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巣立ち

4  巣立ち



 それにしてもこの家族はよく海外旅行をする。お父さんは数年前までお堅い仕事に三十数年勤務して、そこを辞めて今のアメリカの会社に第二の人生として就職したんだそうだ。前の仕事を辞めるときに退職金を貰って、家のローンを全部返却したが、それでも半分くらいは残ったらしい。

 お母さんは以前からアメリカに行きたがっていたし、M兄ちゃんを除くほかの女の子供たちは全員海外志向だった。

「金は天下の回りもの、使えるものはある内に有効に使おう」

 とのお父さんの方針で家族全員が海外旅行をしまくったそうだ。お父さんにしてみれば第二の人生の仕事も結構良い収入だったので気が大きくなったらしいが、それ以上に、子供たちには若いうちに世界を経験させてあげたいとの願望があったのだ。お父さんが初めて海外に出たのは、仕事の出張でアメリカに行ったのが初めてだった。一ヶ月半のかなり長い出張だったが、その時既に四十歳に近かったので、他の人から聞いていたほどの感動は味わえなかった。その反省で、やはり海外に出るのは感覚が若々しい二十台でなければならない、というのがお父さんの考えであったそうだ。

 S姉ちゃんは大学を卒業してから一旦は就職をしたものの仕事が合わず、そこはすぐ辞めて、オーストラリアにワーキングホリデーで留学した。留学と言えば格好が良いが、要するに遊びに行ったのだ。一年遊んでからの帰国後は、留学の経験を生かして語学学校に就職したが、元々好きな道だったので大いに頑張って好成績を上げたらしい。頑張った甲斐があってか、二年後には希望がかなって、カナダにいくつかある学校の一つのバンクーバー校のマネージャーとして赴任した。

 後の二人の姉ちゃんたちは、大学の夏休みに、英語を学ぶためにアメリカの語学学校に何度か留学した。例外はM兄ちゃんだ。兄ちゃんは完全な国内志向派で外国には行きたくもないと言っている。お母さんは、お兄ちゃんは小さい頃から英語を無理やり勉強させたので、その反動で英語が嫌いになったのじゃないか、と言っている。その所為でもないだろうが、M兄ちゃんは、大学は工学部に進んだ。卒業後は大きなゼネコンの会社で技術者として働いている。

 お母さんは、お父さんと二人で何度かアメリカ旅行をしたが、これに飽き足らず、娘たちとアメリカやヨーロッパ旅行をやったりしている。娘たちだけでアメリカ旅行に行ったこともある。お父さんは子供たちだけの旅行を心配して、成田空港出発から帰国まで、旅行先の全ての行動計画を事細かにノートに書き綴って、緊急事態になったときの行動については、英語の例文まで書いたものを娘たちに持たせていた。

 こういう按配で、お兄ちゃんを除く全員が最低四~五回の海外旅行を経験して、外国の知識をかなり身につけていたようだ。僕たち犬はいつも留守番で、海外旅行から帰ってきたお母さんやお姉ちゃんたちから、楽しかった話を聞かせてもらうだけであったが・・・ 勿論、僕たちの面倒を見るために、誰か一人は必ず留守番をしてくれることになっていた。


 お父さんは年に5~6回はアメリカ出張に行っていたが、たまにはカナダのバンクーバーで仕事をしているS姉ちゃんの状況を見たいということで、ある時、出張の途中にバンクーバーに立ち寄ったそうだ。S姉ちゃんが学校のマネージャーとして立派に仕事を果たしているのをみて、お父さんは安心した。会社はバンクーバの町のど真ん中にあったが、その他に、学校が郊外の大邸宅を買って、留学する学生たちの入出国時の宿泊やその他の学校行事に使っていた。そして、その一角の一部屋をマネージャー用の下宿として使っていた。

 外国で頑張っている娘に喝采を送ったものの、お父さんは大きな心配事を抱えてしまった。S姉ちゃんは仕事熱心で毎日下宿に帰ってくるのは夜の一~二時、学校を訪問して仕事ぶりも見せてもらい、同僚の外国人教師とも話したが、ボーイフレンドの気配が全くない。キャリアウーマンとは格好は良いが、一生独身を通されたら困る、というのがお父さんの心配事だった。人間は男女にかかわらず、結婚をして子供を作って幸せな家庭を持つのが究極の幸福というものだ、というのがお父さんの持論であった。S姉ちゃんはこのままではキャリアウーマンとしては大成するかもしれないが、お父さんとしてはやっぱり結婚をして自分の孫を作って欲しいと希望していた。

 だからと言って、縁談話を持って行っても親のいうことを素直に聞くような娘ではない。お父さんはいろいろ思案した挙句、一計を案じた。

 当時、お父さんは仕事でロサンゼルスに行くことが多かったが、仕事相手の一人に日系三世の独身の青年がいた。お父さんのお気に入りの仕事仲間で、一緒にアメリカ中を仕事して回ることが多かった。年もS姉ちゃんよりも三歳上で丁度良い。そしてある日、どうしたのか細部はよく分からないが、とにかくお父さんはこの好青年を言いくるめて、S姉ちゃんが居るバンクーバーに連れてきたのだ。正確に言えば、再びアメリカ出張の途中でバンクーバーに立ち寄り、この青年をバンクーバーに呼び寄せたんだそうだ。

 青年がバンクーバーに来た時、お父さんとS姉ちゃんとで出迎えたそうだが、お父さんの感じでは、空港で二人が会った時、二人の間に火花が散ったような気がしたそうだ。オーバーなお父さんの言うことだから、本当かどうかは当てにはならないが・・・

 お父さんは、その夜は三人で一緒に食事をしたり、バンクーバーの市内見物をしたりして、娘と日系三世の青年の間を取り持ったが、次の朝には「後は二人で勝手にしろ」と言う事で、アメリカへ仕事に行ってしまったそうだ。そして数ヶ月後にS姉ちゃんと青年から「私たち結婚します」との連絡を受けた。お父さんはニンマリした。お父さんの計略はまんまと成功したと言う訳だ。

 結婚が決まったのは良いが、新婦はバンクーバー、新郎とその家族はロサンゼルス、当然こちらの家族は全員日本ということで、どこでどういう結婚式をやるのか、お父さんとお母さんはS姉ちゃんと連絡を取りながら結婚式の情報集めにおおわらわであった。S姉ちゃんは結婚準備に取り掛かると同時に、会社に退職願を出して退職、結婚までロサンゼルスに滞在することにしたと言ってきたそうだ。

 日系三世の青年(今後E兄ちゃんと呼ぶ)とS姉ちゃんとの相談の結果、結婚式はロサンゼルスと日本の間を取って、ハワイで挙げるということで調整がついたそうだ。そして十月、日本からこの家の家族全員とアメリカから相手の家族全員が集まって、ワイキキの大きな教会で双方の家族立会いのもとS姉ちゃんとE兄ちゃんの結婚式が挙行されたのだった。

 家族が全員ハワイに行っている間、僕たち犬猫はどうしていたのかって?実はお母さんとそっくりの妹が九州から出てきて、僕たちの面倒見てくれたんだ。お母さんと同じで大変な犬猫好きで、僕たちも大いに甘えることが出来た。時々お母さんの留守の時にお父さんが面倒見てくれることがあるが、うるさいお父さんよりこっちの方がずっと良かった。


 S姉ちゃんとE兄ちゃんの結婚式の様子は、お母さんが帰国後、話してくれた。概略次の通りであったらしい。

 結婚式の準備は、双方とも住んでいないハワイということで、S姉ちゃんとE兄ちゃんがインターネットで日本の結婚式専門の会社に連絡を取って、すべてその会社に依頼した。

 すべての準備が整って、日本からは家族全員とお母さんの親戚が参加することになった。お父さんとお母さんを筆頭にM兄ちゃん夫婦と孫のKちゃん、H姉ちゃんとY姉ちゃん、それにお母さんの弟夫婦とその子供およびお母さんの姪の総勢十一名となった。H姉ちゃんは、そのころ丁度、アメリカのナッシュビルの語学学校で三ヶ月の語学留学中だったのでナッシュビルから飛行機を乗り継いでハワイに来ることになった。

 E兄ちゃん側は母親と兄夫婦の3名がロサンゼルスから来ることになったし、S姉ちゃんはロサンゼルスからE兄ちゃんと一緒に来ることになった。

 日本からの参加者は、お父さん以外はハワイは初めてなので、当然観光旅行を兼ねての参加である。お父さんが十二人乗りのマイクロバスみたいなレンタカーを借りて、日本側全員を乗せて行動することになった。そして予定通り、全員が無事ハワイに到着した。

 日程は全部で一週間。真ん中の一日を結婚式に当て、その前後は観光旅行となった。先ずはパールハーバーの見学、そして次の日はお父さんの友人の家でのバーベキュウ等でハワイを楽しみ、いよいよ結婚式当日になった。

 新郎新婦の宿泊するホテルに日本側全員が集まり、花嫁衣裳姿のS姉ちゃんを取り囲み、記念撮影をした後、ワイキキの大きな教会に出発した。S姉ちゃんとE兄ちゃんはダックスフンドみたいな長い大きな白い自動車に乗り込む。ついでにH姉ちゃんとY姉ちゃんおよびお母さんの姪の若い娘三人がそれに同乗、後の人はお父さんのレンタカーに乗って後ろからついて行く。娘たちは勿論、お父さんの車に乗った者も全員大はしゃぎであった。結婚式よりもハワイでこんなことを出来るのが楽しくてしょうがないという雰囲気であった。

 教会は美しい立派な教会であったが、大聖堂は数百人が入る大きなものであった。しかし僅か20人未満の人数では大きすぎるので、大聖堂脇に小さな式場が用意されていた、と言っても百人以上は軽く入るような式場ではあったが・・・

 新郎新婦が神父さんの導きで中に入り、結婚に必要な色々な手続きや訓話を受けている間、参加者は教会の周辺や聖堂の中を見学していた。しかし、新郎新婦と日本側の参加者は全員揃っているのに、ロサンゼルス側の家族がなかなか現われない。手続きの終わったE兄ちゃんがやきもきしていた。

 神父さんにお願いして開始時間を少し延ばしてもらって待っていたところ、一時間くらい遅れてE兄ちゃんの親族が到着した。E兄ちゃんのお兄さんの運転するレンタカーが追突されて、遅れてしまったということだった。お父さんは、そのお兄さんが日本人と同じ顔をしているのに、早口の英語でまくし立てながらE兄ちゃんに説明しているのをびっくりして見つめていた。いやはや、身内の結婚式の前にとんだ事でした。

 ともあれ、一時間おくれで結婚式は始まった。当然の事ながら、アメリカ人の神父さんが型どおりに式を進めてゆく。お父さんもS姉ちゃんと腕を組んで入場し、立派に役割を果たし、E兄ちゃんにS姉ちゃんを引き渡した。M兄ちゃんの結婚式も、二年前、東京の結婚式場で教会式でやったが、日本人の神父さんの日本語の説教だったので、お父さんは何となくぎこちなく感じていた。しかし、アメリカ人の神父さんの場合はぴったりはまっていて、厳かな感じだったとお父さんは言う。だって、英語の説教はチンプンカンプンで分からないから、何となくそう感じるんだとお父さんは付け足した。

 途中で太った女の人が聖歌を歌ってくれた。体つきとは相反して、美しいソプラノで参加者全員が聞きほれていた。ともあれ、式は順調に進んで終了した。神父さんが、「ここに二人は正式の夫婦になりました。」と宣言して、S姉ちゃんとE兄ちゃんは正式な夫婦になった。

 式を終わった二人は晴れやかな笑顔で教会の出口から腕を組んで出て来た。参列者は全員で「おめでとう」と言いながら花びらを二人の頭上に投げかけた。

 披露宴はワイキキの町の中にある中国料理のレストランで、華やかにかつ楽しく行われた。ユーモアたっぷりの司会者の進行で、幸せに包まれた笑い声が満ち溢れる披露宴であった。

 お父さんの話によると、結婚式と披露宴の費用は、日本で結婚式を挙げたお兄ちゃんの時より随分安かったとのことであった。

 披露宴が終了してホテルに帰る車の中でお父さんがお母さんに言った。

「これで二人済んだぞ、後二人だ。フフフ・・・・」

 アメリカ組は、ハワイには何度か来たことがるので観光はせずに、翌日ロサンゼルスに帰ったが、日本組はお父さんのレンタカーでオアフ島一周のドライブをしたり、ワイキキの浜辺であそんだり、最後に大きなショッピングモールで買物をしたりで3日間を過ごした後、帰国の途に着いた。

 お母さんは家に帰ってきた時、すぐに僕たちのところに来て、美味しいお土産をご馳走してくれながら、ニコニコしながら言ったもんだ。

「これで二人片付いた。後二人だ。全部片付いたら好きなことをいっぱいやるぞ~!」


 新郎と新婦は新婚旅行として日本で親戚周りをしたいということで、日本の家族と一緒に日本にやって来た。

 新郎新婦は主として山口と九州の親戚を挨拶回りして、これが楽しい新婚旅行となったようだ。楽しい思い出話をいっぱい持って両親の家に帰ってきた。そして最後の両親との団欒の夜、お父さんがS姉ちゃんに聞いた。

「アメリカへの入国は大丈夫なのかな?」

「正式に結婚したのだから、別に問題はないでしょう」

と日系三世の新郎のE兄ちゃんはきょとんとした表情で言った。S姉ちゃんがふと思い出したように言った。

「アメリカ入国は厳しいんだよ。私がカナダからアメリカに入国しようとした時は大変だったよ」

 犬の僕にはよく分からないが外国に入国する時はビザ(注)とかいうものがあって、勝手には入国できないらしい。でもお父さんは日本人がアメリカに入国する時は3ヶ月以内の観光であればビザは要らないはずだと言う。

「でも結婚は3ヶ月以内じゃないね」

 それからああでもない、こうでもないとの議論が繰り返された。そして全員がたどり着いた結論は「別に悪いことをしているわけじゃないんだから、真実を話せば大丈夫さ」ということであった。要するに誰も国際結婚のビザがどうなっているのか全く知識がなかったのである。

 翌日、新郎新婦はお父さんの車で送られて成田空港へ行き、親兄弟の見送りを受けてロサンゼルス行きの日本航空のジャンボジェット機で出発した。ゲートに入るときは手を組んで幸せそのものの様子でゲートに姿を消したそうだ。お父さんとお母さんは空港から帰ってくると、庭のテーブルでお茶を飲みながら、娘が幸せな結婚式を済ませてアメリカに飛び立ったことを喜んでいた。そして、娘の今までの様子を楽しく語り合っていた。お母さんは、話しながら嬉しそうに何度も僕の頭を撫ぜてくれた。

 異変が起こったのはその夜の三時を過ぎたころであった。突然家の電話が鳴り響いた。こんな時間に電話がかかってきたことは未だかってないことである。お父さんが寝ぼけ眼で電話を取るとE兄ちゃんの緊張した声が飛び込んできた。

「お父さん、大変です!S子が係官に連れて行かれました!」

「・・・・」

 お父さんには何が起こったのか皆目見当がつかなかったそうだ。いろいろ質問をしてやっと事情が飲み込めた。以下のような事情であったらしい。

 ロサンゼルスに着いた新郎と新婦は、E兄ちゃんがアメリカ人なので、アメリカ人用の入国審査の通路をたどって係官にパスポートを提出した。E兄ちゃんは勿論問題なくパスしたがS姉ちゃんのパスポートは日本のパスポートだ。係官が「通路が違う」といったので

「私たち結婚したんです」

 とS姉ちゃんが言ったとたんに係官の表情が変った。そしてそのまま取調室に連れて行かれたそうだ。E兄ちゃんは係官に食って掛かったが係官から「結婚した人は正式に手続きしないとアメリカに入国は出来ない」と規則を説明されたそうだ。結局S姉ちゃんは次の日本行きの便で強制送還されることになったので慌てて電話したという訳であった。いやはや大変なことになったもんだ。その夜は家中が騒がしくて、僕たちもおちおち眠ってはいられなかった。


(注)ビザ

米国入国のためのビザの種類は次のように多くの種類のビザがあります。ただし、三ヶ月以内の観光または商用には、日米両国の協定によりビザは免除され、日本国のパスポートがあれば入国できます。


学生ビザ(F)、専門学校留学生ビザ(M)、交流訪問者ビザ(J)、商用ビザ(B-1)、観光ビザ(B-2)、短期就労ビザ(H)、企業内転勤ビザ(L)、貿易駐在員・投資駐在員ビザ(E)、スポーツ選手・芸術家(O,P)、報道関係者(I)、外交・公用ビザ(A)、国際機関関係者(G)、通過ビザ(C)(日本国籍の人は不要)、クルービザ(D)、宗教活動家(R)


 翌日、両親とH・Y姉ちゃんが成田空港に向かった。車の中で全員が心配して、S姉ちゃんの結婚は今後どうなるんだろうと気を揉んでいたそうだ。まさか永遠に一緒に住めない、なんてことにはならないだろうか、と妹たちは心配していたそうだ。

 飛行機の到着時間が過ぎて、家族が国際線の出迎え出口に待っているとS姉ちゃんが照れ笑いしながら出てきたそうだ。しかし、目には涙をいっぱいためて・・・ 家族全員がわっと取り囲んで、それぞれに慰めの言葉を言ったもんだから、お姉ちゃんはとうとう我慢できずに泣き出してしまったそうな。

 家への車の中で、S姉ちゃんが語ったところによると以下のようであったと、お母さんが家に帰ってから話してくれた。

 S姉ちゃんは、取調室、というようなおっかない部屋ではなく、控え室のようなところに連れて行かれてから、移民局の女性の担当官からいろいろ質問されたそうだ。非常に親切で取り調べというほどのものではなかったそうだ。担当官はべそをかいて泣いているS姉ちゃんに、優しく、アメリカ人と結婚した場合の規則について説明をしてくれたそうだ。夫になった人がアメリカで結婚届をして、その結婚証明書を日本のアメリカ大使館に提出して米国永住権(注)を申請しなさい、とのことであった。勿論、日本の役所からも決められたいろいろの書類を取り寄せて、一緒に提出することになるが、その細部はアメリカ大使館で聞けば丁寧に教えてくれるとのことだった。夫婦揃って大使館に出頭して手続きすれば、通常は一~二ヶ月で、取り敢えずの米国居住許可証がもらえる筈だと言ってくれた。少し遅くはなるが、間もなく夫婦でアメリカ生活が楽しめるよ、とも慰められたそうだ。

 日本への帰国の飛行機代は勿論自費で、正規の料金を取られたそうだ。行くときは格安航空券だったので安かったが、強制送還されるのに倍以上の料金を取られた、とS姉ちゃんはぼやいていた。

 家族全員は、S姉ちゃんの話を聞いて安心した。お父さんに至っては、

「今までカナダ、これからはアメリカで永住と言うことになるんだから、丁度良かったじゃないか。これから一~二ヶ月日本での最後の生活を皆で楽しもうぜ!」

 と言い出す始末。家に到着する頃には車の中から楽しげな笑い声が洩れて聞こえていた。全く楽天家の一家であることよ。

 次の日からのS姉ちゃんの行動は早かった。すぐに赤坂のアメリカ大使館に出向いて永住権申請のための必要書類を貰ってきて、アメリカにいるE兄ちゃんと連絡を取り合って提出書類の取得にかかった。そして日本で準備する書類をほぼ取り終わった頃、E兄ちゃんが再び日本にやってきて二人でアメリカ大使館に出頭した。大使館での面接は簡単に終わり、何の問題もなく「強制送還」から一ヶ月半後にはアメリカ居住許可を貰うことが出来た。

 因みに、正式な永住権グリーンカードは三ヵ月後になるとのことであったが、アメリカへの出入国には問題はないとのことであった。

 こうして波乱に富んだ結婚ではあったが、すべての手続きを終了して、新郎新婦と呼ぶにはちょっと古くなった若い夫婦は、ハワイでの結婚式から一ヵ月半後、再び家族に見送られて成田空港からロサンゼルスに向けて飛び立った。結婚決定からハワイでの結婚式、強制送還、慌しい永住申請、そしてロサンゼルスへの出発と、S姉ちゃんだけでなく家族全員にとって全く騒がしい数ヶ月であった。こう忙しいとお母さんも僕たちのことは後回しになり、食事が遅くなったり、散歩がショートカットで省略されたり、僕たちにとっても迷惑な数ヶ月ではあった。

 お父さんは、後で聞いた話だが、もし観光ビザで入国してアメリカ国内で永住権を申請した場合は、グリーンカードを貰うまでに四~五年掛かったかもしれない、ということで、この強制送還騒ぎがあったからかえって良かったと思っている。アメリカでは偽装結婚その他の不法移民が多く、取調べが厳しいので、永住が認められるまでには長い期間が必要らしい。

 一方、H姉ちゃんは大学時代からのボーイフレンドの青年と婚約し、一~二年以内には結婚することになっていた。Y姉ちゃんは大学を卒業し、貿易会社に就職し、ボーフレンドの居るスペインと日本の間を行ったり来たりの生活を送っていた。お母さんが羽ばたく日も間もなくやってきそうな気配であった。


(注)永住権(移民ビザと非移民ビザがありますが、ここでは移民ビザについて述べます。)

アメリカに永住を希望する人たちが多いので、アメリカの永住権を取得するのは極めて難しくなっています。ただ移民の国アメリカですので、厳しい規則の一方で、抽選で永住権を与える制度も作っています。日本人でも毎年数万人が応募し、四~五00人の人が抽選に当たって、永住権を獲得しているということです。永住権保持者はあくまでも日本国籍ですが、選挙権を除いては殆どアメリカ市民と同様に扱われます。また、希望すれば、永住権を貰って五年後(結婚した人は三年後)には市民権を申請できます。

永住権グリーンカードを申請できる人は次のとおりです。

・米国市民の近親者(配偶者、未成年の子女、親等ですが手続きが完了したらすぐ付与されます。)

・米国永住者の家族等(市民の未婚の子女、永住者の配偶者と未婚の子女、永住者の未婚の子女、市民の既婚子女、市民の兄弟姉妹等ですが付与されるまで数年間の待ち時間が必要です。)

・雇用による永住権

・ DVプログラム(抽選による付与です。)


 S姉ちゃんは、ロサンゼルスのサンタモニカの近くにある母親の家で新婚生活を始めた。生活は順調であったらしいが、何から何まで指示をする母親に時には苛立ちを覚えることもあるらしい。ともあれ不安要素を抱えながらも、順調な新婚生活を始めたのであった。

 一方。H姉ちゃんは大学時代から友達が多く、ボーイフレンドも沢山居るようだった。友達をよく家に連れてきては団地内のテニスコートでテニスをしたり、仲間でスキーに出かけたりしていた。

 大学を卒業すると、服飾の会社にドレスデザイナーとして就職したが、毎日仕事が忙しく、帰ってくるのは夜遅くということで、気の弱いH姉ちゃんは少々ノイローゼ気味であった。この頃になると付き合うボーイフレンドは結婚の対象として評価しているのか、お父さんやお母さんに紹介するようになった。お父さんもお母さんも、基本的には結婚相手は本人任せで、意見を求められたとき以外は口を挟まないのをモットーとしてるらしい。

 ある時連れて来たボーイフレンドは、あまりハンサムではないが、H姉ちゃんと結婚したがっているのがありありと分かる青年であった。お母さんの料理で一緒に夕食をして、和やかに談笑をして、帰りは高速道路のインターまで送って行き、「またいらっしゃい」とお父さんが言葉を掛けると、大喜びで帰っていった。お父さんはH姉ちゃんがこの青年と結婚するのかなと思っていたそうだが、本人はその後、そ知らぬ顔であったそうだ。お父さんがさりげなく、あの青年とはどうするのか聞いたところ、

「う~ん、いまいち感情がぴったり来ない」

という返事だった。

 それから半年ほどしてから別の青年を連れて来た。この青年は前にテニスをしたとき一度家に連れてきたことがあるので、お父さんも知っていた。やや太めでヌーボーとした感じの青年で、お母さんのお気に入りの青年だった。同じくお母さんの料理で夕食を共にしながら談笑したが、見掛けとは違い結構話に乗ってくる青年であった。

 これをきっかけに、H姉ちゃんは時々この青年を連れてくるようになり、付き合いだしてから半年後にこの青年と結婚したいと両親に打ち明けた。お父さんが、その青年の何処が良いの、と聞くと、

「うん、この人と居ると何となく気が休まるの」

という返事。お母さんはもともとお気に入りの青年、お父さんも本人が良いのなら勿論依存はない。

 こうしてH姉ちゃんとこの青年(以降、K兄ちゃんと呼ぶ)との結婚が正式に決まった。K兄ちゃんは話が決まる前に、自分には出産の時脳に障害を受けた妹が居ることを両親に打ち明け、了解を乞うた。お父さんもお母さんもH姉ちゃんがそれを了解しているのなら、問題ないということで、二人の結婚が正式に決まった。

 H姉ちゃんの結婚式は、S姉ちゃんの結婚式から一年後、市谷の大きなホテルで執り行われた。S姉ちゃんの結婚式はハワイだったため、双方の家族と親戚のみの参列であったが、H姉ちゃんの場合は双方の親戚、H姉ちゃんとK兄ちゃんのそれぞれの大学時代の友人たちで、総勢が百名の大きな結婚式になった。式は教会式で行われたが新婦の父親であるお父さんがH姉ちゃんの手を取って入場し厳かに執り行われた。

 お父さんは日本人の神父さんの説教を聞きながら、どうもこの説教を日本語で聴くと何ともキザだな、日本人はやっぱりお坊さんのお経を聞きながらの結婚式が合っているなぁ~などと不謹慎なことを考えていたそうだ。

 披露宴はホテルの大広間で賑やかに行われた。どこにでもある日本式の結婚式と披露宴であったが、H姉ちゃんの幸せな顔を見ながら、お父さんもお母さんも嬉しそうで、かつ満足げであった。

「いよいよ、これで三人目、あと一人だ」

と二人とも頭の中で考えていたに違いない。

 結婚式も無事に終わり、H姉ちゃんとK兄ちゃんは、アメリカとバハマに新婚旅行に出かけていった。無事新婚旅行から帰国した二人は、二人の仕事の通勤に便利な市川にアパートを借りて、H姉ちゃんは家を出て行った。

 家にはお父さんとお母さん、それにY姉ちゃんの三人になったが、Y姉ちゃんは、間もなく、仕事を辞めてスペインの語学学校に入学し、家にはお父さんとお母さんの二人きりになってしまった。

 ある日、お母さんがニコニコしながら僕たちのところに来て言った。

「とうとうあと一人だ、お母さんも羽ばたくぞ~」




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