お母さんの巣立ち
5 お母さんの巣立ち
S姉ちゃんはロサンゼルスのサンタモニカでE兄ちゃんとその母親と一緒に暮らし始めた。一見、幸せそうな結婚生活ではあったが、例に洩れず母親との間がしっくりいかない、いわゆる姑と嫁の間におこる世間一般の問題であった。母親は、40年前に、今はもう他界した二世の父親が日本に嫁探しに出かけて結婚した相手で、その当時の日本の感覚のまま渡米した人だったから、昔の日本の姑の感覚そのものであった。家の事はすべて母親が取り仕切る、嫁の行動の細かいところまで指示をする始末。親とは同居しないのが当たり前になった現代日本の中で育ったS姉ちゃんと巧く行くわけがない。半年くらいはS姉ちゃんも何とか我慢していたが、それでも時々電話でお母さんに愚痴をこぼしていたらしい。
それを聞いたお父さんは、出張の途中ロサンゼルスに立ち寄ってS姉ちゃんに直接話を聞いた。そしてE兄ちゃんに家を出て夫婦でアパートで暮らすように助言したが、のらりくらりとはっきりした返事をしない。このままではやがてはS姉ちゃんと離婚する破目になるぞ、お腹にいる赤ちゃんのためにも離婚をしてはいけないと脅して、やっと母親を含めた四人で食事をしながら話し合いを持ったそうだ。
最初は楽しい語らいをしていたが、お父さんが母親に「若い二人だから、暫く夫婦だけでアパート暮らしをさせたらどうでしょう」と持ちかけたら、母親は怒ってしまって、物も言わずに家に帰ってしまったとの事であった。お父さんは仕方ないから、E兄ちゃんに「夫婦が巧くやっていくためには、母親と別居するしか方法はない」と強く言ってから日本に帰ってきたそうだ。
その後、ロサンゼルスではS姉ちゃんと母親の間はさらに関係が悪化してしまったらしい。S姉ちゃんが、自分一人でも家を出ると言い出すに至って、E兄ちゃんもやっと決心してアパートに出ることになったらしい。S姉ちゃんによると、この話が出てからは母親からかなり酷い仕打ちをされたらしい。そして大喧嘩をしながらやっと母親の家から脱出したとのことであった。ともあれ夫婦だけの生活が始まってからS姉ちゃんからは、アメリカ生活を楽しんでいるとの楽しい電話がお母さんに掛かるようになってきたそうだ。
数ヶ月は新婚の楽しい生活が続いた。やがてS姉ちゃんが可愛い女の子を生んで、楽しい夫婦生活がこのまま続くのかと思われた。しかしそれも長くは続かなかった。今度はE兄ちゃんがおかしくなってきたらしい。元々マザコンの気配のあるE兄ちゃんは母親と嫁の間に挟まって悩んでいたらしいが、それに加えて昔の彼女とのややこしい話がS姉ちゃんにばれて、今度はS姉ちゃんが怒り出す始末。E兄ちゃんの精神状態がおかしくなって、家にも帰ってこないようになったそうだ。
S姉ちゃんも悩んだ末に、子供を連れて女友達のところに転がり込んだとの報告がお父さんに届いた。お父さんとお母さんも大いに心配して、いろいろ話し合ったそうだ。その時の会話。
「おまえ、ロスに行ってS子の面倒を見てくれないか」
「2~3ヶ月じゃ、面倒は見きれないわよ、ビザはどうするの?」
「うん、学校に入学すれば学生ビザで入れるだろう」
「ペットたちはどうするの?」
「うん、置いて行かれると俺が仕事に行けない、やっぱり無理かな?」
「ペットたちは私が連れてゆくわ」
「8匹も連れてゆける訳がないだろう?」
「いいや、必ず方法はある!」
お母さんは元々アメリカに住むことを夢見ていた人である。お父さんも馬鹿なことを言ったもんだ。その日からお母さんがペットをアメリカに連れて行く方策を猛然と調べ始めた。
お母さんはお父さんに対する態度とは大いに違って、僕たちに「おまえたちも全部アメリカに連れてゆくからね」とニコニコしながら言ったもんだ。 え? アメリカ? アメリカってどこだ? 埼玉の外なの? 僕たちはああでもない、こうでもないと想像をしながら、S姉ちゃんのお陰で僕たちまでえらいことになったもんだと思った。
それから1週間というものは、お母さんは電話をかけまくって動物をアメリカに連れて行く方法を調べていた。そして1週間後、お母さんはニコニコしながらお父さんに報告した。
「お父さん、OKよ」
「え? 全部連れて行けるのか?」
お父さんはびっくりしてお母さんの顔を見つめた。お母さんの説明によると、犬と猫については狂犬病等の予防接種を受けた証明書を持参すれば、アメリカ入国は大丈夫とのこと。輸送については、殆どの航空会社は2匹までとの制限があったが、日本航空は何匹でもOK、猫は二匹を一篭に入れても良いとの事。ただし、輸送費は一篭につき四万円とのことであったらしい。
お父さんはお母さんの行動力に感心して唸ったが、後で聞いた話だが、お母さんはアメリカから日本への帰国についての手続きはお父さんに報告しなかったらしい。今は法律の改正になって、面倒くさい一年がかりの手続きをしっかり整えれば帰国は難しくはなくなっているが、当時は日本到着時に3週間以上空港に拘束されて経過観察を受ける必要があった。一日一匹3000円の経費がかかるそうだが、それよりも拘束される犬猫が精神的におかしくなる例が多かったそうだ。アメリカ永住を希望するお母さんにとっては、帰国の話なんかどうでも良かったというのが真相らしい。
ペットの輸送費がしめて二十四万円、お父さんは唸ったが可愛い娘が不幸にならないように母親が渡米して面倒を見てくれれば安心だ。お父さんは頭の中で「二十四万円・・・二十四万円・・・」と呟きながら即座にOKを出したそうだ。
お母さんの学生ビザの申請はお父さんの担当だ。お父さんは娘たちをアメリカの大学の語学コース留学のための手続きを十回以上やっているので手馴れたものだった。まず、入学する学校の選定にかかる。本屋から地球の歩き方の「米国留学編」を買ってきて選定に掛かった。条件は授業料が安くて、安全な場所ということになる。そしてお父さんが仕事でロサンゼルスに行った時、何度かプレイしたことのるゴルフ場のあるサンタ・クラリータという、ロサンゼルスの北の郊外にあるところの大学に決定した。
入学の手続きは簡単だった。まず電話で入学が可能かどうかを確認し、メールアドレスを教えてもらって、以降はメールでの調整になった。必要な個人情報を送り、学校が連絡してくれた入学金を送金するとすぐに「I-20」とかいう入学許可書が送られてきた。
この証明書とパスポートを同封して、銀行口座の残高等の必要書類を添えてアメリカ大使館に郵送したら3週間ほどで学生ビザを押印したパスポートを送り返してきた。後は航空券の予約だけだ。
この頃になると、お母さんが渡米した後のお父さんの面倒を見るためとの理由で、H姉ちゃん夫婦が僕たちの家に引っ越してきた。お父さんは、S姉ちゃんの問題が片付いたらお母さんは日本に帰ってくるものと思い込んでいた。お母さんが帰ってくるまでの数年間をH姉ちゃん夫婦と同居することに同意したのであった。
Y姉ちゃんは、スペインと日本を行ったり来たりしていたが、向こうの両親にも認められてD兄ちゃんと婚約していた。スペインの両親は衣料関係の会社を経営していて、工場を五つも持っている結構な金持ちであったが、D兄ちゃんはそんな会社経営はしたくないと言い張って、大学院に進んで勉強をしているとのことである。Y姉ちゃんは、お母さんが出発する頃には、会社を辞めて、殆どスペインに行っている状況であった。スペイン語学校に入学して、スペイン語の勉強をしているとの事である。
「将来のダンナをコントロースするにはスペイン語がペラペラにならなきゃね!」
と豪語しているらしい。
出発は家族全員が見送りに行ける日にしなければならない。ゴールデンウィークの後半のこどもの日の日本航空の申し込みをしたところ、意外と空席が多くて、簡単に予約が出来たそうだ。
出発の前の日はアメリカにいるS姉ちゃんとスペインにいるY姉ちゃんを除く家族全員が集まって、お母さんの送別会を催した。当然一緒に行く僕たちも送別の宴に加えられたのは言うまでもない。
「ガス、おまえ、英語が出来るのか? 向こうへ行ったら犬も英語で話すんだぞ!」
M兄ちゃんがニヤニヤしながら僕に言った。え?英語? 僕、英語なんて習ったことはないよ、どうしよう。僕がまごまごしていると、
「ま、何とかなるよ、心配するな!」
M兄ちゃんは僕を散々脅しといて、慰めるように言ってくれたが、本当に僕たちはどうなるんだろう・・・
いよいよ出発の朝がやってきた。僕とミーおよびジュンの犬たちは一匹づつそれぞれの篭に入れられた。五匹の猫たちは、年長で体の弱いニャンは一匹で、メスのジュリーとハナ、オスのメイとダニがそれぞれ同じ篭に入れられた。お母さんによると途中で喧嘩をしないように、それぞれの性格を考えて、部屋割りならぬ篭割りを決めたのだそうだ。お父さんによると、今から出発まで四時間、飛行機が九時間、飛行機を下りて借家まで四時間くらいは掛かると思われるので、合計十七時間は、検疫所を除いて、籠から出られないということだ。随分長いなぁ~
玄関の前にお父さんの車、H姉ちゃん夫婦の車、M兄ちゃん一家の車が並べられ、篭が二つづつそれぞれの車に積み込まれた。犬たちも、猫たちもみんな不安な顔をしている。犬ではジュンがヒーヒー泣いているし、猫ではジュリーがニャオニャオ騒いでいる。勿論、僕も不安であったが、そこは名誉あるオスの柴犬、泣き出す訳にはいかなかった。
お父さんの車を先頭に三台の車で出発した。成田空港まで利根川沿いの農道を通って、約二時間のドライブだ。お母さんの配慮で途中利根川の川原でトイレタイムを取ってくれたので、犬たちは川原の電柱にシッコをかけて安心したのか、皆落ち着いた顔に戻っていた。しかし、猫たちはどこに行くか分からないとの事で、検疫所を除いては、目的地のロサンゼルスまで篭から出さないことになっているそうだ。
トイレタイムを取ったので、家を出発して二時間半後に成田空港に到着した。まづは検疫を受けるとの事で、僕たちはお母さんたち家族に連れられて第二ターミナルの六階にある検疫所に連れて行かれた。お父さんは出発カウンターでチェックインの手続きをするとのことで、検疫所に来なかったので僕は少々不安だった。
検疫所ではまず書類審査があってから、一匹づつ全身を丹念に調べられた。僕は見ず知らずの他人に体を触りまくられるのは嫌だったが、お母さんが睨んでいるので騒ぐわけにもいかないのでおとなしくしていた。猫たちはギャーギャー騒いでいるようだった。
係りの人が怖い顔をして、帰りに日本に入国するのが如何に大変かをお母さんに説明している。お母さんは「ハイハイ」と頷いてはいるが、その表情は「どうでも良いや」と言っているようだった。だってお母さんは帰る気はないと言っているんだもの。
僕たちにとっては拷問のような検疫がやっと終わって、再び籠に入れられて、やっと出発ロビーに下りてきた。チェックインカウンターの前に六篭を並べられて、お父さんとお母さんが出発のためのチェックインの手続きを始めた。僕たちの篭の周りには沢山の人が集まって、「まあ、可愛い!」などと言って覗き込んでいる。おい、おい、おい、僕たちは見世物ではないんだぞ、全く! お母さんに聞いた話では、犬三匹、猫五匹のこんな沢山の犬猫を連れてアメリカに出発し人は、日本航空では初めてだと言われたらしい。
やがてチェックインが終わって、お父さんが航空会社の人と一緒にやってきて、僕たちの篭を指さしていた。お父さんの「よろしくお願いします」の声が聞こえて、僕たちの篭は手押車に積み上げられた。係りの人が手押し車を押し出すと、僕は一生懸命篭の隙間からお父さんの姿を見つめていた。やがてお父さんの姿が見えなくなって不安になり、細い声を出して泣いてしまった。
その後、どこをどう連れて行かれたのか、篭の中で不安に駆られて小さくなっていたので分からなかったが、気がついたらお父さんが言っていた「飛行機」と言う奴の横にいた。初めて見るが大きな鉄の塊みたいだ。本当にこれが飛ぶのだろうか。僕は呆れてしまった。
程なく僕たちは飛行機の中に積み込まれた。荷物室の一角の棚に六篭まとめて積み上げられた。薄暗い部屋で犬も猫も全員が不安に駆られて小さな声で泣いている。「僕たちは一体どうなるんだろう」皆が不安に駆られて泣いていた。どのくらい経ったのだろうか、皆が泣きつかれて静かになったころ、飛行機のけたたましいエンジン音がひびいて、やがて動き出したのが分かった。そして物凄い轟音、飛行機が飛び立ったのだ。僕たちはびっくりして再び泣き出したが轟音にかき消されてお互いの声は聞こえなかった。
それからどのくらい時間が経ったのか、轟音にも慣れて、やがて全員眠りについたようだった。
飛行機のエンジン音が止まり、静寂が訪れたのにびっくりして、僕は目を覚ました。隣の篭にいたジュンがクンクン泣いているし、ジュリーがミャーミャー泣いていた。やがて飛行機から運び出されて、成田空港で飛行機に乗った時みたいなところを通って到着ターミナルに着いた。そして僕たちだけの六篭がエレベーターに積まれた。
エレベーターは荷物用らしく、ゆっくりと下の階へ下りて行きガタンと音がして止まると、扉が開いた。お父さんとお母さんが目の前に立っていた。僕は嬉しくて思わず大声で吠えた。犬猫全員が一斉に喜びの声を上げていた。みんな「捨てられたんじゃなかったんだ」と大喜びしていたのだ。
係りの人が篭をエレベータから下ろして床に並べて置いてくれた。お母さんによるとここはロサンゼルスの空港で、とうとうアメリカに来てしまったらしい。
お父さんが検疫の係官と何か話していた。お父さんによると僕たちの入国審査は簡単で、係の人がお父さんたちが持ってきた書類にサインをしろというのでサインをしたら、僕たちの六篭をさっさと持ってゆけということだったそうだ。僕たちは日本を出るときのように身体検査は一切されなかった、というより、係官は一瞥もくれずに早く持って行けとお父さんに言ったらしい。お父さんが二人では運べない、と言うとポーターを呼んでくれたそうだ。
お父さんたちは荷物を押して、二人のポーターが僕たちの荷車を押してターミナルの出口に出た。そこでお父さんがポーターにチップを渡していると、子供のAちゃんを抱いたS姉ちゃんと旦那さんのE兄ちゃんが駆けつけてきた。
言うのを忘れていたが、お母さんの大学入学やビザの手続き、それに出発準備に三~四ヶ月かかったが、この間にS姉ちゃんとE兄ちゃんの仲は大分良くなっていた。お母さんがアメリカに来るとという事情もあり、S姉ちゃんはまだE兄ちゃんのアパートには当分帰らないでお母さんと一緒に住むということになっているらしい。また、お父さんが二~三週間前にロサンゼルスに来て、S姉ちゃんと一緒にお母さんとS姉ちゃん、それにAちゃんが住む借家を探しまわって契約していたそうだ。
国際線の第四ターミナル(トムブラッドリー)の外に出ると、お父さんが、E兄ちゃんとS姉ちゃんの二台の車では六篭は乗り切れないと言い出した。お父さんはレンタカーを借りてくると言って、いつも会員として使っているらしいナショナルレンタカーのバスに乗って行ってしまった。
僕たちはお母さんとS姉ちゃんたちとターミナルの外の歩道でお父さんの帰りを待つことになった。僕は呆然として外の景色を眺めていた。物凄い車の量だ。これがアメリカか、僕たちをどんな生活が待っているんだろう。一方通行の大きな道を頻繁に流れすぎる車の群れを見つめながら僕は落ち着かなかった。
三十分ほどでお父さんが大きな乗用車を借りて戻ってきた。S姉ちゃんとE兄ちゃんも駐車場から乗用車を出してきて、三台の車が揃った。成田空港に向かったとき同様、それぞれに分乗してお母さんたちの借家があるエンシーノという町に向かった。エンシーノは結構良い住宅街で、安全な地域らしい。僕はお父さんの車に乗せられた。
空港からの道路を走りながら僕はぼんやり外を眺めていた。確かに日本の景色とは違っていた。お父さんによると405号線というハイウェイを通って北に向かい、そこから101号線に左折してすぐのところらしい。空港から三十分ほどかかるということだった。
空港を出るとすぐにハイウェイに入った。ここも物凄い車の群れだ。5~6車線のハイウェイを車の群れが競い合うように猛スピードで走っている。僕は初めての経験に恐怖を覚えたが、お父さんは平気な顔をして運転している。お父さんは仕事でアメリカ中を走り回っているので何ともないと言っていた。
暫く走ったところで、右後ろの車がクラクションをビービー鳴らして近づいてきた。何が起こったのか、僕は緊張してその車を見つめた。お父さんがスピードを緩めると、その車の運転手が何か合図をして通り過ぎた。
「そうか、ハンドアだったのか」
お父さんはブツブツ呟きながら、ハイウエイから一般道路へ下りて行くと車を右端に止めて、僕の篭があるところのドアをいったん開けると、力いっぱい叩きつけるようにして閉めた。そうか、このドアがハンドアだったのか、危ない、危ない。そして再び次の入口からハイウェイに乗って、北に向かって走り出した。
ハイウェイからみたロサンゼルスの景色はおよそ日本とはかけ離れたものだった。広々としているが緑が少ない。時折丘の近くを通るが大きな木々はなく、まるで砂漠の外れにある木々のようだった。
ハイウェイを三十分近く走ったところで、お父さんは一般道路に下りて行った。そして程なく住宅街に入ってゆく。大半が平屋の一戸建の住宅街だった。ここには大きな木々が道の両脇に沢山あったが日本の木々とはどうも様子が違った。ところどころにひょろひょろとした椰子の木もあった。
借家に着くとお母さんたちが道端で心配そうな顔をして待っていた。
「ごめん、ごめん、ドアが半ドアだったので一旦高速を下りたもんで遅くなったよ」
言いながらお父さんは車から下りた。
借家はきれいに区画された団地の真ん中にあって、白い壁の平屋だった。家の前には七~八メートルくらいの高さの木が数本あって、古そうだったが感じの良い家だった。
借家はお父さんが出張の時に、S姉ちゃんと二人で随分探し回ったらしい。ちょっと良さそうな家は2000~3000ドル(24~36万円)もしたらしい。お父さんの予算では1200~1300ドルでないと父さんの給料では厳しいという。そこで1300ドル(15.6万円)の家を一旦契約したらしいが、S姉ちゃんがインターネットで家の近辺の情報を調べたら、あまり安全な地域ではないと分かったので手付金は犠牲にしてキャンセルした。
お父さんが日本に帰らなければならない日程が迫って、最後に見つけたのがこの家だったということだ。この地域は非常に安全な地域だということで、家も綺麗な団地の中の一角だった。建物は築五十年という古いものであったが、アメリカはこのくらいの古い家は当たり前ということらしい。最初は1300ドルと聞いていたが、家主が足元を見て1600ドルと吊り上げてきたそうだ。お父さんも困ったが、帰国の日も迫っていることだし、目をつぶって契約したそうだ。S姉ちゃんが働いていたので、お父さんの仕送りとS姉ちゃんの給料を合わせれば何とかなると手を打ったらしい。後の事になるが、家賃は毎年値上げされて、二年後には1850ドルまで上がって、お父さんがブツブツ言っていた。
家の右側に鉄格子の大きな開き戸があって、その奥に日本なら小さな家になりそうな車庫があった。鉄格子の開き戸を開けて、僕たちは庭に放された。久し振りに狭い篭から開放された僕たちは伸び伸びと背を伸ばしながら、庭の中を歩き回った。三方を二メートル以上はありそうな高い塀で囲まれた芝生の庭だった。家全体の敷地は二百坪以上だろうとお父さんが言っていたから、庭の広さは百坪以上はありそうだ。猫たちはすぐに放すとどこに行くか分からないということで、数日間家の中で飼ってから放すようにするとお母さんがお父さんに報告していた。
ジュンとミーが嬉しそうに広い芝生の上を走り回っている。僕もジュンを追いかけて走り回った。からっとした天気で、暑くもなく寒くもない温度だった。走り回って久し振りにかいた汗が気持ちよかった。ん? 犬は汗をかかない? そうだった。でも気持ちの良いことには相違はなかった。
お父さんは、お母さんの引越しと僕たちの運搬のために、会社から二週間の休暇を貰ってお母さんと一緒に来たが、二週間後には日本に帰ってH姉ちゃんたちと一緒に暮らすことになっているそうだ。僕たちはお母さん、S姉ちゃんそれに孫のAちゃんとこの家で暮らすことになっていた。
車庫は車には使わずに、僕たちの部屋にすることになっていた。お母さんが車庫の中に僕たちの寝るところを作ってくれたので、其の夜は車庫の中でゆっくり眠った。ミーは外が好きとみえて、大きな木の下の芝生の上で寝ていた。五月蝿いほどではないが上空を時々飛行機が通り過ぎてゆく。日本では僕たちの家の上空を飛行機が通ることなんかなかったが、とうとう僕たちはアメリカに来てしまったんだ。飛行機の音を聞くともなく聞きながら、僕は眠りについた。