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アトランタの生活

8  アトランタの生活



車が借家の前に止まると、お母さんは検査するような目付きでじっと家を見つめていた。気に入ったのか、気に入らないのか、お父さんは少々気になったが、

「どうせ仮の宿だよ」

と言いながら車から降りた。僕たち犬は一緒に下りて家の中に入れて貰った。

家に入ると、こじんまりした家ではあったが、日本流に言うと3LDKの家で、ロサンゼルスの家よりも少し狭いかな、と言う感じの家であった。しかし台所に接して大きな車庫が付いており、車を入れなければ部屋として十分に使えそうだった。日本的には結構大きな家と言うことが出来た。お母さんはお父さんから狭い家だと聞かされていたので、思ったより感じの良い家だったらしく、まんざらではないような顔をしていた。

 一番奥の庭に面したところに、広い部屋が二つあり、これをお父さんとお母さんがそれぞれ使うことにし、もう一つの部屋はお父さんの書斎と決めてから、荷物の搬入を始めた。猫たちは取り合えず使わない部屋に入れてかんづめにされた。車の殆どのスペースに荷物を詰めて来たので、結構な荷物の量があった。

 さて、お母さんが持ってきた台所道具でご飯を炊こうとしたら、電気が来ていない。慌てて家主に電話をかけて電力会社に連絡してもらい、一時間くらいで電気が使えるようになった。その夜は持ってきた食材でご飯を炊き、一応満足の出来る夕食を済ませてから、僕たち犬を連れて近所の散歩に出かけた。

 家は小さな団地の中にあり、その団地は小さな丘いっぱいに家を建てたものだった。借家の裏には家がなく、大きな牛の牧場が広がっていた。家の前の道路は丘を一回りするような周回道路であり、その両側に家が並んでいる。その周回道路のところどころからわき道が出て、その両側にも家が並んでいた。家の数は団地全体をあわせても百軒にも満たない小さな団地であった。

 お父さんとお母さんが、これからは犬たちも家の中で飼おうと話していた。僕とミーは顔を見合わせて小躍りした。アメリカでは犬を家の中で飼うことは常識らしい。その夜はお父さんとお母さんはそれぞれの部屋で、僕たちは居間でゆっくり体を伸ばして、旅の疲れを癒して眠った。

 翌日は、お父さんとお母さんが事前に電話で予約していたペットの火葬場にまずジュンを焼きに行った。借家のあるカータースビルは、アトランタの中心から六十キロほどの北にあり、アトランタの市内にある火葬場までは一時間近く掛かったが、無事ジュンの火葬を頼むことが出来た。ジュンの遺灰は四日後に骨壷のに入れてくれるということで、帰りはアトランタからカータースビル周辺の地理探訪をしながら帰宅した。近くのショッピングモールに買い物に行ったらあっという間に一日が終わった。最後に、家主の女の人に、電気水道や電話等の手続き関係について教えてもらうのが精一杯だったそうだ。

 次の日は、二人で電気水道の手続きに市の役所に行ってすべて済ませた。冷暖房はすべて電気だったので、ガスの手続きは必要なかった。それが終わると、カータースビルの探訪に出かけた。カータースビルは小さな町だったが、周りには住宅が広がっていて、かなりの人口があるらしく、十以上の結構大きなショッピングモールが点在しており、買い物には不自由はないようであった。

 お父さんとお母さんは両隣の人たちともすぐに親しくなった。向かって左手は白人の中年夫婦で高校生くらいの女の子がいた。家はあまり大きくはないが庭には大きなプールがあり、家族や友達が大きな声を上げて楽しんでいた。

 右手は黒人一家で、アンクルトムみたいなおじいさんと夫婦と子供二人の家族であった。ロスでもそうであったが、黒人の家は友達がよく集まり、大声を上げて騒ぐことが多く、隣人としてははなはだ迷惑であった。

 ともあれ、アトランタエリアでの生活は順調に滑り出した。


ロサンゼルスで借りたレンタカーは、1週間の予定で出発の二日前に借りていたので、到着の三日後には返却しなければならない。お父さんとお母さんは、地理探訪を兼ねて、アトランタ空港まで出かけた。アトランタ空港は町の中心から南側にあり、カータースビルは北の方だ、7~80キロのドライブになったが、全部ハイウェイなので1時間は掛からなかったそうだ。

空港のレンタカーの会社でロサンゼルスから乗ってきた大きな車を返却して、新たに乗用タイプのレンタカーを借り直したそうだ。ロスから送ったカローラの到着はあと三日後の到着だそうだが、アメリカは車社会だ、自動車がないと身動きが出来ないのだそうだ。

三日後にカローラを予定通りに配達してくれた。今度はおとうさんとお母さんが二台の車でレンタカーを返しに空港まで行き、帰りはカローラに一緒に乗って帰ってきた。このようにダウンタウンを中心に行ったりきたりしている内に、アトランタの道路事情にも大分慣れてきたそうだ。

カローラの到着と相前後してロサンゼルスから送ったお母さんの荷物も到着した。クロネコヤマトの米国ヤマト運輸で送っていたので、荷物を配達してくれたのは日本人の3~4名だった。お父さんとお母さんは、相手が日本人だから、気楽にアトランタの情報を色々聞いていた。そして最後は結構仲良くなって笑いながら話していた。そうしたら責任者の人が、日本に帰る人の要らなくなった大きな化粧台を「どうせ捨てるものだから」と言って置いていってくれたそうだ。

「アトランタも結構日本人が住んでいるみたいだな」

とお父さんとお母さんは喜んでいた。

 それから数日して、お父さんが日本から送った荷物が到着した。こちらは日通で送っていたが、配達してきたのはやはり日本人だった。こちらはあまり愛想のいい日本人ではなく、あまり話はしなかったが、帰った後箱を開いて驚いた。中に入れていた茶碗類、飾り物の天狗の面、それにビデオデッキが割れたり潰れたりしていた。

 割れ物だし、日本からの輸送なので仕方ないな、とお父さんは思ったらしいが、念のためにと日通に電話すると、保険に入っているので弁償しますということだったそうだ。後日のことだが、10万円で送った荷物なのに、4万円の保険が下りたそうだ。

 こうして、荷物も到着しカータースビルでの生活は段々落ち着きを取り戻していった。ヤマト運輸と日通の人からの情報で、ベッドその他の家具類も帰国する人たちの家具を安く斡旋しているとのことで、後日いろんな家具を安く購入することが出来たそうだ。

 僕たちも落ち着いた生活を送るようになった。朝起きると、お父さんが散歩に連れて行ってくれる。7月の朝は温度が結構涼しくて、気持ちの良い緑の中の散歩だった。団地の中心には教会があり、その向こう側には公園や子供たちの野球場、そしてテニスコートがあった。公園では多くの人たちが朝の散歩を楽しんでいた。中には犬を連れた人も歩いている。僕はこの素晴らしい自然の中での散歩にうきうきした気分になった。

 40分ほどの散歩を終えて家に帰ると、お母さんが美味しい朝ごはんを用意してくれている。朝食を済ませると、お父さんとお母さんは家の掃除や庭の芝刈り、お昼ごろには二人して近郊の見物に出かけたり、買い物に行ったりしていた。その間は僕たちは居間で昼寝だ。

 夕方になると、お父さんとお母さんが一緒に散歩に連れて行ってくれる。そして夕食。お父さんとお母さんがテレビを見始めると猫たちを含めて僕たちはその横でまたうたた寝をしている。家の中で生活し、朝夕二回の散歩、美味しいものは朝夕たっぷり食べられる、僕たちにとっては夢みたいな楽しい生活であった。猫たちものびのび近くを動き回って楽しそうだった。


お父さんとお母さんにはまだやらなければならないことが沢山あった。

先ず第一に免許証の切り替えだそうである。お父さんもお母さんも免許証はロサンゼルスで取得したカリフォルニアの免許証である。当面はそのままで使用できるが、免許証はIDカードを兼ねているのでそのままでは何かあった時に問題になる。

第二に永住権の問題である。お父さんは日本で永住権グリーンカードを取得してきたので問題ないが、お母さんはロサンゼルスで申請したため、未だに許可が下りていない。労働許可証は貰っているので、働くことには問題ないが、身分的には中途半端である。

カータースビルで二週間を過ぎた頃、お父さんとお母さんは手続き場所を家主に聞いて免許証の切り替えに出かけた。普通はDMV( Department of Motor Vehicle)で手続きをするが、カータースビルにはDMVがなく、代わりにハイウェイパトロールの事務所で手続きできるとのことであった。

お父さんから聞いた話では、手続きは以下のようだったそうだ。

ハイウェイパトロールに行ってみて二人は驚いたそうだ。小さな建物の周りには手続きを待つ人の人だかりでいっぱいだった。ここは免許更新ばかりでなく、運転免許に関連する多くの手続きを実施しているということだった。まず順番待ちのチケットを貰ったが、受付開始が2時間後であった。仕方ないので近くのモールに買い物に行ってから戻ることにした。

自分の受付時間の少し前に戻って待っていると、二十分ほどでチケットの番号の呼び出しがあり、受付が開始された。小さな部屋をカウンターで仕切って、五~六名の係官が手続き事務をやっていた。渡された住所変更の用紙に記入するが、結構書く項目が多く、質問の項目によっては電子辞書で調べる始末だった。

ともあれ必要項目を記入してカリフォルニアの免許証を添えて提出すると、係官がコンピュータで調べ始めた。十分ほど待つと再び呼ばれて写真を撮るからそこに立てと言われて、立っているとバシャッと撮影が終わって、すぐに免許証を交付された。待ち時間は長かったが、手続きはきわめて短かった。こうしてジョージアの免許証を取得することが出来た。因みに有効期間は3年を過ぎた誕生日までで、更新は誕生日の一ヶ月前からになっている。二回目以降は3年毎の更新となるそうで、基本的には日本の運転免許更新とあまり変らなかったそうだ。

一方、グリーンカードに関する手続きは煩雑を極めた。取り敢えずは移民局に行ってから質問しようということにしたそうだ。免許手続きの終わった次の日に行くことにしていたが、当日はあいにくの雨。どうしようかと迷ったが兎に角行こうと朝の5時に出発した。ロスの移民局は朝早くから長蛇の列で3~4時間並ぶのは常識だとお母さんが言うので、早朝の出発とした。

ハイウエイに出てから驚いた。まだ早朝だというのに物凄い車の数だ。土砂降りの雨で車はノロノロ運転で、そのため渋滞していたらしい。まだ真っ暗なので、用心して一番右のレーンをゆっくり走ったが、雨のため前があまり見えない。おまけにスピードを上げて左側を走るトラックが物凄い水しぶきを吹き掛けてくる。全くのひやひや運転であった。普段なら4~50分のところを1時間半近くかけてやっとダウンタウンの中心にある移民局に到着した。

まだ薄暗い移民局の前には長蛇の列が出来ていたが、雨を考慮してかすぐに開門してくれた。お母さんに言わせると、ロサンゼルスの移民局に比べると比較にならないほど人が少ないと言う事だった。

中に入ると大きなビルの中の通路に長い列が出来ていたがそれほど時間は掛からなかった。申請の種類によって行く窓口が違っていたが、まだ時間が早いため、窓口が開くまで窓口のある大きな部屋の椅子に座って随分待たされた。

窓口ではいろんな説明があったが、要するに米国の移民局に住所変更その他の書類を手紙で申請しろということで、必要書類を渡された。ここですぐに手続きが出来るのかと期待していたお父さんとお母さんはがっかりしてしまったらしい。

言われたとおりの手続きを郵送で行い、お母さんの労働許可証の手続きに別の事務所へ行き、社会保障事務所へ行き手続きをしたりと煩雑な手続きを終えてやれやれというところで、最初に移民局に行ってから3ヵ月後に移民局から呼び出しがあった。

やれやれ、やっと手続きが開始されたかと、呼び出しの時間に合わせてゆっくり移民局に行った。移民局に行くと、早朝とは違ってあまり混み合ってはいなかった。

「ロサンゼルスの移民局とは大違いだ」

 とお母さんは呟いていたそうだ。

 指定された時間に部屋に入ると大きな机の向こうに黒人女性の係官が立っていた。「右手を上げろ」と言うので、二人して右手を上げると宣誓文を言わされた。お父さんに言わせると、呪文のような英語を相手の後について言わされたのだそうだ。

 その後、係官の前に座っていろんな質問があったが、お母さんがロセンゼルでの申請の状況を説明すると、「Crazy!」と言って溜息をついたそうだ。面接が終わると係官が、「おめでとう! あなたは米国の永住者になりました」と言ってお母さんに握手を求めた。お母さんはキョトンとしていたそうだ。お母さんとしては、ロサンゼルスでまだ数年は掛かると聞いていたし、今日は手続きの開始だと思っていたので、何の意味か分からなかったらしい。

「ロサンゼルスではあんなに苦労したのに、ここではあっという間にグリーンカードを貰えたんだね」

 お母さんは、帰りの車の中で、まだ信じられない顔をして呟いたそうだ。こうしてお母さんも正式にグリーンカードを貰い、アメリカの永住者となった。


 電話も問題なく契約し、テレビもDISHという衛星テレビを契約した。一応の生活には問題のない態勢を整えて、落ち着いた生活が始まった、が落ち着いてじっとしていられないのがお母さんの性格だ。

「お父さん、気晴らしに住宅を見て歩かない?」

 一年ぐらい借家で生活してみて、大丈夫となったら家を買うことを検討してみようと思っていたお父さんは、ぎくりとしてお母さんの顔を見つめた。

「今すぐ買おうという訳じゃないのよ」

「そんな金はないよ」

「予備知識を持つために見て回るだけよ」

 お父さんは、(いつもこの調子でやられたなぁ~)とやや不安な気持ちになりながらも、お母さんと一緒に売り出し中の家を見てあることにしたようだった。新築の住宅は四~五千万円はするので、お父さんたちの狙いは中古住宅だった。お母さん曰く、

「家賃を払うくらいだったら、家を買ってローンを払った方が良いんじゃない?」

「外国から移民したばかりの俺たちにローンが借りられる訳がないじゃないか」

 お父さんの計算では、借家でしばらく生活して、永住は問題ないと思えるようになってから、埼玉の家を売ってアトランタの家を買うことは何とか可能だろうと思っていた。

 ともあれ、お母さんの強引さに引っ張られて、アトランタに来てまだ一ヶ月にしかならないのに、中古住宅を見て歩いた。どうせ見るならアトランタの中心に近くて便利の良いところ、と言う訳で、今住んでいるカータースビルよりもハイウェイを走って三十分ほどアトランタ寄りの住宅街を見て回った。

 住宅売り出しの情報は、スーパーマーケットに置いてある住宅情報誌やインターネットで調べることが出来る。まずは情報を調べてから、気に入った地域の物件を見て歩くことにした。物件の条件は、先ずは買い物に便利なところにあることだ。そして、通勤をするわけではないので、ダウンタウンからは少し離れていても構わないが安全な地域にあること、であった。

 お父さんが日本にあるアメリカの会社を辞めるときにアトランタ育ちの同僚が居たので、質問をしたところ、住むならコブ郡(Cobb County)が良いと聞いていたので、コブ郡にあるマリエッタとケネソウを中心に見て回った。

一~二週間見て歩くうちに、住宅の価格などの状況もだんだん分かってきた。お母さんが

「ここは良いなぁ~」

と呟いた団地があった。マギーバレーと名前の付いた団地で、団地の住宅はすべてブリックハウス(レンガ造りの家)であった。

「こんなブリックハウスの家が俺たちの手の届く値段である訳がないじゃないか」

 お父さんが即座に否定した。

 住宅を見て歩き始めて二週間が過ぎた頃、とある団地の奥に売り出し中の物件があり、不動産屋らしい男が立っていた。レンガ造りの立派な家なので、中を見てみようということでその家に近づいて行くと、男が話しかけてきた。名前をスティーブと言った。

 しばらく話している内にお父さんがいろいろ質問を始めた。お父さんは日本に居るころ休みの日の暇つぶしに宅建取引主任の資格を取っていたので、住宅の売買には詳しかった。勿論、別の仕事があったのでこの資格は一度も使ったことはなかったが・・・

話の最後にお父さんが質問したのがローンを借りられる条件だった。返事は、

「収入があれば借りられるよ」

「え? 年金収入でも良いの?」

「勿論!」 

 お父さんは、自分の年金の額等をスティーブに説明すると、そのくらいあれば問題なくローン借りられるとのこと。お父さんがお母さんにそれを説明すると、お母さんは目を輝かせて、

「ローンを借りれるのなら、家賃を払うより買った方が良い」

と即座に言った。お父さんは、(あ、またやられた!)と思ったが、スティーブに計算させたら、家賃を払うよりは確かに安い。

「取り敢えず、ローンの申請をしてみてから、家はゆっくり決めれば良い」とのスティーブの助言を受けて、ローン申請の書類に記入した。後は年金証書と銀行預金の写しで確かにその額の年金を受けているという証明を出せば良いとのこと。

 お母さんはすっかりその気になってしまっており、この家はブリックだし気に入った、と言うことで家を見ることになった。結構大きな家で、台所が少々狭かったがそれ以外は申し分のない家であった。それに敷地面積は千坪ほどあった。

 僕は、お父さんたちが帰ってきてから話をしているのを聞いて、(あ~あ、お父さんをちょろまかすのは、お母さんにとって朝飯前なんだなぁ~)とお父さんに少々同情した。

 それから一週間の間、お父さんとお母さんは何度もその家を見に行って、これを買おうという結論になったらしい。スティーブと細部の話をして契約することになった。スティーブの話では、ローンについては既に銀行の承認は下りているとのこと、僅か一週間で移民してきたばかりの外国人にローンの承認が下りるとはどういう国だ、とお父さんはいぶかしがっていた。

 ともあれ、半日かけてスティーブの説明を受け、書類にサインして契約は終わった。ただし、スティーブの話では、既にネバダ州の人が先に申し込んでいるので、我々は二番目の権利者だという。ただネバダの人は多分買わないから大丈夫だとも言った。二~三日で結論が出るから、はっきりしてから正式の契約をすると言う。

 日本の不動産の売買とはかなり違うので、何となく頼りなかったが、ともかく乗りかかった船だ、このまま続けることにした。


 翌日の夜、スティーブから電話があった。ネバダの人が買いたいと言って来たので、我々にこの家を売ることが出来なくなったという内容の電話だった。お母さんは犬の僕の目にも可愛そうなくらいがっかりしていたが、お父さんが盛んに慰めている。すると突然お母さんが叫ぶように言った。

「あの不動産屋は詐欺師じゃない!」

 お父さんはびっくりしたような顔をしてお母さんの顔を見ていた。お父さんとお母さんは仮契約のときにスティーブを銀行に連れて行って、三千ドル(三十三万円)の手付けの小切手を渡していた。

「銀行で小切手を作って貰うときに、スティーブは横に立っていたし、PIN番号パスワードを入力する時も横で覗き込んでいたわよ」

 お母さんに言われて、お父さんも心配になってきた。銀行口座の番号は小切手に書いてあるし、PIN番号を知られると、銀行に預けている貯金を引き出されてしまう可能性があるからだ。

 翌日、二人は銀行が開くのを待って銀行に飛んで行った。行員に確認すると、預金はすべて無事だった。二人はほっと安心したが、それでもお母さんの不信感は消えなかった。

 銀行から帰るとスティーブから電話があり、明日の朝、物件の家に来てくれと連絡があった。お母さんは、すっかりスティーブ不信になっており、もうスティーブからは買わないと言っていた。

 翌朝、スティーブに会ったところで、お父さんがもう契約はしないから手付けの小切手を返してくれとスティーブに言うと、彼は小切手をすぐに返してくれたが、

「折角ローンもOKの承認が出ているんだから、他の物件を見てみないか」

 と言った。お母さんは強く頭を振ったが、お父さんが「見るだけ見たらいいじゃないか」と言うと渋々同意したそうだ。それからスティーブが連れて行ってくれたところは、何と前にお母さんがこんな団地に住みたいと言っていたマギーバレー団地内の二軒だった。しかもそのうちの一軒は、お母さんが「この家は良いなぁ~」と言っていた全面煉瓦のブリックハウスだった。横には小さな小川が流れていた。

 お母さんは、さっきまでのスティーブ不信はどこへやら、「キャー」「ウ~」の連発だった。2階部分が居住スペースになっていて、大きな暖炉つきのファミリールームとダイニングキッチン, ベッドルームが3部屋、広い客接待用の応接間、バスルームが二つ、それにユティリティルームがあった。1階部分は広いユティリティ設備(給湯・冷暖房)の部屋になっていて、卓球台を4つぐらい並べてプレイ出来そうな大きな部屋であった。値段を聞くと800坪の土地付きで、すべての設備を含めて○○万ドル(当時の円レートでXXXX万円)と言う。三十年ぐらい前に建った古い家だったが、前の借家に修理に来た大工に聞いたところでは、「煉瓦の家は百年以上大丈夫だ」と言っていた。それにアメリカでは、日本と違って、家が古くなってもあまり値段は落ちないそうだ。

 スティーブは他にもう3~4軒見てから決めたらどうか、と言ったが、お母さんは「この家で良い」と言って聞かない。お父さんが何度も確かめたが、「この家にしよう」の一点張りだった。場所的にも便利なところで、大きな屋内ショッピングモールまで車で5分、そのすぐ向こうには会員になっている「カスコ(Costco)」もある。それにハイウェイの入り口まで僅か1分、「こんな便利な場所はない」とお母さんは主張したようだ。

 とは言っても、お父さんは心配なので、すぐに契約せずに1週間後に契約するとスティーブに言った。そして二人は毎日家を見にやってきが、お母さんの気持ちは変らず、1週間後に正式に契約した。

 この家の持ち主は、この家に二十五年住んだあとでサウスカロライナに転勤で数ヶ月前に引っ越したそうだ。最終的な契約クロージングはその持ち主と我々買い主、それに不動産屋と弁護士の四者が揃って、二週間後に弁護士の事務所で実施することになった。

 借家の契約解除に都合の良い九月三十日の引越しを予定して、借家の契約解除をし、運送屋等の引越しの手はずも整えて、着々と入居の準備をしていった。ところがクロージングを一週間後に控えた九月の中旬にハリケーンがやってきた。大した風ではなかったが、かなりの雨が降った。ハリケーンが去った後で、問題ないだろうけど一応家を見行こうとお父さんとお母さんは出かけていった。

 家の前に車を止めて車の外に出たとき、お父さんとお母さんは家を見て唖然として立ちすくんだそうだ。何と家の横にあった大きな木が二つに割れて、片方が家の屋根に落ちて突き刺さっていたのだ。二人は声もなく顔を見合わせたそうだ。


 お父さんが急いでスティーブに電話で連絡すると、スティーブも既に承知していた。既に売主の方と連絡を取って、調整中だということだった。お父さんとお母さんは、さてこの契約をどうするかと二人で検討を始めた。

 検討はしてみたものの、契約の時の状況から、家に重大な変更が生じたわけだから、契約破棄は出来るはずだ。しかし、借家の方は既に今月末には出て行くと伝えてあり、そのためか、その家の買い手が現れたらしく、既に家を見に来た家族がある。多分既に契約をしているはずだ。契約を破棄すると、借家からは追い出されて、次の契約には時間がかかる。その間、また別の借家を手当てしなければならない。お父さんとお母さんは、余程の不利がない限り、このまま契約を続行しようと決心したようだった。

 翌日、スティーブと会って、この契約をどうするかについて話し合った。スティーブの話では、売主は住宅保険に入っているので、家を完全に修理するから契約を続けたいということだった。家の被害は、さいわい構造には何の問題もなく、一部屋の屋根に大きな穴が開いて、木の枝が部屋の中まで突き刺さっていた。もしこの部屋に人が居たら危ないところだったが、幸い今は空き家になっていた。

 スティーブを間に立てて売主と交渉した結果、屋根は梁を入れ替えて板を張り、完全に修復し、天井に穴の開いた部屋も綺麗に修復する、屋根の瓦は家全体を張り替えるということになった。買主としてお父さんがドサクサにまぎれて他に三~四の要求を突きつけたが、一部しか合意してはくれなかった。

 契約破棄されては適わないと思ったのか、売主の行動は早かった。次の日には五~六人の作業員が来て、屋根にのしかかっていた木を取り外し、小さく切って持って行き、家の回りを掃除して行った。屋根に落ちた木の直径は五十センチ以上はあった。

 家の修理は、時間が掛かるので我々が入居した後も続けることで合意した。結果は、入居した後で大工作業が行われ、屋根の張替えが終わったのは入居後一ヶ月近く後のことだった。家全体の屋根の張替えをしたので、家はぐっと見栄えが良くなったようだ。

 お父さんとお母さんは引越しの準備をしながら、

「ハリケーンが来たのが一週間後でなくて良かったなぁ~」

 としみじみ話していた。数日後に予定されているクロージング後であったら、すべての修理は買主の負担になるが、クロージング前だったのですべては売主の負担で実行された。

 そして数日後、売主がサウスカロライナからやって来て、不動産屋と弁護士、それにお父さんとお母さんが参加して、クロージングが弁護士の事務所で実施された。弁護士の主導でいろんな書類にサインさせられ、頭金の小切手を売主に渡し、ローンの手続きを完了して最終的な契約は終了した。約二時間の会議だったそうだ。

 弁護士からこの書類を持ってカウンティ(郡)の役所に行きなさい、それですべての手続きは終わりですと言われて、翌日役所に行った。役所で聞いた話では、ジョージア州では教育の費用は家の所有者が負担することになっていて、その費用は住宅に課せられる税金(住民税)に含まれてるのだそうだ。六十五歳以上の人はそれが免除されるそうで、結果的には住民税(固定資産税を含む)が年間三千ドルのところを三分の一の千ドルに軽減されるそうだ。

 波乱にとんだ住宅の購入であったが、とにもかくにもすべての手続きが終わって、お父さん、お母さんと僕とミー、それに猫のダニ、ハナ、ジュリー、ピンキー、デルの人間二人と犬二匹、猫五匹は新しい住宅に引っ越して、アトランタでの新しい生活を始めた。

 お父さんが一階の扉に穴を開けて、猫たちが自由に出入りできる猫用の扉を取り付けてくれたので、猫たちは自由に出入りして近所の芝生の上を歩き回っていた。僕たち犬は朝夕の散歩以外は家の中で生活するようになった。それにしても庭も広々していて、木が多く、道路以外はどの家も芝生の庭なので、緑いっぱいの素晴らしい環境だった。近くにはお父さんが時々連れて行ってくれる林もあって、僕たちにとっては最高の生活だった。僕はこれからの楽しい生活への期待に胸を膨らませた。


 新しく購入した我が家での生活が始まった。

 最初の内は、お父さんもお母さんも近くの観光に毎日出かけていたが、一~二ヶ月もしたら、殆ど見て回り、もう見て回るところも少なくなった。

 お父さんは生活費の計算を一生懸命にやっていたが、家のローン、住宅保険、医療保険、自動車保険等を含めると、年金だけでは生活はやっていけないので、仕事を見つけようと言い出した。勿論これは当初からそのつもりであったのだが・・・

 お母さんは日本人が経営する幼児教育の学校を見つけてすぐ働き出したが、お父さんの仕事は難しかった。アメリカのリクルートの会社に履歴書を出したら、沢山の会社から面接に来いとの連絡があった。中には「俺の片腕で会社を経営しないか」との申し出があったが、いづれもお父さんをアメリカ人と勘違いしている節がある。それにお父さんは、今更アメリカ人相手の仕事をするつもりはない。しかし、日本の会社は年齢を聞いただけでお断りだった。

 お母さんは毎日楽しそうに働き出したが、お父さんは毎日やることがない。ほんの少し前までは日本で働き蜂だったお父さんとしては、毎日やることがないのは地獄の責めに等しかった。寂しさを紛らわせようと、一階部分に日曜大工ならぬ、毎日大工で手作りの書斎を作ったり、庭に花壇を作ったりして時間を潰していた。

 この頃は、お父さんとお母さんが喧嘩をすることが多くなった。お父さんは、「このままでは俺の人生は終わりだ」と言い出し、日本へ帰ろうと言う。お母さんは一生アメリカで住む積りでアメリカに移住してきたのだ。そこで二人の意見がぶつかり合う、と言うわけだ。そして二人が出した一応の結論は、あと二年住んだら日本に帰ろう、と言うことになった。お母さんとしては、あと二年でここに住むのは三年になる。ロスの娘も、スペインの娘も、三年経ったら落ち着いてくると言っていたので、お父さんも三年経てば落ち着いてくるさ、との思惑があったらしい。

 思惑どおりに、お父さんは段々環境に慣れてきて、落ち着いた生活をするようになった。そして二人の結論は、お母さんが仕事を辞めたら、その時点で日本に帰ろうということになったらしい。お母さんは、まだ五年以上は働こうと思っているので、当面帰国の危機はなくなったと言う事だろう。五年後には情勢も変るかもしれないし、その頃になると、お父さんも引越しが面倒くさいと言い出しかねないのだ。それに話し相手も少しづつ増えて来たのだ。

 ここに住みだして半年を過ぎた頃、「ジャパンフェステ」と言って、日本人の集まりのお祭りみたいなものがあった。友人に誘われて見に行ったところ、「福岡県人会」を見つけて参加した。毎月ある夕食会で友人が出来、更にその友人の紹介で「111会」に入会した。これは夫婦の年齢を合わせて111歳以上の熟年親睦会で、三十組以上の夫婦が参加しているが、時々夕食会やら、その他の行事を催してくれた。111会では趣味に応じていろんな行事をやっているが、男たちはゴルフをやる人が多かった。

 アトランタはゴルフ天国、安い料金でゴルフが楽しめる。お父さんはゴルフをやるようになってから、アトランタに住むのが苦痛でなくなったようだ。僕の予想では、お母さんが仕事を辞めても僕たちはアトランタに住み続けるような気がする。

 お父さんの毎日は、週に二~三回はゴルフ、日曜日はお母さんと買い物、食材は二週間に一度は和食用の食材を買いに行く。何もない日は、油絵を描いたり、庭の手入れや芝刈りをしている。勿論インターネットは毎日やっている。SNSに入って、日本の熟年たちとわいわいがやがやをやっているかと思えば、ロス、スペイン、埼玉の娘たちとビデオチャットで楽しんでいる。

 お母さんは、毎日仕事に行っている。今は日本人経営の幼児教育の学校に行っている。お母さんの休みは週二日だが、一日はお父さんと買い物、もう一日は健康保持のためお父さんとゴルフをすることにしている。

 僕の毎日は、朝は食事をしたら、お父さんが散歩に連れて行ってくれる。散歩から帰ったら家の中でもっぱら昼寝。夕方お母さんが帰ってきたら、お父さんとお母さんが一緒に散歩に連れて行ってくれる。この散歩が僕にとっては一番楽しい時間だ。時々紐を離してくれるので、お父さんとお母さんの周りを走り回ったりする。散歩から帰って就寝までは、テレビを見ているお母さんの横でもっぱら甘えている。お母さんは英語のテレビ、お父さんは書斎でテレビジャパンの日本語放送を見ている。

 このような毎日であるが、この家に来て亡くなった黒猫のピンキーと僕の先輩犬のミーのことを時々思い出す。ピンキーはある日玄関の前でうずくまっていたのをお母さんが見つけ、いろいろ手当てをしたが、お母さんとお父さんの顔を見ると安心したように逝ってしまった。お父さんは車に撥ねられたのではないかと言っている。

 僕を長い間可愛がってくれたミーも最近逝ってしまった。ミーはその時19歳、天に召されても仕方のない年齢ではあった。埼玉からアメリカに移り住んで、他の犬には経験できないことを沢山して、きっとミーも幸せだったに違いない、と僕は信じている。

僕は現在十歳、僕の人生はここアトランタで閉じるに違いないと思っている。それまで何年あるかは分からないが、緑の深いアトランタで精一杯生きて行こうと思っている。

アトランタ、万歳!



<完>



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