしていそうだ。
鍵というのは、わたしの………。
そうだな、言葉を借りるとするならば秘密基地の鍵だ。
秘密基地と言っても大層なものではない。
草がぼうぼうに茂った林の少し奥にある、廃れたプレハブのことだ。
この小さなプレハブを見つけたのは確か、小学校中学年くらいだったと思う。
当時わたしは、一人の環境というものに至極、憧れを抱いていた。
だから、ここを改造しようと決めたのは割と早い段階だった気がする。
当時から改造計画を進めていたので、中はとても綺麗になっている。
外は廃れたプレハブ小屋。
中はわたしの世界。
一人になりたいときや、本の新刊が出たとき、勉強に集中したいとき……。
わたしの大好きな場所。
そこに魅力を感じないなんて人、いるわけがないだろう。
しかしまずいことになった。だが、そこまで危機感を覚えていない自分も存在する。
何故なら、鍵ならスペアキーを持っているし、誰かにあの鍵を拾われたところでプレハブなんか見つからないだろうと思ったから。
人が通らない、寧ろ煙たがられる程に草の生い茂った林の奥にあるのだ。
取りあえず、今日家に帰ったらスペアキーしかない。
今後にも備えてもう一つスペアを作っておこう。
そう決めて、まずは学校への足取りを軽くする。
と、後ろから声を掛けられた。
「お!藍じゃーんおはよーっ!」
振り向くとそこには中学からの縁である岡野が、チャリで目の前まで迫っていた。
「ぎゃぁぁぁぁあ!!何してんだばかやろ!心臓飛び出るとこだったわ!」
「ははっ、ごめんごめん」
てっきりそのまま直進していくのかと思いきや、岡野はブレーキを掛けて止まった。
「ねぇ藍ー、お詫びに2ケツしてあげなくもないよ」
そう、ちょっと意地悪っぽい笑顔でこっちを振り返る。
クリクリの目の下の涙袋がぷっくり膨れて、丁度左目の真下にあるほくろが浮き出るのが分かった。
わたしには、口元のえくぼが挑発しているように思えてならなかったから
「えーわたしこそ、乗ってあげなくもないよー」
って。
調子をこいた返事をしてみた。
そしたら岡野はやっぱり笑って「じゃあ早く乗って!」って、荷台のところをバシバシたたいた。
「はいはい」
わたしはそう言って荷台に乗ると、チャリの出っ張ったところにローファーの先をかけた。
「藍さん、俺ね、安全運転派だからしーっかり捕まっててね」
ニッと笑った……。
そう思ったときは時既に遅し。
岡野はチャリをぶっ飛ばして学校へ向かった。
この男後でシメる。
わたしは心の奥でそう頑なに決めると、岡野の腰に手を回した。
岡野は驚いたみたいで、体が揺れたけどざまあと鼻で笑ってやった。
この時にはもう、鍵のことなどすっかり忘れていた。