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アトランタへ

7  アトランタへ




お父さんがアメリカの永住者になって初めてロスに来た時、お父さんとお母さんは不動産を見て回った。二人にとって、S姉ちゃんの住むロサンゼルスに住むことは大前提であって、他のところに住むことなど考えもしなかったのである。お父さんとお母さんが観光で初めてロスに来たころ、お母さんの学校の近くが住宅の大開発中であって、その時冷やかしに見て回ったが、結構な新築住宅が1500~1600万円で売っていた。しかし、今回見て回るとそこは既に大きな町に生まれ変わっており、不動産の値段は倍以上に跳ね上がっていた。ロスに住む友人の話では、ロサンゼルスはこの二~三年で不動産の値段が跳ね上がっているそうである。これではとても住宅は買えないと、中古住宅を見て回ったが、小さな中古住宅でも一戸建ては5~6000万円に上がっており、とても購入できる値段ではなかった。

「参ったなぁ~、これじゃ家は買えないよ、借家じゃ永住は出来ないしなぁ~」

お父さんはため息をついた。

不動産屋の話によるとロサンゼルスは今やニューヨークを越えて人口が増えており、移民も多く、未だに不動産の値段は上がり続けているという。最低5000万円以上もしたら、とてもじゃないけど自分たちには買えるわけはないなぁ~、とお父さんは再びため息をついた。しかしお母さんは諦めない、せっかく移住してきたアメリカだ。

「何もロサンゼルスに拘る必要はないんじゃない」

と言った。

「そうだなぁ~、他を調べてみるか」

それから二人でインターネットを駆使して各地の不動産の値段を調べ始めた。お父さんが示した条件は、まず自分たちに手の届く不動産があること。場所はアメリカならどこでも良いが、大都会の圏内であること、そして腰が悪く血圧の高いお父さんには寒い地域は体に悪いので暖かい地方が好ましい、との三つの条件であった。

 そして、まずは以前に観光旅行で行ったことのある場所、或いはお父さんが仕事で行ったことのある場所について徹底的に調べていった。

カリフォルニア州は暖かいところではあるが、全米の中でも不動産の高いところで余程の田舎に行かないと安い不動産は見当たらなかった。

「熊と一緒に暮らすのはいやだ」とお母さんは言う。

一方で、ワシントンから北は寒いから対象にしなかった。絞ってゆくとダラスかアトランタあるいはフロリダが最終的な候補地になったが、お母さんはアトランタを主張した。お母さんは「風とともに去りぬ」の大フアンでアトランタには数回観光旅行に来たことがあったからだ。

お父さんはインターネットで徹底的にアトランタの不動産を調べ上げた。そして言った。

「お母さん、アトランタなら可能性大だぞ」

「え? 本当?」

「家の値段が嘘みたいに安い。ロスの三分の一以下だなぁ~」

「アトランタに決めよう!」

間髪を入れず、お母さんは目を輝かせて言ったもんだ。それを受けてお父さんはアトランタの情報を徹底的に調べ始めた。

「空気は良いし、水はきれいだ、ロスとは比べ物にならないよ。年寄が長生き出来そうなところだな」

お父さんがアトランタに決めた理由がもう一つあった。アメリカ人でお父さんともう10年以上付き合っている友人の娘夫婦がアトランタに住んでいて、その友人自身も近いうちにアトランタに移住するつもりだとメールで連絡してきたことであった。仲の良いアメリカ人が近くにいればこれ以上心強いことはない。こうしてお父さんとお母さんは永住先をアトランタに決定した。

次はいつ実行に移すかである。お父さんはすぐには会社を辞められないが、半年後であれば大丈夫だ。そこで七月一日で退職することにして、それを会社に届け出た。もともとアメリカに永住するつもりはなかったお父さんではあったが、こうなれば仕方ない、やってみれば何とかなるだろうと自分に言い聞かせていた。もし途中で厭になれば日本に帰ればいいと軽く考えることにした。日本に家さえあればいつでもやり直しが効くさ、それまで日本にいるH姉ちゃんがお父さんたちの家に住んでくれればいいさ。もし、そのままアメリカに永住することになれば、家はH姉ちゃんたちに安く買ってもらえば良い、というのが結論であった。

アトランタに決定した日の夜、お母さんは僕たちのところにきて話してくれた。

「お前たちもアトランタに行くんだよ。ここも良いけど、アトランタはもっと良いところだよ」

え?アトランタ?それどこだ?埼玉からここまでえらい遠かったけど、もっと遠いのかな?


それからの3~4ヶ月はお父さんもお母さんも準備に大童であった。お父さんは日本から、お母さんはロサンゼルスからアトランタまでの引越しである。お父さんは必要事項を列挙して一つづつ検討していった。僕たちにはよく分からないけど、概略次のような項目を検討しているみたいだった。


*アトランタでの住居探し;  

先ずは借家を探さなければならない。犬猫がいるから向こうについてから家を探すと言う訳にはいかない。お父さんが日本からアトランタに直行して借家を見つけ、それから一旦ロサンゼルスに戻り、お母さんと僕たちを連れて、レンタカーで引越しをすることにした。

*荷物送り;

-お父さんの荷物は日本から直接アトランタに送る。(日通のペリカン船便で縦横高さの合計が一メートル五十センチ以内の箱十箱を、十万円プラスで送ることが出来る。)借家が決まったらH姉ちゃんに住所を連絡し、H姉ちゃんが日通に連絡することにした。発送後到着までは四十五日前後かかるらしい。

-お母さんの荷物は出来るだけ移動用のレンタカーに乗せることにし、後は黒猫のヤマト運輸でロスからアトランタへ送ることにした。(ベッド、テーブル。ソファー等は処分するが、それでも残りの荷物が箱三十個ぐらいあり、約二十五万円掛かることが分かった。)

-移動はレンタカー一台で行くことにしたので、お母さんの乗用車(今はカローラの新車になっている)は大和運輸で別送(十三万円かかる。)

*大陸内ドライブ移動;

-最初は二台で移動することにしていたが、方向音痴のお母さんがどこへ行くか分からないので、レンタカーの大きなワンボックスカーを借りて犬猫ともども一台で行くことにした。直行総距離約二千三百マイル(三千七百キロ)を四日間で移動できると計算し、綿密な行動計画を立てた。勿論、今回は犬猫八匹をつれているので、途中の観光はなしと決めた。アメリカ大陸の一番長い東西の長さは、日本からロサンゼルスへ飛ぶ場合の半分、太平洋の真ん中くらいまであるので、その遠さが分かろうというもんだ。(ただしこれは平面の地図上の計算。地球は丸いので、アトランタから成田へは、概略だが、アトランタ→シカゴ→アラスカ→北海道の東側沖→成田のルートを飛ぶことになる。)

-レンタカーは、当然、アトランタでの乗り捨て料金で結果は一週間で約十五万円掛かることが分かった。当然、燃料代は別である。

*ホテル;

人間だけであれば全然問題ないが、我々犬三匹と猫五匹である。動物八匹も泊まれるホテルがあるのか心配であった。この問題に関してはお母さんが頑張って調べた。インターネットで宿泊予定地の近くのホテルを徹底的に調べて、ペットも泊まれるモーテルを宿泊予定地の三箇所とも探し出した。費用は人間だけのホテルとあまり変わらず、一泊八~九十ドルでOKだ。


その他の細かい準備は多々あったが基本的な大きな準備は以上のようなものだ、とお父さんはお母さんに説明していた。

この数ヶ月はあっという間に過ぎた。会社ではお父さんの送別会を盛大にやってくれたらしい。とは言っても、アメリカの本社は十万人くらいの大会社だが、日本支社は日米半々くらいの総勢十五人くらいの会社なので、大したことはないや、とお父さんは言っていた。

残っている休暇を全部最後に取ったので、七月一日で退職にはしたが、実質六月の上旬に日本を出発しアメリカに向かうことになった。

六月十日、お父さんはデルタ航空のアトランタ行直行便で出発した。お父さんのアメリカ人の友人はこれに合わせて娘夫婦の家に行き、お父さんの借家探しを手伝ってくれることになっていた。アトランタに一週間滞在し、この間に借家を契約しなければならない。これはお父さんには少々厳しい計画であったので、友人に助けをお願いしたのだそうだ。 勿論、日本にいる時からインターネットで借家情報は調べてあるので大体は分かっていた。そこで到着早々から実際に家を探しに行くことにしていた。

アトランタまで約十二時間(日本行きは十四時間)のフライト、到着後すぐにレンタカーを借りて、友人の娘さんが予約してくれたエコノミーホテルに向かった。空港から三十分ほどのドライブでホテルに着いた。過去にお母さんと観光旅行で来たとき何度もドライブはしていたので道に迷うことはなかったそうだ。ただ今回はここに住もうという目的でのドライブなので、見るもの一つ一つが前回とは違った印象で見えたそうだ。

ホテルで休む時間もなく、友人が迎えに来てくれて、その夜は娘さん夫婦の招待での夕食会であった。娘さん夫婦は立派なレンガ造りの家に住んでいた。さぞかし高い家だろうと思って聞いたら、自分たちにも買えそうな値段なので、お父さんはびっくりしたそうだ。

その夜は友人一家と楽しく語らい、翌日から借家探しだ。しかし友人は一日だけ付き合ってから、次の日はどうしてもやらなければならない仕事があるので、ハンツビルまで帰らなければならないという。お父さんは何としても一日で借家を決めようと思った。

実際に探し始めると、先ずは電話でアポを取ってから家を見に行かなければならない。早口でジョージア訛りの現地の人との交渉なんてとんでもない。お父さんは友達の手助けがあったから、本当に良かったと感謝したそうだ。自分で直接交渉したら、明らかに外国人と分かるお父さんの英語では、借りることはおぼつかなかったかもしれないとも言っていた。ましてやヒスパニックに勘違いされて、貸してくれないこともあるかもしれない。

アトランタの中心に近いところは家賃が高いので、中心部からハイウェイで四十分ほど北のカータースビルという町に狙いをつけて探した。

ともあれ、3軒の家を見て回って、団地の中にある一軒が気に入り、値段も手ごろであったので「えい、ままよ!」と決めて、即刻契約した。ロサンゼルスの現在の家賃が千八百五十ドル、ここの家賃は七百五十ドルで半分以下だったので、お父さんは大いに喜んだ。勿論一か月分の家賃はすぐに入れなければならないが、幸いお母さんがロスで三年間住んでいたので、その小切手をもってきたし、その使い方も知っていたので問題はなかった。

その日の夕方、友人は安心して自宅のあるハンツビルに帰り、お父さんは地理探索に出かけて、残りの数日をアトランタの情報集めに奔走し、すべての準備を整えてからロサンゼルスに飛んだ。アトランタからロサンゼルスまで飛行機で五時間かかった。すべては予定通りであった。


お父さんがロスに着いてから、お父さんとお母さんの二人でお母さんの荷物の引越し準備を始めた。日本のお父さんの荷物は、お父さんがアトランタに出発する前に荷造りはしてあり、H姉ちゃんにアトランタの住所を知らせれば、H姉ちゃんがすぐ発送の手配をすることになっていたので、所要日数を計算して荷物の発送を依頼した。

忙しそうに準備をするお父さんとお母さんを見ていると、僕たちも何となく落ち着かない。それにしても、長旅を前にミーの様子が気にかかる。ミーは昨年から調子が悪いようで、じっとしたまま殆ど動かない。

「ミーの様子がおかしいの、医者にも連れて行ったんだけど、アトランタまでもつかしら」

お母さんが心配そうな顔をしてお父さんに報告している。

「仕方がないなぁ~ すべて手配済みだから今更変更も出来ないしな~」

お父さんは途方にくれた顔をしていた。二人であれやこれや心配して相談していたが、医者から薬を貰って、ともかく出発しようと言うことになったらしい。用心深いお父さんは、万が一の時に備えて黒い大きなビニール袋を準備していた。もしミーに万が一のことがあったら、この袋に密閉して、アトランタまで連れて行き、そこで火葬にするということだった。

その日から出発まではミーを散歩に連れて行くのを見合わせて、僕とジュンだけが散歩に連れて行ってもらった。お母さんには良く分からなかったようだが、僕にはジュンの調子も今ひとつのような感じがしていた。引越し前で気ぜわしいのか、その日の散歩はかなり急ぎ足の散歩だったが、散歩の最後のところでジュンが突然倒れてしまった。

「ジュン!ジュン!」

お母さんがびっくりして、ジュンを抱き上げて叫んでいた。ジュンは日本にいる時フェラリアと診断されていたが、医者がくれる薬を飲み続けて、最近は元気だったので、お母さんも安心していたらしい。お母さんに抱きかかえられたジュンは程なく元気を取り戻し、いつものジュンの姿に戻ったので、お母さんも安心したようだった。

ミーが調子悪い上に、ジュンまでも病気が再発したのか、とお父さんとお母さんは心配したが、今更やめるわけにはいかない。出発は明後日に迫っている。

翌日の朝、お父さんとお母さんはレンタカーの会社に出かけて、ドライブ用の大きなワンボックスカーを借りてきた。これに出来るだけの荷物を積み込み、僕たち犬と猫の乗る場所を確保してくれた。

車は前の運転席の列、中の座席、後ろの荷物室の三つに分かれているが、一番後ろを猫用のスペースにし、真ん中を犬用のスペースとした。猫はすぐ飛び出すからと犬と猫の間を網で仕切ってくれた。犬猫用の場所は、まず一番下に荷物をぎっしり詰め込んで、その上に毛布や寝やすい布団を敷いてくれたので外の景色は良く見えるし、快適なドライブになりそうだった。車への乗り降りは、僕たち犬は横の扉から、猫たちは逃げないように後ろの扉の内側に網を張り、そこから一匹づつ捕まえてペット用の篭に入れて出入りすようにされていた。

その日、黒猫のヤマト運輸が荷物を取りに来て、箱だらけだった家の中がガランとなった。今日はお父さんとお母さんは何もない部屋の隅に毛布をかぶって寝るということだった。ロスの6月は暖かく問題はないとお父さんが言っていた。猫たちは明日の出発に備えて、全員外出禁止にされていた。

その夜はお父さんとお母さんはS姉ちゃん一家と最後の夕食会ということで出かけていったが、家に缶詰にされた猫たちがビービーないてうるさいったらありゃしない。

「とうとう明日は出発か」

僕は三年二ヶ月住んだロサンゼルスを懐かしみ、夜空の星を仰ぎ見ながらロスで最後の眠りについた。勿論、アトランタが僕たちにとって良いところでありますように、と神様にお祈りすることは忘れなかった。


翌日、朝六時にS姉ちゃん一家に見送られてロサンゼルスを出発した。乗っているのはお父さんとお母さん、犬は僕とミー、ジュン、それに猫のハナ、ダニ、ジュリー、ピンキー、デルの人間二人と犬猫8匹だ。

六月のロサンゼルスの朝は既に朝日が昇り始めて、爽やかな朝だった。S姉ちゃんは両親のこの冒険ドライブに心配そうな顔をして言った。

「無理しちゃ駄目だよ、もし何かあったら携帯電話で連絡するんだよ」

「大丈夫だよ、心配するな!」

お父さんが笑顔で答えている。お父さんたちはアメリカの携帯電話は持っていないのでS姉ちゃんの携帯を借りており、アトランタに到着してから送り返すことにしていた。

お互いに手を振りながら出発した。S姉ちゃんは泣きそうな顔をして見送っている。両親に何事も起こりませんように、と一生懸命祈っているのだろう。僕はだんだん遠ざかる家をじっと見つめていた。この家での三年二ヶ月は結構楽しい思い出がいっぱいで、何となく名残惜しいような気がしていた。

猫たちはジュリーを除いてみんな静かにしていたが、ジュリーは何か忘れ物でもしたのかあるいは猫の友達と別れの挨拶をしなかったのか、「ミャ~オ、ミャ~オ」といつまでもなき続けていた。ミーは相変わらず眠っているがジュンは不安そうな顔をしてきょろきょろと外を見回している。今のところ二匹とも体に異常はなさそうだった。僕は勿論快調そのものだ。

お父さんはお母さんと楽しそうに話しながら運転している。運転は二人で二時間を目安に交代することにしているそうだ。

アトランタへの最短ルートは国道40号線を東に行くルートとそれより南の国道10号線-20号線を行く二つのルートがあったが、お母さんが友達に聞いたら40号の方が景色は良いがホテルや食堂が少ないということだったので、10―20号線の方を通ることにしたそうだ。

今日はアリゾナ州のツーソンまで約800キロの行程だそうだ。ツーソンのホテルには夕方の五時に到着の予定だ。車はロサンゼルスの町並を見ながら、101号から10号へと走ってゆく。早朝の出発で車はまだ少ない。ロサンゼルスエリアの町を抜けるのに1時間くらいだろうとお父さんは言っている。朝日に映えるロスの町並は美しかった。僕たちが寝そべっている場所は、荷物の上で天井に近いところなので、外の景色が良く見える。僕はロスの町並みを瞼に焼き付けるように一生懸命外の景色を見つめていた。

1時間ほど走ると目の前に砂漠の景色が広がってきた。前に一度連れて行ってもらったことがあるが、ロサンゼルスの北側から東に連なる山を越えるとそこは砂漠地帯だった。まるで西部劇に出てくるような景色が広がっている。そんな景色の中にまるで未来都市みたいな光景が広がって来た。お父さんによると風力発電の風車だそうだが、十メートル以上の高さがありそうな巨大な風車が見渡す限り広がっている。お父さん曰く、その数、何万個かの風車がこの付近の電力を供給しているのだそうだ。まるで巨大な蟷螂かまきりたちに取り囲まれたような錯覚に僕は恐怖感すら覚えた。

見渡す限りの風車群をやっと通り過ぎるとそこはパームスプリングだった。お父さんたちは何度も来たことのある大きな砂漠のリゾート地だそうで、ゴルフ場が沢山あるということだ。しかし、今日は遊んでいる暇はない。パームスプリングには下りずに、そのまま10号線を東に突っ走った。それ以降はすべて砂漠の中の道であった。砂漠といっても砂の砂漠ではなく、ところどころに砂漠特有の小さな草が生えているので砂嵐に巻き込まれる心配はなかった。

十時半ごろアリゾナ州に入る寸前のブリッセという小さな町に着いた。ここでシッコタイムを取り、お父さんとお母さんが運転を交代することにしていた。猫たちはトイレを一緒に乗せているので外には出さないが、犬の僕たちは何もないので外で用を足すしかない。

ジュンの様子が少し変だなと思ったが、犬は全員外に出た。外は灼熱地獄だった。物凄い暑さに圧倒されながら、僕は大急ぎで用を済ませた。お母さんはガソリンスタンドにあるコンビニエンスストアに買い物に行った。

全員が用を済ませて、再び車に乗ろうとした時、お母さんがジュンを見て叫んだ。

「あっ、ジュンの様子がおかしい!」

お母さんは急いでジュンを抱き上げた。お父さんも急いでお母さんが抱いているジュンの様子を覗き込む。お父さんとお母さんがジュンの名前を盛んに呼んでいた。

「あ、目の瞳孔が開いている、もう駄目だわ」

お母さんが絶望したような声を出した。こうしてジュンは突然天国に召されてしまった。お母さんはジュンを抱きしめたまま、

「ごめんね、気がつかなくてごめんね」

と繰り返していた。お父さんの分析によると、車の中はクーラーが効いて寒いくらいなのに、外は40度くらいの灼熱地獄。そこを突然散歩したのが悪かったのじゃないかと言うことだった。そこまでジュンの心臓が弱っていたとは、お父さんもお母さんも気がつかなかったようだ。

お父さんも途方にくれていたが、S姉ちゃんに電話して、この付近にペットの火葬をしてくれるところをインターネットで調べてくれ、と頼んでいる。しかし、いろいろ話し合った結果、例えあってもすぐにはやってくれないとのことで、とにかくアトランタまで連れて行こうということになったそうだ。S姉ちゃんがアトランタのペット霊園をインターネットで探しておくので、到着した次の日に火葬にしようということで、それまでは氷で冷やしてゆけば大丈夫ということになったそうだ。

とにかくこの砂漠の中ではどうしようもない。三十分ほどの休憩の後ツーソンに向けて出発した。お父さんが引き続き運転し、お母さんはジュンの体を抱いたままであった。ジュンはまるで生きているかのような穏やかな顔をしていた。

ブリッセを出発するとすぐにアリゾナ州に入った。折角の楽しいドライブの筈がジュンの死で暗いものになってしまった。ミーのことを心配していたのに、ジュンが逝ってしまうとは、二人とも予想外のことであった。しばらくは沈黙のドライブが続いた。お昼ごろフェニックスの手前で昼食を取ることにしたが、ジュンの遺体をいつまでもそのままにしておく訳にはいかないので、犬用の籠を半分にしてそこに毛布を敷き詰めてから安置した。今日中はそのままにして、ホテルに着いてから氷で冷やすことにした。

お父さんが、

「ジュンの事故は仕方ないけど、今後のドライブは一生に一度しかないドライブなので楽しむことにしよう、その方がジュンも喜ぶぞ」

と提案しお母さんもそれに同意した。


アリゾナ州のフェニックスまですぐのところに来ていたが、フェニックスは大都会だ。お父さんは若いころフェニックスに来たことがあったので町に入ってみたい気もあったらしいが、今回の旅は観光旅行はしないと決めている。渋滞の予想されるフェニックスは迂回してツーソンに向かうことにした。

フェニックスの郊外のマクドナルドで昼食をとり、今度はお母さんが運転して出発した。ロサンゼルスエリア内のハイウェイは五~六車線の道路が多いが、郊外に出ると殆どが二車線になる。それも対向の道路との間に広い緩衝地帯が設けてあるので安心して運転できる。交通量もぐんと少なくなって、前の車がずっと先のほうに見える程度の交通量なので、自ずとスピードも速くなる。殆どの道路が65マイル(104キロ)~70マイル(112キロ)の制限速度であるが、そんなスピードで走っている人は誰も居ない。

お父さんも、これまで80マイル(128キロ)~90マイル(144キロ)で走ってきたが、それでも時々追い越してゆく車があった。お母さんも少ない交通量に安心したのか、最初は80マイルで足っていたが、その内90マイルで走るようになっていた。お母さんが運転を始めて1時間くらい経った所で、さっき追い越していった車が車線の外に止められてパトカーの取調べを受けていた。何もこんな車の少ないところでスピード違反の取調べしなくても良いのに、とお父さんとお母さんは笑ったが、もしこれが自分たちだったら高い罰金を取られて、下手すると免許証を取り上げられる、そうするとえらいことになるなぁ~と顔を見合わせた。くわばらくわばら・・・

しかし、一日800~900キロを走るドライブだ。もたもた走っていては明るいうちにホテルに辿り着けないかもしれない。今のスピードで走ることはやむを得ないので、運転していない方は後方のポリスの見張りに努めることにした。

相変わらずの砂漠の中を突っ走って、予定より早く三時半ごろツーソンに到着した。ツーソンは、お父さんが仕事で何度も来たところだそうで、地理には詳しかった。

初めての犬猫と一緒のホテル泊まりである。本当にホテルは犬猫を泊めてくれるのかな、と多少の不安を持ちながら、お父さんとお母さんがチェックインのためにフロントに向かった。僕たちは、勿論車の中で待っていた。

程なくお父さんとお母さんが戻ってきた。チェックインはきわめて簡単だったそうだ。宿泊申込書にペットあり、なしの項目があって、ありに丸をつけて出すと、歓迎の言葉と一緒に部屋の鍵を渡し、部屋への行き方を教えてくれたそうだ。

ペット連れの人の部屋は裏手の別館の方にあった。普通のモーテルは客室の扉から直接外に出るようになっているが、このホテルは安全のためだろうが、廊下への入り口と廊下から部屋の入り口の2箇所に鍵がついている。セキュリティも良いけど、犬猫を大勢運び込まなければならないのに迷惑だな、とお父さんはブツブツ言っていた。

まず僕たち犬が紐に繋がれて部屋に入った。廊下を通る時途中の部屋から犬の鳴き声が聞こえ、やっぱり他にも犬が泊まっているんだと、僕は妙に安心感を覚えた。部屋は大きなベッドが二つ置いてある広い部屋で、浴室、トイレと流し台がついていて、きわめて快適な部屋だった。

お父さんとお母さんが猫たちを一匹づつ篭に入れて運び入れ、最後にジュンの亡骸ををお父さんが箱ごと運んできた。広いとは言え、二人と8匹だ、猫たちは部屋中を走り回り、ビービー泣いて騒ぎやがる。全く騒々しい部屋になった。

お父さんはジュンの亡骸を冷やすために近くのガソリンスタンドまで出かけて行って、大きな袋詰めの氷を買ってきた。これで箱全体を冷やすように敷き詰め、亡骸は持ってきた黒いビニールの袋に何重にも包み、最後に上に白い布を敷いた。この箱に向かって、お父さんとお母さんが両手を合わせて、改めてジュンの冥福を祈っていた。

猫たちはトイレの箱を持ち込んでいるので問題ないが、僕たち犬は暗くなった外へ散歩に連れて行ってもらって用を足した。部屋に帰ってから、お父さんはラップトップのコンピュータを電話線に繋いで、インターネットで何か一生懸命調べていた。

僕たちにとっては、初めての経験の長いドライブであったが、明日も早い出発なので、十時ごろには全員眠りについた。


翌日は全員朝五時に起床した。第二日目はアラバマ州のツーソンからニューメキシコ州,エルパソからテキサス州に入り、途中国道10号線から20号線に入って、オデッサまでの900キロの行程である。今回のドライブの中では二番目に長い行程だ。

ホテルでは、まだ朝食を出している時間ではない、朝食は途中のドライブインで取ることにして、六時に出発した。何せ犬猫八匹(七匹とジュンの遺体)の移動だ。荷物が多い上に、車に乗せる時猫に逃げられたら一巻の終わりである。十分な注意を払いながら猫全員を乗せ、最後に僕たち犬が乗り込んだ。

ホテルを出る時はまだ薄暗かったが、ハイウェイに乗って程なく太陽が道路の真正面から昇り始めた。朝の太陽なのでそれほど眩しくはなかったが、サンバイザーを下ろしてもその下に、正面から太陽を見ながら走ることになった。ツーソンの町を出てハイウェイに入るとすぐ、早朝にも関わらず、パトカーがしっかり道路を見張っている。こんなのに捕まったらえらいことだ、最初の運転のお父さんがキョロキョロ回りを見ながら、用心深く運転する。

やがて太陽もどんどん上に昇って、眩しさはなくなった。僅かに薄い雲がある程度の良い天気で、爽やかな初夏の朝は気持ち良かった。回りは相変わらずの砂漠地帯で、行けども、行けども砂漠特有の草と小さな木があるだけで、見渡す限り何もない世界であった。

ツーソンを出発して二時間ほどでアリゾナ州に別れを告げ、ニューメキシコ州に入った。しかし相変わらずの砂漠地帯である。ただこのあたりは結構山陰が見えるので、山の形を「人間が寝ているように見える」などとお母さんが言ったりして、景色を観察しながら走ったので、退屈しのぎにはなった。

ニューメキシコ州ではメキシコとの国境沿いを掠めて走っただけで、1時間半も走るとテキサス州に入った。そこはエルパソというメキシコと国境を接した大きな町だった。お父さんによると人口五~六十万人の町だそうだ。こんな砂漠の中によくぞまぁ~こんな大きな町を作ったものだ。メキシコの影響を大きく受けた町だということだが、ハイウェイを走っていても、何となくメキシコの町を走っているような錯覚に捕らわれる。

お父さんは本当は下りて、この町を見学してみたいなぁ~と言っていたが、今日は何せ900キロを走破しなければならない。そんな暇はなかった。

エルパソを過ぎてから砂漠の中を走ること四時間、夕方の五時ごろやっとオデッサに着いた。オデッサはあまり大きくはない町であったが、町に入る寸前から猛烈な夕立に見舞われた。ハイウェイでは前が見えないくらいの土砂降りだった。地図を見ながら走ってもホテルの場所が見当たらない、外は前もよく見えないような土砂降りの雨、人に聞こうにもこの雨じゃどうしようもない。ガソリンスタンドに入って、ガソリンを入れながらスタンドの人に聞くことにした。

ガソリンスタンドの人に聞いたは良いが、すごいなまりの英語だ。これじゃ日本の東北弁と良い勝負だな、と思いながらも、お父さんはやっとホテルの場所を何とか聞いて事なきを得た。

ホテルに着いた時は既ににわか雨はあがって、雨後の涼しさが漂っていた。先ずは僕たち犬猫に夕食を食べさしてくれてから、お父さんとお母さんはホテルのレストランに夕食を食べに行った。結構雰囲気の良いレストランだったようで二人ともご機嫌で帰ってきた。

このホテルは各部屋が外に面していて、扉を開けると直接外に出られる。お父さんとお母さんは、先ずは僕たちの散歩に連れて行ってくれた。ご機嫌の散歩で帰ってきたところでお父さんが叫んだ。

「あ、ドアが開いてる!」

さあ、大変だ。部屋を覗くと部屋の中にはジュリー、ダニ、ピンキーはいたが、ハナとデルが居ない。お父さんとお母さんは真っ青だ。それから二人で近所の大捜索を始めた。デルは部屋の前の駐車してある車の下に座っていた。見知らぬところなので、遠くへは用心して行かなかったらしい。お母さんが何とかしてデルを捕まえて部屋に連れ戻した。

さて、ハナは、とお父さんが近くを見渡すと、近くの草むらに座っているハナを見つけた。

「ハナ、おいで!」

とお父さんが近づくと、ハナはぱっと逃げる。それからハナとお父さんの追っかけっこが始まった。ハナはお父さんが離れると、近づくのを待って、近づくとぱっと逃げる。要するにハナは遊んでいるのだ。とうとうお父さんは怒ってしまって、

「もう、知らん!」

と言って匙を投げて、部屋に入って扉を閉めた。お父さんとしてはいざとなったら置いてゆく積もりになってしまったらしい。結果は三十分もしたころ、ハナが扉の前で「ミャ~オ、、ミャ~オ」鳴いていて、やっと部屋に入れてもらった。お父さんも大変だなぁ~と思う。猫たちが逃げないように見張りをしながら、ジュンの遺体を腐食しないように朝夕氷を買って冷やさなければならない。

ともあれ、今夜も全員が揃って、安心して眠ることが出来た。


第三日目はテキサス州のオデッサから、ダラスーフォートワースを通り、夕方ルイジアナ州のモンローまで走る予定だ。一日の走行距離は1100キロ弱のかなりの強行軍だ。何せ犬猫宿泊OKのホテルを拠点にしてのドライブだ、走る距離が長くなったり、短くなったりするのはやむを得ない。

それにしてもテキサス州は広い。昨日のお昼前にエルパソに入ってから、今日の夕方五時まで、合計十六時間ほどはテキサス州を走ることになる。お父さんの話では、テキサス州は全米一の広い州で、その総面積は日本の総面積より広いだろうということである。

今朝も五時起きで六時出発となった。猫たちは昨夜の脱走騒ぎで、今日は比較的におとなしくしている。

ロサンゼルスからアトランタまでは同じ国の中を走っても三時間の時差がある。従ってホテルに到着するたびにその地の時間を確認しておかないと出発時間が一時間遅れたりすることがある。お父さんが最初に仕事でアメリカに来た時は、場所を飛行機で移動するたびに一時間早くなったり、あるいは遅くなったりで随分戸惑ったそうだ。飛行機なので僅か一~二時間のフライトで時間が早くなったり、遅くなったりで、いつかは乗り換えの飛行機に危うく乗り損ないそうになったそうだ。

昨日同様に六時に出発すると、やはり太陽が昇る寸前であった。三十分も走らないうちに太陽が昇り始め、やはり真正面に太陽と向き合うドライブとなった。今日は雲ひとつ無い良い天気で、テキサスの道は曲がることなくまっすぐ伸びていた。何処まで行ってもまっすぐの道が続き、思わずハンドルを切りたくなる。

それにしてもテキサスは広い。数時間走っても一面の水平線で、山らしいものも何も無い、まるで広い海の中を走っているような錯覚に陥りそうだった。

最初のうちはまだ砂漠の続きであったが、やがて少しづつ緑の草が目立ち始め、やがて葉をつけた木々がパラパラと現れるようになった。いよいよ砂漠とはお別れだった。

砂漠が無くなったかと思うと、今度は一面の畑や牧草地帯であった。とにかく広い。昼前にダラス・フォートワースに近づいてきた。お父さんは何度も仕事で来たことがあるそうだが、フォートワースとダラスという大都会が二つ連なっており、時間帯によっては市街地のハイウェイの渋滞は物凄いそうだ。そんな渋滞に捕まったらとてもじゃないけど明るいうちに目的地には辿り着かない。

そこでお父さんは初めからこの大都会を避けて通るルートを調べていた。この大都会の南側を、ぐるっと迂回するルートで、素敵な田園地帯を通るルートであった。南側のウェイコと言う小さな町を通り抜けて、渋滞に巻き込まれることも無く、予定通りに進行することが出来た。

ハイウェイを走っていると所々に小さな町が点在している。こんな何も無い田舎にも人が住んでいるとびっくりすることもある。本当はこんな田舎の小さな町に立ち寄って、田舎の人の暮らしを垣間見てみるのも楽しいだろうなぁ~とお父さんとお母さんが話していた。しかし、今回のドライブは観光は一切無し、闇雲に走るだけ、と二人の結論はいつも同じだった。

ダラスを過ぎてから途中すごい豪雨がやってきた。スピードを出していては、前が全く見えないので危ない。すべての車がのろのろ運転だ。右側に寄って車を止めている人もいる。お父さんがアトランタに行って借家を探した時も途中豪雨に遭って参ったと言っていた。アメリカは大陸性の気候だから雨が降り出したら、スコールみたいな激しい雨が降り、ハイウェイの車は非常に危険だとお父さんがお母さんに話していた。

ともあれ、激しい雨は三十分ほどで遠ざかり、後にはまた嘘のような青空が広がった。いよいよテキサスも終わりに近い。道の両側の木々も段々背が高くなってきて、両側に林が連なるようになってきた。

ハイゥエイの右側に「歓迎!ルイジアナ州にようこそ」と書いた大きな看板が目に飛び込んできた。いよいよテキサス州に別れを告げ、ルイジアナ州に入ったのだ。ルイジアナ州に入ってすぐ休憩所があったので、休憩をすることにして、駐車場に車を止めた。お母さんは僕とミーを散歩させてくれながら、ロサンゼルスのS姉ちゃんに携帯電話で報告をしていた。後一時間半も走れば、今夜の宿泊予定のモンローと言う町に到着する。モンローからアトランタまでは後900キロくらいだ。S姉ちゃんは両親がジュンの死以外は何事も無くここまで走って来たことに安心していたらしい。

休憩所を出てから一時間半、予定より三十分ほど早く、まだ明るい内にモンローに到着した。ホテルは塀に囲まれた敷地に建っていて、なかなか感じのよさそうなホテルであった。ただし、夜の散歩で蚊の多いのには往生したが・・・

第三日目になると全員慣れてしまって、食事と散歩が済むと、疲れた体を休めて早々に眠りについた。と言っても疲れているのは運転してきたお父さんとお母さんで、犬と猫は一日中、車に揺られながら寝ているだけだったが・・・


いよいよ今日は最終日だ。今日のドライブ予定は朝六時にモンローを出てミシシッピー州に入り、さらにアラバマ州のバーミングハムを通り目的地のジョージア州に入る、全長900キロの行程だ。最終目的地の借家のあるカータースビル(Cartersville)には夕方の三~四時の到着を予定している。

さぁいよいよアトランタだ、と全員元気に出発した。長いドライブではあるが、今日が最後のドライブだと思うと、何となく寂しい気もしないではない。でも、猫たちは多少ダレ気味のようで、全員毛布の上に大の字なって寝ている。

出発して一時間ほどでルイジアナ州にお別れして、ミシシッピー州に入った。丁度州境にミシシッピー川があって、大きな観光用らしい、昔風の船が浮かんでいた。  

お母さんが、「Y姉ちゃんの高校時代に演じた芝居がニューオーリンズからミシシッピー川で商売する商人の話だったねぇ~」と懐かしそうにお父さんに話していた。ニューオーリンズは我々が走っている国道20号線よりもずっと南の海沿いの町だということだった。

ミシシッピー川を過ぎると、すぐにジャクソンという町に入った。お父さんはジャクソンにも一度仕事できたことがあるそうだが、

「飛行機で来るのと、車で来るのとでは随分印象が違うなぁ~こんなちっぽけな町だったかなぁ~」

と呟いていた。

昨日までは砂漠や畑、牧場で見晴らしのきく明るい景色であったが、今日は朝から道の両側はびっしり背の高い木々の林で、緑一色という感じであった。お父さんが数年前にジャクソンに来た時は、少し前にトーネードが近くを襲ったそうで、まるで林の中を工事で切り開いたように木々がなぎ倒されていたそうだ。この巨木の林の中をまるで道を作るように切り開いて行くトーネードのエネルギーはまさに恐るべきものがある、とお父さんは話してくれた。家なんか簡単に吹き飛ばされてしまうよなぁ~

あっという間にジャクソンは通りすぎ、メリディアンという更に小さな町を過ぎるともうアラバマ州であった。そして昼過ぎにはバーミングハム(現地の人はバーミンガムとは言わない)に近づいた。

十二~三年前、お父さんとお母さんは初めてアトランタに観光で来て、ジョージアからアラバマ近辺のドライブをしたことがあるそうだ。初めてのアメリカの体験ドライブだったそうで、その時の失敗談を懐かしそうに話していた。アトランタ空港でレンタカーを借りて、その辺の一般道路で練習してからハイウェイに乗ろうと計画したが、空港から出るとそこはもうハイウェイで車は皆7~80マイル(110~130キロ)で走っていたそうだ。あわくって車の流れに沿って走ったが、心臓が飛び出しそうだったよ、とお父さんは笑いながら話してくれた。その時、一日の長いドライブの末にたどり着いたのがバーミングハムだったそうで、ここに一泊したそうだ。

バーミングハムを過ぎると三十分ほどでジョージア州に入った。州境にはやはり大きな看板があって、「Welcome To Georgia」と歓迎の言葉が書かれている。

「ヤッホー とうとう着いたな」

お父さんとお母さんが大きな声を出して喜んでいた。

このまま二十号線を行くとアトランタ市街のど真ん中に入ってしまうが、アトランタの観光はいつでも出来る。先ずは借家に到着することが先決だ、とお父さんが言って、途中から20号線を左折し一般道路に下りて北上し、借家のあるカータースビルに向かった。カータースビルはアトランタの中心から六十キロほど北にあり、静かなアトランタの郊外都市であった。

この道路は、ハイウェイとは違って、日本の一般道路と同じくらいの道幅で、深い林道を走っているような感じであった。制限速度は45マイル(72キロ)で、行き交う車はみな100キロ近いスピードで走っている、特にカーブで大きく長いトラックとすれ違う時は、お父さんは恐怖感を覚えたそうだ。

ともあれ、この道から見える景色は典型的なジョージアの、のんびりした風景で、お母さんも「素敵!」の連発だった。道際にあるレンガ造りの家を見ては、

「あ、あんな家に住みたい、うちの借家はどんなの?」

とお父さんに質問する。お父さんの返事はそっけない。

「うちは犬小屋」

二人がわいわい話しながら一時間近く走ってやっとカータースビルに到着した。ロサンゼルスを出発して四日目の夕方三時半ごろであった。町の名前は、昔の南北戦争で活躍したカーター将軍の名前に由来していると聞いたが、細部のことはよく分からない。

町の中心部は昔の西部劇に出てきそうな雰囲気の町だったが、周りには近代的な綺麗なショッピングモールが沢山あった。お母さんは、町の雰囲気は一目で気に入ったらしいが、お父さんが決めた借家を気に入るかどうかは分からない。

こうして四日間にわたる大陸横断の旅は無事終了して、カータースビルの借家に到着したのであった。ジュンの死以外は何の問題もなく、交通事故にも遭わず、お巡りさんにスピード違反で捕まることもなく、ジュン以外のペットは全員元気で、一応、目出度し、目出度しのドライブではあった。








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