ロサンゼルスの生活
6 ロサンゼルスの生活
朝の明るさで目が覚めた。ロサンゼルスの五月は爽やかな天気で気温も丁度良かった。お父さんたちはまだ家の中で眠っているらしい。家は三ベッドの家で、日本式に言うと3LDKと言うことらしい。アメリカでは決して広い方の家ではないがお母さんとお姉ちゃんたち三人で住む分には申し分のない家であった。勿論、日本の常識から言うと庭の広々とした大きな家と言うことが出来るだろう。
僕は緑の芝生の庭に出ると精一杯の背伸びをした。するとジュンが車庫から飛び出してきて庭中を走り出した。ミーも出てきてジュンの走りを見ている。その内三匹揃ってふざけ合って楽しんだ。
朝の八時ごろになるとお父さんが大きな欠伸をしながら庭に出てきた。お父さんも珍しそうに周りを眺め回している。
「おまえたち、良い家に住めて良いなァ~、今日からおまえたちの小屋を作ってやるぞ」
お父さんはニコニコしながら、僕に言ってくれた。僕もお父さんの顔を見ながら尻尾を力いっぱい振って、二~三回大きな声で吠えた。
やがてAちゃんが僕の名前を呼びながら庭に出てきた。Aちゃんはまだ歩き始めたばかりで、その足取りは極めて危なっかしい。僕が知らん顔をしていると今度はジュンを追いかけて歩いて行く。ジュンはわざとふざけながらAちゃんから逃げ回る。
「キャッ、キャッ」
というAちゃんの叫び声にお母さんとS姉ちゃんも笑いながら出てきた。暫くの間、犬三匹と人間四人の追いかけごっこが始まった。E兄ちゃんはS姉ちゃんとの約束で家には来ても良いけど夜はアパートに帰る事になっていたので、この日は仕事が終わってから来ることになっているそうだ。
こうして僕たちのロサンゼルスでの生活が始まった。お父さんとお母さんが早速行動開始した。先ずは人間の食料と僕たちペットの食料だ。S姉ちゃんが会員制の大きな店舗であるカスコ(COSTCO)(注)の会員になっているので、そこで買うことにしたそうだ。
その日から早速アメリカ食のドッグフードを出されたが、どれも大味でどうも僕たちの好みに合わない。お父さんも人間の食事について、「アメリカ飯は好かん!」と言っている。お父さんはアメリカ出張の時は、いつもホテルの人に日本食の場所を聞いて、少々遠くてもわざわざ日本食を食べに行っているそうだ。
お父さんは「滞在期間が少ないから早く犬小屋をつくろう」と言って、午後からは僕たちの犬小屋の材料を買いに「ホームディーポ(Home Depot)」に行った。大工道具とベニヤ板そして若干の材木を買い込んできて、犬小屋の工事が始まった。僕たち犬3匹のために大きな3つの小屋を作るそうだ。お父さんは、明日には完成すると豪語しているが、本当にそんなに早くできるのかな。もっともお父さんの作業はいつも雑だから、本当に出来るかも知れんな。
お父さんの工事の音を聞きながら、僕たちはロスの第一日目を芝生の上で楽しく遊んだ。お父さんはのこぎりを使いながら、
「どうしてアメリカののこぎりは前に押して切るんだ!やり難くて仕方ないなぁ~」
とぼやいている。店でいくら探しても、日本のように手前に引いて切るのこぎりは見つからなかったそうだ。
猫たちは今日も部屋の中に監禁されたまま日が暮れた。ジュリーのミャーミャーと泣く声が外まで聞こえていた。
(注)COSTCO
アメリカでは「カスコ」と呼ばれているが、日本では「コストコ」と呼ばれているようだ。アメリカの全国チェーンの会員制安売りの店であるが、日本の卸やと小売店を合わせたような店舗だ。体育館みたいな大きな建物に大きな棚を作って、商品が綺麗に並べられている。家具から食料品までいろんな商品を売っている。日本にも進出して、四~五店舗が開店してるようだ。食料品は、一週間単位で買うと確かに安い。アトランタの今の家の近くにもカスコがあるので、大いに重宝している。食料品はカスコと日本の食材店またはアジア系のマーケットで、一週間単位で買っている。
次の日から、お父さんとお母さんが散歩に連れて行ってくれるようになった。家は綺麗に区画整理された大きな団地の中心部にあった。道はまるで碁盤目のように区画されており、ゆっくり歩いたら一時間で団地を歩くのは不可能なくらいに広かった。道路の両脇には大きな木がびっしり並んでおり、木の少ないロサンゼルスの中では緑の多い地域であった。
道の両脇には家がびっしり並んでいた。殆どが僕たちの家と同じくらいの家で、中には二階建ての家もあったが、大半は平屋の家であった。勿論、日本の家並みと比べればゆったりしているが、お父さんは思っていたより窮屈な感じだなぁ~と言っていた。各家の敷地の横幅が狭いのが、家が狭く見える理由だったけど、どの家も奥に向かって結構長く、家の前には十~十五メートルの芝生のアプローチがあった。一軒当たりの敷地は二百~三百坪はありそうで、やはり日本の四十~五十坪とは比較にならないなぁ、とお父さんは言っていた。
僕の家の借家の両隣は、向かって右側はユダヤ系の大家族で、左側はアメリカ人の白人の若い夫婦の家であった。両方とも犬を飼っていたが、若夫婦の家の庭には獰猛な顔をした大きな犬が二匹ウロウロしていた。僕たちが来たときに威嚇するような声で吠え立てたのはこいつ等だな、くわばら、くわばら、こいつ等に関わりあうのはよそうと僕は思った。反対側のユダヤ系の犬は顔が潰れたようなあまり大きくないブルドッグの子供で、生意気に僕らに向かって吠え立てていた。
道の両側にはゆったりした歩道がついているし、自動車も殆ど通らない素敵な散歩道だった。各家には道路側にも裏庭にも大きな木があって優雅な雰囲気を醸し出している。お父さん、お母さんそれに三匹でゆっくり散歩して帰ってくると、隣のユダヤ系の家の長男だという若者と出合った。まだ若いくせに髪の毛が少々薄い。お父さんたちが挨拶をしながら話していると、
「この地域にはコヨーテが出没するから、猫は気をつけないといけないよ」
と忠告してくれた。この団地の裏手にはサンタモニカ山脈という山々がありそこには多くのコヨーテが住んでおり、冬場の餌のないときにここまで下りてくるということだった。市では野鼠等の繁殖を押さえるため敢えてコヨーテ狩りはしないと言う事であった。そう言えば散歩の途中に迷い犬や猫を探す張り紙があったなぁ~
お父さんの大工仕事は大分進んで、明日には完成する予定らしい。出来上がったら白いペンキを塗るので、僕たちが入居できるのは明後日になりそうだ。お陰で、僕たちは今夜も車庫の中に敷かれた毛布の上で寝る破目になった。
作業開始から二日後、お父さんとお母さんが二人がかりで、出来上がった小屋に白いペンキを塗っていた。それが終わると真っ白な犬小屋が三つ出来上がって、家の南側に並べて置かれた。喧嘩をしないようにという配慮で、お互いの出入り口は向き合わないように置かれていたので、中に居る時は静かなもんで、落ち着いた生活が出来るようになった。家の庭側には朝日がいっぱい当たるので、それを避けるために小屋でのんびりするのは優雅なものだった。ミーとジュンもそれぞれの小屋に入って、優雅な生活を始めたようだ。小屋は結構大きく、僕が長く横になっても転がることが出来るくらいだった。お父さんによるとアメリカのベニヤ板のサイズが大きいから、結果的に大きな小屋になってしまった、ということらしい。
夜と昼間の疲れたときは小屋で眠り、遊びたい時は芝生の上でミーやジュンと戯れて遊んだ。朝夕はちゃんと散歩に連れて行ってくれる、これなら何とか楽しい生活が出来そうだ。ロサンゼルスと言うところも悪くはないなァ~
この家に来てから三日が過ぎたところで、猫たちが庭に開放された。最初のうちは猫たちも庭か家の回りでウロウロしていて、あまり遠出をしないようだった。庭の芝の上で寝っころがったり、塀の上に飛び乗って隣近所の庭を観察したりしている。でも、猫は良いなぁ~と思う。だって僕たち犬は庭の中だけしか見れないし、唯一見れるのは格子扉から道路のほうを少し見れるだけなんだもの。それに比べると猫たちは自由に近所を歩き回っても、誰にもとがめられない。この不公平はどこからくるのだろう。
僕が格子扉から外を見ていると、ダニがのんびりと歩いて外に出て行った。そこには大きな黒猫が座っていた。随分大きな猫だなァ~と思ってみていると、ダニがゆっくりその黒猫に近づいていった。危ない、引っ掻かれるぞと思って見ていたが、僕の心配をよそにダニとその黒猫がお互いの匂いを嗅ぎ始めたのだ。そして親しげに向かい合って座った。猫だってアメリカ猫は英語で話すはずだ、ダニの奴いつの間に英語をマスターしたんだろう、僕は羨ましかった。
そう言えば、僕が初めて日本の家に来たときも、ダニの奴は僕のそばに歩いてきて、僕が唸っても平気な顔をしていたなぁ~ 本当に人懐っこい奴だなと思う。そうでなければ薄ら馬鹿かも知れんなァ~ そう言えば、お父さんがダニは交通事故で頭を打ったから、少しおかしくなったのかも知れんと言っていたっけ。 それにしても、ダニの奴早々と友達を作りおって羨ましいなと思った。
毎日の散歩の時、お母さんは日本の時と同じように近所の人たちと気軽に話すもんだから、結構散歩友達が出来たようだ。こちらでは道で行き違った時はお互いに、にこやかに挨拶を交わす習慣のようだ。人通りは少ないが、行き違う時は必ず手を振ったり、言葉を掛け合ったりするのが礼儀のようだった。
僕は柴犬だから、日本では可愛いなんて言われたことはなかったが、こちらでは良く可愛いと言われる。近所の犬や散歩で会う犬は、日本ではペットショップで高い値段で売られているような犬ばかりで、柴犬なんて何処にも居やしない。だから珍しいのかもしれない。
「可愛い犬だね、何て種類の犬?」
大体この質問から始まる。
「柴犬っていうの、日本から連れてきた犬なのよ」
「名前はなんていうの?」
「ガスって名前なの、8月に家に来たからAugustの最後をとってガスにしたの」
とお母さんが答えると、相手は「ガス」と呼びながら、興味津々という態度で僕の頭を撫ぜてくれる。そしてお母さんと世間話が始まる、という按配で、何のことはない、言葉が違うだけで日本の散歩と何も違わなかった。違うところは、日本ではスコップを持って歩き、僕たちがウンチをするとそれを埋めてくれていたが、ここではビニールの袋を持っていて、持ち帰るようになっていた。
こちらに来てから、散歩に猫のハナがついて来ることが多くなった。勿論、少し離れてついて来るのだが、お母さんが捕まえようとするとさっと逃げる。知らん顔をして行くと大きな声で「ミャ~オ、ミヤ~オ」鳴きながら後をついてくる。すっかり近所では有名な猫になって、ハナがついて来ていないと
「おや、ハナは今日どうしたの?」
と聞かれたりするようになった。
メイは相変わらずおっとりしていて、庭の芝生に出てきては、ひっくり返ったりして遊んでいる。メイは家からはあまり離れない。
ジュリーの行動はロスに来てからも変らない。お腹がすいたら帰って来て、腹いっぱい食べたら、何処に行くのかまた外に遊びに行く。恐らく隣近所の家の庭で遊んでいるに違いない。暗くなるといつの間にか帰ってきて、お母さんのベッドの上で眠っている。
ニャンの行動も今までと全く変らない。家からは一歩も出ずに、お母さんが庭に抱っこして出てきても、僕たちを見ると、びっこを引きながらさっと家の中に逃げ込んで行ってしまう。
猫たちもこうしてロスの家にも慣れて、毎日の生活を始めたのだった。
翌日、お父さんとお母さんは、お父さんのレンタカーで、お母さんが入学する大学に入学手続きのために出かけた。後から聞いた話では、お母さんはインターナショナル生徒担当の事務所に入っていって、いろんな手続きを一人で済ませてきたそうだ。お母さんが平気な顔で事務所に入っていって、お父さんは外で待っていたそうだ。お母さんは怖気づきもせず、何食わぬ顔をしてさっさと事務所に入って行ったので、
「厚かましい奴」
とお父さんは呆れていたそうだ。ともあれ、全ての手続きを終わって、学校は三週間後に始まるそうだ。こうしてお母さんは正式にこの大学の学生になった。
家に帰ってきてから、お父さんとお母さんが庭のテーブルに座って、今後の事について話し合っていた。これからお母さんが学校に通学したり、買物に行ったりするのに先ずは自動車が必要だ。そして運転免許証なしには自動車の運転は出来ない。しかし当面は、日本から国際運転免許を持ってきたので、一年間はそれで運転できるが、自動車はそうはいかない。お父さんがいる間はお父さんのレンタカーで動いているから良いが、お父さんが日本に帰ると途端に通学の足に事欠くことになる。勿論、当面はS姉ちゃんの車で買物等はできるが、お母さんの通学までは面倒見切れない。お母さんの学校はS姉ちゃんの勤め先とは反対の方角で、お母さんの学校に行くのも、S姉ちゃんの勤め先み行くのも家から三十分くらいかかるところにあった。おまけにS姉ちゃんは仕事に行く途中でAちゃんを保育所に連れて行って預けなければならない。お母さんの面倒まで見るのは不可能だった。何としても早急に自動車が必要だ。そこでS姉ちゃんに、会社で他の人に聞いて、車の情報を探してくれるように頼むことになった。
次にアメリカで住むためには、社会保障番号(SSN)が必要だ。アメリカ市民は勿論、永住者も留学生もこの番号を持っていないと銀行口座も作れないし、運転免許の試験も受けられない。S姉ちゃんに調べてもらって、一番近い社会保障事務所に、明日手続きに連れて行ってもらうことになった。全てはこの番号を貰ってからだ。
翌日から、アメリカに住むためのいろんな手続きを行った。社会保険事務所は家から車で二十分くらいのところにあったので、お母さんとS姉ちゃんで手続きに行った。手続きは簡単でパスポートに書いてある学生ビザと学校の学生証を見せたら、何の問題もなく登録して正式な社会保障番号を付与された。
次は銀行口座だ。これがないとお父さんが生活費を送金しようにも送金できない。こちらの方はさすが商売、社会保障番号を言うと喜んで口座を開設してくれた。
最後に自動車だったが、幸いにS姉ちゃんが、日本企業の駐在員が日本に帰るために、買い手を捜しているとの情報を聞いて、早速電話して話をつけてくれた。三日後には当人が車を持って家に来てくれた。車はドイツ車のJETTAの五年ものであったが、五千ドルで売ってくれた。
取敢えず手続き関係はほぼ終わったが、まだ家具を買っていなかったので、お父さんとお母さんは板張りの床にマットレスを強いて毛布をかぶって寝ていた。
翌日、手続き関係が終わったので、お父さんとお母さんが家具を買いに出かけた。S姉ちゃんが日本人経営の中古家具屋があると教えてくれたが、お父さんが「最初くらい新品にしよう」と言うのでベッド、ソファーそれにダイニングテーブルと椅子を注文した。見事な家具ばかりだったが、値段も見事だったとお父さんが嘆いていた。でもお母さん曰く、
「日本の値段に比べたら随分安いわよ」
お父さんは「随分金がかかるなァ~」とぼやくことしきりであった。
当面、お母さんが生活するために必要な手筈が整ったのを確認して、お父さんは日本へ帰ることになった。お父さんは僕たちの頭を撫ぜながら言った。
「ガス、ミー、ジュン、元気に暮らすんだぞ、家に泥棒が入らないように、しっかり見張ってるんだぞ」
こうしてお父さんは後ろ髪を引かれるような気分で日本に帰って行った。
お母さんとS姉ちゃん、そしてAちゃんの三人と犬猫八匹の生活が始まった。お母さんは随分早く起きて、朝食の準備を始める。ある程度準備が出来たところで僕たちを散歩に慌しく連れて行ってくれる。
帰ってきた頃、S姉ちゃんとAちゃんが起きてきて朝食だ。S姉ちゃんは食事が済むと慌しく出勤準備を整えて、Aちゃんを乗せて、自分の車のトヨタエコーで出てゆく。お母さんは毎日ではないが授業が朝からある日はS姉ちゃんが出てから間もなくグリーンのジェッタで学校へ向かう。学校では先ずは語学研修らしいが、一ヶ月ほどで専攻の授業が始まるらしい。お母さんは柄にもなく芸術(ART)を専攻したそうだ、大丈夫かな?
お母さんは、学校から帰ると僕たちをすぐに散歩に連れて行ってくれるが、夏のロサンゼルスは夕方の八時過ぎまで明るいので、この時期になると散歩は夕食が済んでからになることが多い。
夕食の準備が出来たころ、S姉ちゃんがAちゃんを連れて帰ってくる。勿論、僕たちの夕食も同じ頃に出してくれる。暗くなるまで僕たちと団欒して過ごし、暗くなるころ、それぞれの部屋に引き上げてゆく。僕たちもそれぞれの小屋に入って一日を終わることになる。
こうして毎日同じような日々が続いていった。お母さんは元気そのもので、毎日をはつらつと生活している。芸術専攻は油絵を描くことになったと言って、油絵の道具を買ってきていた。そして大きなキャンバスに何か訳の分からない絵を描いては悦に入っている。日本に居たときと違って毎日をウキウキして生きている感じであった。
「ガス、ここはアメリカだよ、アメリカ、ワ~オやっと夢が叶った!」
僕のところに来てはこんなことを言いながら頭を撫ぜてくれる。そして
「亭主元気で留守が良い!」
なんて言葉を大きな声で言ったりしている。毎月せっせと送金をしてくれているお父さんがかわいそうな気がしてきた。本当に良いのかな。
でもお母さんには大きな仕事が残っていた。運転免許の取得だ。今は国際免許で運転しているので何とか通学は出来ているが、いつまでもこのままと言う訳にはいかない。意を決して免許を取りに出かけた。しかし、これが大変だったそうだ。以下はお母さんの話。
ロサンゼルスはいくつかのカウンティ(郡)があって、その中に最低五~六の市があるが、運転免許を交付するDMV(Department of Motor Vehicle)が各市に一つある。運転免許はどの市のDMVで受けても良いことになっているが、実地試験に辿り着くまでが大変だそうだ。お母さんはサンタモニカ市のDMVに行って受けたそうだ。
まず長い列に並んで受付の順番を待つ。これが滅茶苦茶長い、一~二時間並ぶのは当たり前という感じだったそうだ。自分の順番が来たら必要書類(SSN,パスポート等)を見せて、受験願書に必要事項を書き込む。書類審査にOKが出たら、簡単な視力の検査を受けた。
それからまた並んで筆記試験の順番待ちだ。筆記試験の部屋に入ると係官が「何処の国の言葉で受ける?」
と聞いてくれるので、日本語と答えると、日本語の試験問題が渡される。そこで壁に向かって置いてある机で問題を解く。勿論四答択一の回答だ。試験問題の内容は簡単で、日本で免許を持っている人ならまず一回で合格できる程度の問題だ。ところがアメリカ人の中には、全然分からなくて、何度やっても合格しない人もいたそうだ。 お母さんが解答用紙を持って係官のところへ行くと穴のあいた型紙を上に当てて正解を確認し、70点以上であれば即決で合格だ。勿論、お母さんは一回で合格したそうだ。
合格すると合格の証明書を出してくれて、再び受付へ行って実地検査の予約を取ることになる。合格後一年以内ならいつ受けても良いが、三回実地試験に落ちると筆記試験の受けなおしになる。お母さんは学校の授業のない日に実地試験の予約を取った。
実施試験は自分の車に試験官が乗り込んできて行われる。試験官の指示で車を発進し、普通に町の中を走ることになる。その間、試験官は黙って採点用紙に記入している。X点が三つ以上になると不合格になる。
お母さんは日本の運転暦は三十年以上と長かったが、試験の時はあがる性格だそうで(本人の言い訳)、最初の時はガチガチになって受けたので、あっさり落とされたらしい。二回目は大分よくなったが、「もう少し」と試験官に言われたそうだ。三回目は必死の思いで受けて、やっと合格したそうだ。合格した日は大喜びで帰ってきて、僕たちに大盤振る舞いのご馳走を出してくれた。
それ以来、お母さんはまるで運転試験なんて簡単だったよ、というような顔をして、大威張りでジェッタを運転している。
お父さんは二~三ヶ月に一回は必ずロサンゼルスにやってきた。年末年始の休暇以外は出張の初めと終わりに立ち寄るだけだったから、日本から来た時、それから日本へ帰るときの土日曜日をこの家で過ごすことになる。その間、お母さんはしおらしい顔をして、
「やっぱりお父さんが居ないと何となく淋しいね」
などとうそぶいていたりする。勿論、「亭主元気で・・・」なんてことは一言も言わない。いい気なもんだよ、全く!
お父さんは日本でいつも何をしているのかと、お母さんが質問していた。
「別に何もしとらん」
とお父さんの返事はそっけなかったが、お父さんの生活は概ね次のようなものらしい。
平日は以前と全く変らず、朝の7時半頃の電車で東京赤坂の会社に出て行く。接待のある日は遅くなるが、何もない日は7時ごろには家に帰ってくる。それから自分で夕食を作って食べている。H姉ちゃん夫婦と一緒に住んでいるが、「娘に迷惑をかけたくない」ということで、全部自分で作っている。H姉ちゃんには一切手を出すなと厳命しているそうだ。日曜日に食材を買いに出かけて一週間分を買いだめしているということだった。お母さんが渡米してから一年半後にはH姉ちゃんが男の子を生んだので、H姉ちゃんもお父さんの面倒みる時間がなかったこともあったかも知れない。H姉ちゃんとしては、お父さんの料理をしている姿を見て、ハラハラしているが下手に手を出すとお父さんに叱られるのでどうしようもないという状況だった。
赤ちゃんの予定日が1月中旬だったので、H姉ちゃんは風水とやらを調べて、「1月生まれの子供は私と性格がぴったりなんだよ」と喜んでいたし、お父さんもまだ先だということで、年末休暇を取ってロサンゼルスに出かけて行った。ところが、ところがである。年末に破水してしまって、男の子が生まれたのは大晦日の夜だった。後数時間で1月に生まれるところだったが残念ながら12月の最後の最後に生まれてしまった。お父さんは居なくても、旦那のK兄ちゃんが年末年始休暇中だったので、すぐに産婦人科に駆け込んで、問題なく出産することが出来た。風水の良い一月でなくて残念だったが、風水に関係なく、仲のよい気の合った親子で暮らしている。
お父さんは、孫が生まれた時、丁度年末年始休暇を取って、お母さんの居るロサンゼルスに行っていたので、折角の孫の出産には立ち会うことは出来なかった。でも、ロサンゼルスから帰ってきてから見た初めての男の子の孫の顔をまじまじと見つめ、嬉しそうだったということだ。お父さんにとっては三番目の孫だったが男の子の孫は初めてだった。
逆単身赴任の生活になった当初、お父さんも休みの日をどう過ごすか戸惑っていたらしい。最初は自分の部屋でぼ~っとしていたらしいが、その内、鉄道会社の募集する「駅からハイキング」に参加するようになった。年齢も60歳を越していたので、熟年ハイキングには適齢期だったらしい。毎週土曜日はハイキングに出かけ、日曜日はハイキングの疲れを取るために休む、と決めたらしい。
ところが、お父さんは結構体力のある爺さんらしく、ハイキングでは物足りなくなって、近くの山に登り始めた。登山の案内書を見ながら登っていたらしいが、これも詰まらなくなって自分で地図を見ながら計画して、栃木、長野そして群馬の山々を順番に登るようになったとのことだ。山登りになってからは、流石のお父さんも疲れきって、次の日曜日は家でぐったりという按配で休んでいたそうだ。
一人の山登りは淋しいもので、昼間でも暗い林の中を通ったり、「熊出没注意」の張り紙に怯えて歩いたり、頂上付近ではロッククライミングよろしく、岩山を登ったりするらしい。何時かは岩場で向こう脛を嫌というほど岩にぶっつけて、三十分くらい唸っていたこともあったそうだ。幸い骨には異常がなく一時間後にはとぼとぼ下りてきたらしいが・・・ また心細い山道を歩くときは、淋しくなったら大きな声を出して歌ったりしたそうだが、歌い終わるとますます静かになって、もっと淋しくなってしまった、と言っていた。
冬が近くなると、H姉ちゃんが危ないからと言って、お父さんの山登りを禁止した。お父さんは止むを得ず、冬の間は鉄道ハイキングと日帰りバス旅行に切り替えたが、春が来たら再び山登りを始めたそうだ。
このような按配で、お父さんは逆単身赴任の三年間を結構楽しく乗り切ったということだ。
話はさかのぼるが、お母さんがロスに渡ってから間もなく、Y姉ちゃんからお父さんに連絡があって、Y姉ちゃんの結婚式が本決まりになったそうだ。半年後にスペインのバルセロナの大きな教会で式を挙げることになったそうだ。お父さんが
「そんな立派なところで式をしたら、凄く高いのじゃないか」
と言ったら、Y姉ちゃんの返事は、
「日本でやることに比べたら全然安い」
ということだった。大体、日本が高すぎるのだ。
それからはまた結婚式の準備、と言っても、参列のための準備がおおわらわであった。式場その他の準備はY姉ちゃんたちとスペイン側の両親で全て整えてくれるということであった。
日本に居るのはお父さんとM兄ちゃん、そしてH姉ちゃん。お母さんとS姉ちゃんはロサンゼルスである。結局、参列者は、日本からはお父さん、M兄ちゃん夫婦と孫のKちゃん(四歳)、そしてH姉ちゃんが参加することになった。H姉ちゃんの旦那さんは仕事の関係で参加できないとのこと、代わりにハワイの結婚式のとき犬猫の面倒を見てくれたお母さんの妹が来ることになり、全部で六名。アメリカからはお母さんとS姉ちゃん一家の四名で総勢十名となった。Y姉ちゃんは既にスペインのムルシアというところで暮らしている。
結婚式の様子は、お父さんの話によると次のようなものであったらしい。
三月上旬、日本組は成田から、アメリカ組は一日遅れてロサンゼルスを出発してバルセロナに飛び立った。日本組がドイツのフランクフルト経由でバルセロナに到着、Y姉ちゃんとD兄ちゃんの出迎えを受けてホテルに到着。十五時間に近い長旅であった。翌日の夜、アメリカ組がパリ経由で到着。ハワイでの結婚式以来久し振りに家族全員が揃った。日本でもこの七~八年は家族が全員揃ったことはなかったのに、S姉ちゃんの時のハワイそして今度のバルセロナと家族全員が揃うとは、お父さんも思ってもいなかったらしい。その日の夜、ホテル近くの大きなレストランで久し振りの家族の晩餐をしながら、
「全く、変な家族だな!」
と一同大笑いをしたそうだ。
到着の翌日は、全員揃ってバルセロナ観光。サグラダファミリーが作った、というか造りつつあるというアウディの寺院、ダウンタウン、その他を観光し大いに楽しんだ。
翌日はいよいよS姉ちゃんの結婚式だった。式は12時からだというのに、Y姉ちゃんは早くから起こされて、美容師さんに花嫁の髪型、着付けをされていた。そして写真撮影。Y姉ちゃんは美容師が造った髪型が気に入らないとブスブス言っていた。
スペイン側の家族もホテルにやってきて合流、家族同士が顔を合わせて挨拶したのはこの席が初めてだった。ただ、スペイン側の両親はスペイン語以外は話さない、お父さんとお母さんは日本語か英語しか話せない。新郎新婦は忙しくて通訳どころではない、新郎の弟がアメリカ留学の経験があって英語を話せたので、彼の通訳で日本とスペインの両親の会話が何とか弾むことが出来た。
双方の家族が全部揃ったところでいよいよ式場の教会に出発だ。新郎新婦の真っ白なダックスフンドは別行動で、参列者はその前に出発した。勿論、スペイン側は自家用車だが、日本側にはハイヤーが準備されていた。
式場は小高い丘の上にある教会であった。教会の上にはキリストらしい人物が両手を広げて空を仰ぐ銅像があしらえてある。D兄ちゃんの話によると、バルセロナ市内の何処からでも見える有名な教会だということで、夜はライトアップされており、昨夜ホテルの窓からも見えていた。
教会の向かい側は遊園地になっていて、大勢の人たちがたむろしていた。M兄ちゃんの奥さんが和服を着ていたので、スペインの人たちの興味の的で、いろいろ質問されていた。そこへ丁度Y姉ちゃんたちの白いダックスフンドが到着して、ウエッディング衣装姿のY姉ちゃんが車から降り立った。花嫁姿のY姉ちゃんと日本人の集団に沢山の人が集まってきて、お祝いの言葉を言っているようだ。全部スペイン語だから良く分からなったが・・・
スペインで感じたことは、スペインの人たちは日本人に偏見はなく、むしろ日本人に好意を持っている印象を受けた。
教会に入って驚いた。物凄く大きく美しい教会だった。美しいステンドグラス、様々な飾りの装飾、中世ヨーロッパの素晴らしい建築物だった。こんなに立派な教会での結婚式が日本よりずっと安いとは・・・日本が如何に高いかということだなぁ~とお父さんは溜息をついた。
大きな建物の割には参列者の席は二百人がやっと座れるほどの座席しかなく、それがまた部屋の雰囲気にぴったりマッチしていた。座席には既に大勢の人たちが座って、結婚式のセレモニーを今や遅しと待ち構えていた。Y姉ちゃんから予め聞いていたが、スペイン側の親戚の人たちで、全部で八十人が参列しているということだった。日本とアメリカから来た我が家族は、子供を入れて総勢十名。我々が入って行くとあっちこっちからにこやかな声がかかった。日本側が右側の前二列に座ると、スペイン側の人たちの一部がその後ろに動いてきて良い塩梅の参列者の配置が出来上がった。
やがてお父さんは神父さんに指示されて、扉の外でY姉ちゃんと待機、結婚式の音楽と一緒に扉が開かれ、Y姉ちゃんと腕を組んで入場した。その前を予め指示されていた女の子のKちゃんとスペイン側の可愛い男の子が、手を繋いでウエッディングリングを入れた小さな篭を持って歩く。これは以前の結婚式ではなかったが、二人の子供がまるで絵に描いたように可愛かった。
結婚式は基本的には日本のH姉ちゃん、ハワイのS姉ちゃんの時と同じだったが、神父さんの言葉は全てスペイン語なので、何を言っているやら分からない。お父さんは過去二回結婚式で経験した手順通りに、Y姉ちゃんの手を神父さんの前でD兄ちゃんに渡して、自分の席に戻る。それからは神父さんの説教と例の「汝は・・・愛するか」云々の決まり文句だったようだ。一応の型どおりのセレモニーが終わって、お父さんとスペイン側のお母さんが祭壇の上に呼ばれた。そして新郎新婦と一緒に誓約書にサインをさせられた。
これはカソリックの結婚式であったが、カソリックの定めでは離婚は認められないそうだ。従って、もし二人が離婚して新しい結婚式を挙げようとしても、教会は受けつつけてくれないということだった。
結婚式は一時間半くらいで終了したが、我々が日本から来たということで、神父さんがわざわざ教会の中を案内してくれた。どこを見ても美しく素晴らしい教会であった。
披露宴は教会にほど近い大きなレストランを借り切って行われた。日本組が遅れて到着した時は、八十人の親戚たちが裏庭のテーブルで飲み物を手にし、アピタイザーを軽く食べながらの雑談の最中であった。日本組もそれに合流したが、大半の人はスペイン語しか話さない。しかし中には英語を話す人も居て、そういう人たちは日本人グループに近づいてきて、いろんな話に花を咲かせた。
三十分ほどで、全員が披露宴の広間に案内された。白いテーブルクロスを掛けた丸いテーブルが沢山並んでいる。何せ合計九十名のパーティだ。広い部屋いっぱいに所狭しとばかりに丸いテーブルが並んでいた。双方の両親は新郎新婦を挟んだテーブルで、話に花を咲かす、と言っても新郎新婦の通訳で話した訳だ。途中でお父さんが旅行案内本のスペイン語をローマ字読みにしたら、相手には完全に分かったようだが、返事がさっぱり分からない。新婦の通訳に頼らざるを得なかった。スペイン語の発音は日本人には易しいが、アメリカ人には難しいということだった。
食事は日本人の舌にも合う魚料理その他で、五~六人の給仕の派手なパフォーマンスで運んでくる。食事の終わるころ新郎新婦がお礼の品を各テーブルに配り、挨拶をする。お父さんも新郎に頼まれて一緒に挨拶して回ったそうだ。スペイン語は出来ないのでもっぱら英語の「サンキュウ」の連発だったらしい。驚いたことに各テーブルでスペイン語あるいは英語で「君たちは、もう俺たちのファミリーだ」と口々に言ってくれたそうだ。
暫くすると新郎新婦のダンスに始まり、参列者が一斉にダンスを踊り始めた。流石スペインの人たち、ダンスが物凄く上手い。お父さんはダンスなんかしたことはなかったが、スペイン人たちに引っ張られてダンスの輪に入った。お母さんに言わせると、お父さんのダンスはまるで「野球拳」をやっているみたいだったそうだ。披露宴が始まったのは二時ごろだったが、すべて終わって解散したのは夜の九時だった。スペイン人の精力的な徹底した遊び振りには参りました、とお父さんが述懐していた。
次の日からお父さんがレンタカーを借り、地中海沿いをドライブ旅行となった。驚いたことに、レンタカーは殆どがマニュアル操作で、もう二~三十年マニュアルをやったことのないお父さんが悲鳴を上げた。やっと特別注文をしてオートギヤの車を借りることが出来た。
ドライブではバルセロナから両親の住むバレンシアに地中海沿いに南下した。そこで両親の所有する海辺の別荘を借りて楽しみ、両親の家を訪問したり、バレンシアの火祭りを楽しんだりした。その後さらに南下して、新郎新婦の住むムルシアに移動した。ムルシアは結構大きな綺麗な町であったが、Y姉ちゃんたちはまるで画に描いたような海辺の綺麗な家に住んでいた。
史跡見物等の観光をして、二週間をたっぷり楽しんだ後、再びバレンシアに移動して、それぞれの国への帰国の途についた。バレンシア発イベリア航空の飛行機が二時間遅れて、ロンドンで乗り継ぎの全日空機に置いて行かれたりとのハップニングもあったりしたが、お父さんの大奮闘で日本航空に乗り換えて、全員無事帰国することが出来た。
こうしてY姉ちゃんも結婚して、スペインでの新婚生活を始めたのだった。四人の子供たちが全員結婚したことをお母さんが喜んで「ヤッホ~ これからは大いに楽しませて貰うぞ!」と叫んだのは言うまでもない。
ここで、ロスに来てからの猫たちのことについて話しておこう。この家に到着してから半年くらいは、猫たちも広い庭を楽しんで遊び、平穏な日々が続いていた。しかし、半年後に異変が起こった。
ある朝、S姉ちゃんがAちゃんと出かけて行った後のことである。この日はS姉ちゃんは何か特別な用件があったらしく、まだ朝の薄暗い時間に出て行ったのである。S姉ちゃんが扉を開けたときに、メイが玄関から外へ出ていたようだ。S姉ちゃんの車の音が遠ざかった頃、僕は家の玄関の方にただならぬ気配を感じて、格子扉から外を覗った。メイの匂いがするが、それと一緒に不吉な匂いが感じられた。その時メイのかすれた小さな悲鳴が聞こえた。
僕はメイが危ないと本能的に感じて、力いっぱいの声で吠え立てた。ジュンも一緒に並んで吠えている。するとお母さんが飛び出してきて、
「ガス、ジュン、何を吠えているの」
お母さんが不審な顔をして僕たちを見た。しかし、僕は構わずに外に向かって吠え続けた。お母さんもやっと気がついたらしく、慌てて格子扉を開けて玄関の方へ走って行った。僕たちもついて行くと、玄関の前の芝生の上にメイのものらしい白い毛が散乱していた。
「メイ! メイ!」
お母さんは大きな声で叫びながら、家の回りを走り回り、今度は慌てて家に駆け込んで、メイの名前を呼んでいた。しかし、メイの姿は何処にも見えなかった。
「メイがコヨーテにやられたのかもしれない!」
お母さんは急いで外を歩ける服に着替えてから、僕たち犬3匹を連れて近所を歩き回った。盛んにメイの名前を呼ぶがメイは何処にも居ない。1時間ほど探し回ってから家に帰ったが、お母さんは肩を落として涙を流していた。お母さんは、それから一週間ほど探し回ったが、メイはとうとう家には帰ってこなかった。コヨーテにやられたのは、もう間違いないと思われた。
丁度その数日前、サンタモニカで人間の赤ちゃんがコヨーテに襲われたとのニュースが報道されていた。母親が乳母車からちょっと離れた隙に、コヨーテが乳幼児の頬に食いついて、そのまま咥えて行こうとしたらしい。母親が気づいて大声を上げながらコヨーテに突進したら、コヨーテは赤ちゃんを置いて逃げたということだ。幸い赤ちゃんは頬に怪我をしただけで助かったということだった。
メイがいなくなってから、お母さんはすっかり気落ちしてしまったようだが、他の犬猫たちが再び襲われないように、用心するようになった。と言っても、猫は自由に外を出歩くので、暫くは家に閉じ込めて外に出さなくしてしまった。
それから一~二ヵ月後に、S姉ちゃんが、アパートに住む友達が飼っている黒猫を貰ってくれないかと頼まれてお母さんに相談に来た。大きな黒猫で名前をピンキーと付けられていた。お母さんもこの友達の家に行ったことがあるのでピンキーのことは良く知っていた。丁度、メイを亡くして淋しがっていた頃なので、「神様がメイの生き返りとして下さったんだ」と自分勝手の理屈をつけて、大喜びで引き取ることにした。幸い、うるさいお父さんは日本にいるので、次にお父さんが来たときは後の祭りさ、とお母さんはタカをくくっていた。
こうして五匹の猫が四匹になったと思ったら、再び五匹になっていた。ピンキーが家に来たとき、雌猫たちは知らん顔をしていたが、あのおとなしいダニが大きなピンキーを盛んに追い掛け回して、威嚇していた。家には雄猫は自分だけだという自覚があったのか、また、ピンキーが大きな雄猫だったこともあるようだ。
やがてピンキーも外に出るようになって、他の猫とも仲良くなっていった。当初は僕たち犬を見るとビビッて家の中に逃げ込んでいたが、他の猫が平気な顔をして僕たちに近づいているのを見て安心したのか、僕たちと仲良くなるのにもそんなに時間は掛からなかった。ピンキーが庭を走り回っている姿を見て、お母さんは言ったもんだ。
「ピンキーはずっとアパートの狭い室内で生きてきたから、広々とした外で遊ぶのが嬉しいんだよね。本当に良かったね」
ダニ、ジュリー、ハナ、そしてニャンちゃんは相変わらずだったが、最近ニャンチャンが元気がないのが気にかかる。
S姉ちゃんは相変わらず忙しい。よく分からないが、電話会社で働いていると言っていた。毎朝慌しくAちゃんを連れて出て行き、夕方同じ時間に帰ってくる。最近、夫婦仲は完全に元に戻ったらしく、E兄ちゃんは仕事の帰りにこの家にやってきて、食事をして、そして寝る前に自分のアパートに戻ってゆく。アパートに帰るときは何となく淋しそうな後姿が可哀想だ。
Aちゃんは日に日に大きくなって、またどんどん賢くなっていくように見える。両親とババに囲まれてすくすく育っていくようだ。お母さんは「お婆ちゃん」と呼ばれるのが嫌いだった。S姉ちゃんがいつも「おかあさん」と呼ぶので、Aちゃんはいつしか、同じように「おかあさん」と呼ぶようになっていた。自分の母親に対しては「マミィー」と呼んでいる。そのせいかお父さんのことも「おとうさん」と呼び、父親の事を「ダディー」と呼んでいる。
後の事になるが、幼稚園に行きだしたころ、Aちゃんがお父さんに聞いた。
「Are you my grandpa?」
この頃になるとAちゃんの会話は殆ど英語で、日本語は聞いて理解は出来るが、日本語で話しかけても返事はいつも英語になっていた。お父さんが「Yes」と答えると、Aちゃんは嬉しそうな顔をして、ソファの上で寝ていたお父さんの上によじ登ってきたそうだ。幼稚園では「私にはお爺ちゃんがいるのよ」と友達に自慢していたらしい。
別居を始めて既に一年以上、S姉ちゃんは何も言わないけど、そろそろE兄ちゃんのところに戻って、家族三人で暮らしたいなと思っているに違いないと、お母さんは感じていた。そこでお父さんが来たとき、お父さんと相談した。
「S子もそろそろEに返したらどうかな」
「そうなるとおまえは一人暮らしになるぞ」
「わたしは構わないわよ」
そこでお父さんが言った。
「S子の問題は解決したのだから、そろそろ日本に帰ったらどうかな」
「・・・・」
お母さんは暫く黙っていたが、やがてお父さんに言った。
「日本に帰るのは無理なのよ」
今度はお父さんが黙ったままお母さんの顔を見つめている。そこでお母さんは、動物の日本への入国時の検疫のことを説明し、動物を日本に連れて帰るのは至難の業だと説明した。そして、自分はアメリカに永住したいのだと宣言した。そしてお父さんがアメリカに来なさいと説得を始めた。お父さんは困った顔をして、黙っていたそうだ。今の会社は定年制がないので、お父さんが望めば何歳までも働ける。前任者は72歳で会社を辞めた。アメリカに来るには今の会社を辞めなければならない。
お父さんは日本に帰ってからいろいろ検討を始めた。お母さんの言うように、動物を日本に連れて帰るのは大変だ。成田空港で三週間の観察期間留め置かれ、一日一匹につき三千円の費用がかかる。八匹で一日二万四千円、三週間で総計五十万円也だ。それ以外に輸送費が二十四万円。毎日成田空港まで動物に会いに行くのも大変だし、行かなければ動物たちが気がおかしくなったという事例も聞いた。(注)(2005年に法改正により、ペットの検疫制度が大幅に変更になった。)
お母さんの決意は並大抵のものではないなぁ~ いくら説得しても「うん」とは言わないだろうなァ~ 仕方ないから、お父さんは夫婦でアメリカに住んだ場合の検討を徹底して実施したらしい。生活の経費はいくらか、家は買えるのか、友達は出来るのか等々である。幸いロサンゼルスには会社時代の同僚が日本人を含め大勢住んでいる。何とかなりそうだ。お父さんはやっとアメリカ移住の結論を出した。
(注) 2004年の法改正による動物の日本への輸入について、簡単に箇条書きにします。
日本にペット(犬猫)を輸入する場合は、次の措置が必要である。
1. ペットには規則に定めるチップを埋め込むこと
2. 不活性ワクチンによる狂犬病予防注射を二回実施すること(二回目は一ヶ月後に実施)
3. 採取した血液を検査機関(米国には二箇所)に送って、狂犬病にかかっていないという証明書を発行してもらうこと。(帰国は血液採取後百八
十日後から二年以内)
4. 帰国四十日前までに「入国届出書」を日本の検疫所へ提出し、「届出受理書」の交付を受ける。
5. 輸出国の政府機関の証明書の取得
6. 寄生虫の駆除と出国前の臨床検査
7. 日本到着時の検査(書類が整っていれば、すぐに入国できる)
これらの手続き開始は、少なくとも帰国の八~九ヶ月前から実施する必要がある。
S姉ちゃんは、早速両親を呼び寄せるためのグリーンカード申請について調べ始めた。お父さんもインターネットで米政府のホームページにアクセスして、移民に関する規則をダウンロードして、帰化申請手続きを調べ始めた。
S姉ちゃんが調べたところでは、帰化申請をする人たちは、殆どがアメリカの弁護士に依頼するらしい。しかし、アメリカの弁護士の費用は高く、S姉ちゃんの知り合いの人は50万円取られたと言っているそうだ。けちなお父さんに言わせると、「50万円なんてとんでもない」と言うことだったらしい。
英語の申請書類をインターネットでダウンロードして、お父さんとS姉ちゃんの二人で相談しながら書いていったら意外と簡単なものであった。もちろん、規則も説明も全部英語であったが、お父さんに言わせると英会話よりも読み書きの方が易しいということだった。お父さんの場合は、日本からの申請なので割りと簡単な手続きだったらしいが、お母さんは既に学生としてアメリカに住んでいるため、在留ビザの変更となり、かなり煩雑な手続きが必要だった。お母さんの手続きにはS姉ちゃんが頑張って調べた。そして、二人でお父さんとお母さんの移民申請書を完成させた。
S姉ちゃんはちょっと心配だからと、弁護士に150ドル支払って、この書類をチェックしてもらったそうだが、ほんの二十分くらいで百五十ドルとは高いとぶつぶつ言っていた。兎にも角にも、お父さんとお母さんの移民申請書を無事ロサンゼルスの移民局に郵送したそうだ。そして2週間後に移民局から申請書の申請を受理したとの通知を受けたらしい。
移民申請も終了して、我が家の方向が決まったところで、お父さんがS姉ちゃんに「亭主のところに戻れ」と指示した。S姉ちゃんは大喜びで、E兄ちゃんと相談して、お母さんの借家に程近いアパートを探して引っ越してきた。ここならお母さんに何かあれば車で一-二分で駆けつけることが出来る。アパートはそれほど広いとは言えないが、にほんならマンションと言われるほどの広さは十分にある2LDKの部屋であった。
アパートに住むようになったとは言え、S姉ちゃんは仕事が終わると今までどおり、お母さんの家にまっすぐ帰ってきた。E兄ちゃんの帰りは遅いので、お母さんのところで夕食を食べ、E兄ちゃんの食事を持って帰って行くという毎日であった。勿論、土日にはアパートで自分の手料理を作っていることは言うまでもないが。
移民申請書を提出してから数ヶ月で、お母さんに労働許可証が交付された。永住許可はまだ先になるということであったが、アメリカで生活する上においては何の問題もなくなった。カレッジの方も大方終了しているので、お母さんは早速働こうとと思ったらしい。自分が働けば少しでもお父さんの仕送りが楽になるだろうとの思いがあったからだ。そして程なく仕事を見つけて働き出したのだった。
お母さんが仕事を始めたので、僕たちの面倒見が少々悪くなったが、それでもきっちり朝夕の食事は食べさしてくれたし、夜の散歩は、暗くなってから行くことが多かったけれど、それでも朝夕の散歩は欠かさず連れて行ってくれた。
のんびりした学校生活とは大違いで、週二日の休みの日を除いて、朝から晩までお母さんは忙しそうにしていた。働くということは大変なことだなぁーと僕たちもお母さんが気の毒になってきた。しかし、お母さんはアメリカに住んでいるという実感があって、毎日が楽しそうで、僕らの心配をよそに張り切って生活をしているようだった。
あっという間に毎日が過ぎてゆく。何の問題もなく、何の支障もない生活であったが、ある日、お母さんが歯に痛みを感じて、日本のお父さんと電話で話していた。
歯医者に行けとのお父さんの助言で、お母さんは翌日歯医者に行った。虫歯が相当進行しているらしく、そのまま治療するのが難しく、二本の歯について、よく分からないが、インプラントが必要だということらしい。近くの歯医者で見積もってもらったら、四十五万円くらいかかるとのこと。お母さんがびっくりして大学病院に行けば腕もよく安いとの話を聞いて、南カリフォルニア大学(USC)の歯科に通院した。結果、歯を全部治すのに七千二百ドル、この当時の為替レートで九十二万円の請求だった。お父さんにすぐ電話したが、お父さんは電話の向こうで絶句していたらしい。
後の話になるが、お父さんは、お母さんはまだ日本の健康保険に入っているので、手続をすれば還付してもらえるとの話を聞いた。お父さんは早速社会保険庁に連絡して、還付の手続きをとったそうだ。ところが結論は三万七千円の還付だったそうだ。殆どの項目が日本の健康保険の適用除外ということであったらしい。
「馬鹿にするな!」
とお父さんは怒っていたらしい。九十二万円の還付申請に対して四万円弱の還付とは、お父さんでなくても怒りたくなるよなぁー
お父さんの話では、アメリカには日本のような政府管轄の健康保険制度は六十五歳以上の人にしかなく、それ以下の人は保険会社の健康保険に入ることになるらしい。年齢が高くなるにしたがって高くなるそうで、アメリカ国民の四十%の人は健康保険に入っていないという。勿論、ちゃんとした会社は健康保険への補助を出しているが、小さな会社で働く人やパートの人はすべてが自己負担になるので、結局健康保険に加入していない人が多くなるらしい。ヒスパニック等南米等からの移民は殆どが低所得層なので、健康保険に入っている人はまず居ないということである。
このような人はどうするかというと、病気になったら生活保護者になって、無料の医療を受けられるらしいが、心あるアメリカ人は税金を節約する意味でも、抜本的な検討を望んでいる。
健康保険でもう一つの問題は、いわゆる医療保険と歯科の保険は別であることである。しかも歯科の保険は最高五十%の保証しかないのが普通である。従ってちょっとした歯の治療に数万円、どうかするとそれ以上の費用がかかるのは、アメリカでは常識なんだそうだ。
政府管轄の医療保険は六十五歳以上のアメリカ市民およびアメリカに五年以上住んだ永住者等が加入できる。ただし、税金を十年以上納めていないと、保険料はかなり高くなる。お父さんの場合みたいに外国からの永住者で、アメリカで税金(所得税)を払っていない人は月に一人三百七十ドル払う必要があるとのことで、お父さんはあきれていた。
僕ら犬族には少々難しい話になったが、要するに、アメリカに移住しようとすれば高額医療費と高額健康保険の問題を避けては通れないということだそうだ。
それからまた平凡な日々が続いた。そんなある夜、お母さんは夜遅くなってもジュリーが帰っていないのに気が付いて、窓からさかんにジュリーの名前を呼んだが、ジュリーは一向に帰ってこない。もう夜の十一時を過ぎているというのに、お母さんは僕たちを散歩に連れ出してジュリーを探しに出かけた。しかしジュリーはどこにもいなかった。お母さんは心配そうな顔をしながら言った。
「ジュリーはいつもおそいからねぇー・・・ その内に帰って来るよね」
お母さんは、その夜は裏口を少し開けて寝たみたいだが、ジュリーはとうとう朝まで帰ってこなかった。お母さんは心配して、朝の散歩でもジュリーの名前を呼びながらの散歩となった。しかし、その夜もジュリーは帰ってこなかった。そして1週間経っても帰って来なかった。
お母さんは日本に電話して、この件をお父さんに報告した。
「もう一週間以上も帰ってこないから、ジュリーもコヨーテにやられたのかもしれない」
報告を受けたお父さんは、
「猫は家にじっとしていないからなぁー お母さんのせいではないから もしやられたとしても仕方ないよ」
と盛んにお母さんを慰めていたようだった。お母さんもすっかり気落ちして、ジュリーの毛を少し取っておけば良かったなどと言いながら、棚の上のメイの写真に並べてジュリーの写真を置いた。
お母さんもすっかり諦めた18日目の夜だった。机に向かっていたお母さんがジュリーの鳴き声を聞いたような気がしたので、急いで猫が出入りする裏口に行くと扉の外にジュリーが座っていた。それも泥で真っ黒に汚れて。
お母さんは急いで扉を開けてジュリーを抱き上げると、大喜びで汚れて汚いジュリーに頬摺りした。
「ジュリー、ジュリー、ジュリー」
お母さんは大きな声でジュリーの名前を呼びながら喜んだ。その夜のお母さんは大変だった。まずジュリーの体をお風呂で洗って、思い切りのご馳走を食べさせてから、S姉ちゃんやお父さんに電話を掛けまくって、大きな声でジュリーが帰ってきたことを報告していた。お母さんの話では、ジュリーはどこかの家に捕らえられて逃げて来れなかったに違いないということだった。そうでなければ、18日間も何も食べずに生きれるわけはない、とお母さんは言った。
ジュリーの大騒ぎが解決したら、今度はニャンちゃんの番だった。ニャンちゃんは日本にいるときから病気がちで元気がなかったが、最近とみに元気がない。そしてある日、眠るように天国に逝った。
この家での猫を飼うきっかけを作ったのはニャンちゃんであった。自動車にはねられて国道脇で苦しんでいたのをY姉ちゃんとお母さんが助けて十数年、控えめの性格でいつも部屋の隅にいたが、それでも立派に我が家の一員であった。お母さんは涙を流しながらニャンちゃんを撫ぜていた。
翌々日、S姉ちゃんが調べてくれたペットの霊園に連れて行き、火葬に付した。アメリカには沢山のペットの霊園や火葬場があり、動物の大きさに従って決められた料金で死んだペットを火葬し粉にして渡してくれる。骨壷やお墓もいろいろのものがあり、高いものは何万円もする、ペットの名前や写真を刻み込んだ立派なものもあった。
思えば、十数年前に国道で死んでいたはずのニャンちゃんが、ここロサンゼルスまで来ての大往生である。ニャンちゃんもきっと満足しているだろうとお母さんは、自らに言い聞かせているようだった。こうしてニャンちゃんのお骨はメイの写真と並べられて、棚の上に納められた。
これで猫は4匹になったと思ったら、次にお父さんがロサンゼルスに来たとき、また一匹増えて5匹になっていた。お父さんがあきれて問い詰めると、
「だって仕方ないでしょう!」
とお母さんが突っかかってきた。よく聞くと、裏の家が引越ししたとき置いていかれた猫だと言うのだ。裏の家からよくうちに庭に遊びに来ていた猫だけど裏の家が引っ越した後に一匹取り残されていたというのだ。お父さんも仕方ないと思ったのか、黙って聞いていた。
こうして猫族は再び5匹となり、この猫は12月に来たから、「デル」と名づけられた。
お母さんのアメリカ生活もすっかり慣れて、仕事に遊びにと張り切って楽しく過ごしていた。ただ、心配なのはミーが最近元気がないことであった。動物病院で薬をもらったりしているが、前みたいに元気に走り回ることもなくなった。ミーの年齢も十五歳になったから、人間で言うと結構な年なのかもしれない。
お父さんは相変わらず日本とアメリカの間を行ったり来たりしているが、永住申請を出して6ヵ月後には、移民局からS姉ちゃんに父親の永住が許可された旨の連絡があった。アメリカのビザセンターから連絡が行ったら、永住ビザ(グリーンカード)取得のための手続きを実施しなさいというものであった。
「え? もう来たの?もっとゆっくりでいいのに」
お姉ちゃんから連絡を受けたお父さんはブツブツ言っていたらしい。
それからまもなくグリーンカードを交付されるに必要な手続きを書いた書類が、お父さんに送られてきたそうだ。
まず、この手続きを誰が進めるのかを決めて知らせなさいと言って来た。誰がしてもいいが、普通は、本人か、親を呼び寄せるS姉ちゃんかまたは弁護士等の代理人ということになる。お父さんは本人が実施するという回答を郵便で送った。
次に、最初の永住申請のときに書いたような内容の申請書を別フォームで書かされ、事務処理の費用三百三十ドルと併せて送りなさいと来たので、指示された書類と郵便為替を送ったそうだ。
これらのやり取りで数ヶ月が過ぎたが、十一月に入ってから日本にあるアメリカ大使館で面接をするとの連絡が来た。それによると、パスポート、戸籍謄本(英訳付)、警察の無犯罪証明書、軍務記録、写真、健康診断書(指定された病院に限る)を準備して、十二月一日の指定時間にアメリカ大使館に出頭しなさいと来たそうだ。最初に申請を出した昨年の八月から既に一年二ヶ月を過ぎていた。お父さんは別に急ぐわけではないので、のんびりと手続きを進めていたが、「思ったより早いなぁ~」とびっくりしていたそうだ。
指定された書類を集めるのは一~二週間しかかからなかった。やがて十二月一日になって、赤坂のお父さんの会社の事務所から歩いて五分のところにあるアメリカ大使館へ書類を持って出向いた。お父さんはアメリカの会社で働いているので、何度も調整のために中に入ったことがあったが、今回はグリーンカードの面接ということで、ゲートの前の二~三十人の列に並ばされた。指定された時間が来ると、その列は係の人に案内されてゲートを入ってすぐ横の事務所に入った。まるで運転免許の手続きで行く運転免許センターみたいだなとお父さんは思ったそうだ。
書類を窓口で提出して三十分ほど待たされて呼び出しがあり窓口に行くと、アメリカ人の大使館員から質問が二~三あり、それにたどたどしい英語で答えると、大使館員は、
「午後四時からビザを交付します。ここで待ちますか、それとも出直しますか」
と言ったそうだ。お父さんは大体何を言っているのか理解できたが、まさか今日ビザをもらえると思っていなかったので、確認したいと思って、厚かましくも言った。
「日本語で言ってください」
すると大使館員はにこりと微笑むと
「午後4時からビザの書類をお渡しします」
と流暢な日本語で答え、細部を説明してくれたそうだ。お父さんは腹の中で「そんなに日本語が巧いんなら、初めから日本語で言え! アホ!!」と言っていたらしい。お父さんは英語はあまり得意ではない、特にヒヤリングは最低だと自分で言っているくらいだから、英語の説明を聞き漏らすまいと必死で聞いていたんだそうだ。そりゃ~ 一言文句を言いたくもなるよなぁ~
そして午後四時、窓口に呼ばれて行くとさっきの大使館員がにこやかに笑いながら「おめでとう!」と言って、右手を挙げろという。右手を挙げると大使館員が言う言葉を鸚鵡返しに繰り返しながら宣誓をやらされたそうだ。そして、分厚い封筒を渡しながら、
「一年以内にアメリカに入国してください。最初の入国の時点から貴方はアメリカの永住者となります。」
と言ってくれたそうだ。
こうして、お父さんは望むと望まぬとに関わらず、アメリカの永住権を貰ってしまったのだった。最初の申請から一年四ヶ月後のことであった。(注)
お母さんの方は、面接はあったらしいが後はなしのつぶてで、移民局からは何の連絡もないと嘆いていた。今のままでも、アメリカで働いて住むには何の問題もないので、その内に来るだろうと、と自分を慰めていたそうだ。
(注) アメリカ合衆国永住権取得までの流れ
2002年08月12日 両親の永住権申請(母親のビザ変更、労働許可申請含む)
10月15日 母親の労働許可の交付
2003年02月21日 父親の永住権承認、永住ビザ交付のための手続き開始
(母親のビザ変更には数年が必要とのこと)
12月01日 父親日本のアメリカ大使館で面接、永住ビザを交付
12月18日 父親アメリカ入国と同時に永住権が有効となる
2004年01月15日 父親正規のグリーンカードを受領
10月 母親に永住許可下りる(ジョージア州に移動後)
*カリフォルニア州は移民申請が一番多く、アメリカ国内から申請した場合、4ー5年かかるのは常識だそうだ。ジョージア州では可及的速やかに交付される。
十二月十八日、お父さんは年末休暇を取ってロスに向かった。永住権は貰ったが、本式にアメリカに移住するのは、半年に一度アメリカに入国していれば何時になっても構わない。お父さんの思惑では夏ごろ会社を辞めて移住しようと考えていた。
アメリカの会社は年末は二十日前後から休暇を取る人が多く、大きな会社は開店休業の様相を呈するのが普通だそうだ。その代わり、新年は二日から普通どおりに仕事が始まるそうだ。お父さんも例にもれず二週間の休暇を取って、お母さんのいるロサンゼルスで年末休暇を過ごそうというわけだ。
ロサンゼルス空港はアメリカの航空会社を除く国際線はすべて第四ターミナル(トムブラッドリー)に到着するが、その混雑振りは有名だそうだ。お父さんもいつも三十分~一時間並ばされるのはいつものことだとぼやいていた。
しかし、今回は、永住権を貰ってから最初の入国だったので、入国審査をどこで受けてよいのか分からない。少なくともいつもの外国人の通路ではないはずだ。父さんはそう思ってアメリカ人専用のレーンに並んだ。そうしたら女の係官が寄ってきて、「アメリカ人か?」と聞く、お父さんは貰ってきた書類の袋を見せた。係官はすぐに分かったらしく、一番右のレーンで係官が来るのを待てと言う。まだ七時半だったから係官は出勤していないと言うのだ。
結局一時間待たされて、係官殿がご出勤あそばしたそうだ。アメリカ大使館から貰ってきた書類を見せると、係官殿は一枚一枚丁寧に調べていたが十分ほどで完了した。そしてパスポートにアメリカ合衆国の永住者であると書かれた赤いスタンプを押してくれた。正式なグリンカードは二~三週間ほどかかるが、どこに送るのかと聞くので、お母さんの住所を言うと、書類の住所と照らし合わせて確認していたが、「OK」と言ってパスポートを返してくれた。お父さんは、きわめて簡単に正式なアメリカの永住者になってしまった訳だ。以降お父さんはアメリカでの入国審査はアメリカ人の通路を通るようになったので、入国審査はきわめて簡単になったそうだ。
お父さんが、出迎えのお母さんの車で家に到着したとき、僕たちは例のとおり大きな声で吠えながら思い切りシッポを振って出迎えた。
今回のお父さんのアメリカ滞在中に二つやることがあった。一つは社会保障番号(SSN)を貰うこと。アメリカではこれがないと誰も相手にしてくれない。何かを登録しようとすれば、必ずSSNがないと登録できない。いわゆるアメリカで住む人の背番号だ。ロス到着の二~三日後に、近くの社会保険庁事務所に出向いて、グリーンカード番号を言ったら、すぐ登録されたSSNをもらうことが出来たそうだ。
二つ目は自動車の運転免許だ。アメリカでは本人の識別のために運転免許証が使われる。そのため、老人で運転しない人にもDMV(Department of Motor Vehicle)で運転免許と同じIDカードを発行してくれる。お父さんの場合も、お母さんの場合と同じく日本の国際免許を持っているので、変な話だが、自分で車を運転してDMVに出向いて免許試験を受けることになる。
試験を受ける日、仕事の出張でアメリカ中で運転の経験のあるお父さんは、
「俺が合格しなくて、誰が受かるんだ!」
と高笑いを残して出かけていった。そして2~3時間後、しょんぼりして帰ってきた。お母さんが
「どうしたの?」
と聞くと
「落ちた!」
お母さんが聞いた話では、状況は次のとおりであったらしい。
筆記試験はまったく問題なかった。日本語での試験だから、前もって試験問題集で練習していたので、極めて簡単だったそうだ。そして実地試験、試験官が車に乗り込んできて、お父さんは自信満々で発進した。住宅街を通り、主要道路に出た。お父さんはいつも通りに楽々と運転して流れに沿って走った。全く危なげはなかったそうだ。すると試験官が突然
「次の交差点で左に曲がって、出発点に戻りなさい」
と、恐い顔をして言ったそうだ。お父さんは、まだ試験が終わっていないのにどうして、と思わず試験官の顔を見た。試験官は厳しい顔をして黙っている。出発点に戻ったとき試験官が言った。
「君は三十五マイルのところを五十マイルで走った!スピード違反だ!」
お父さんはこれが運転試験だったことをうかつにも意識の端に追いやってしまっていたのだ。主要道路では、殆どの車が十~15マイルオーバーで走っているので、いつもの癖が出て流れに乗って走ってしまったのだ。
後で、お父さんは僕たちの顔を見ながら呟いたもんだ。
「馴れほど恐いものはないぞ!」
お母さんは、お父さんの話を聞いて大笑いに笑い転げていたが、お父さんはむすっとした顔で何も言わなかった。
今回の滞在中は予約が取れなくて、次にアメリカに来る時に取ることにして、お父さんはしょんぼりして日本に帰った。
勿論、次回の運転免許の試験ではスピードをしっかり守って、基本に忠実に運転したそうで、何の問題なく合格することが出来たそうだ。
(注)日本には外国で免許を取ってくると、日本の免許に切り替えることが出来る制度があるが、アメリカにはこの制度はない。アメリカの免許を持つためには、必ず運転免許試験を受けなければならない。自動車学校はあることはあるが、自動車学校で運転免許試験をする制度もない。後は殆ど日本と同じで、州外へ引越しをすると免許を書き換えなければならない。