昼下がりの悪夢
昼食を終えてしばらく経った時、激しい腹痛が断続的に襲ってきた。ことは一刻を争う。この猛烈な生理的欲求は、容赦なく俺の下腹部を刺激する。ああ、脂汗まで流れてきた。一刻も早く「あれ」を探さなければ、とんでもない事態になってしまう。
どこならある? コンビニか、スーパーだ。だが、あいにく視認できる範囲には見つからない。見えるのは、真新しく立派な家が立ち並ぶ住宅街だけだ。
こうなったら、背に腹は変えられない。恥をしのんで、頼むしかない。
トイレ貸してください、と――
俺は、一番手近なところにある家に入った。
呼び鈴を押そうとしたのだが、その手間は省けた。ドアが開け放たれていて、玄関に人がいる。俺はきりきりと痛む腹を押さえるため、前かがみ気味の姿勢をキープしなければいけない。体を起こして呼び鈴を押すのは至難の技だと思っていたので、思わぬ幸運に感謝した。
出かけるところだったのだろうか。きちんとスーツを着込んだ若い女性だった。彼女は俺を見ると、まぶしいほどの笑顔で迎えてくれた。
地獄に仏とはこのことか、と思う間もなく、脳髄に衝撃が走った。目の前にいるのは、仏様ではなく、女神だったのだ。
ゆるやかなウエーブの長い髪にふちどられた、小さな顔。その顔にはアンバランスなほどの、大きな瞳が輝いている。珊瑚のようなピンク色に塗られたぽってりとした唇は、つやつやと光って、俺を桃源郷へといざなう。
あろうことか、俺は目の前の女性に、一目で恋してしまった。そんな場合ではないのに。
これは予想外の難関だ。相手が中年の主婦なら、こんな問題は起きなかったはずだ。
今は羞恥心など捨て去るべきだ。俺は意を決して言おうとした。
が、言えなかった。
もし、これをきっかけにして、目の前の彼女と付き合えたとする。こんな恋の始まり方は絶対に嫌だ。結婚披露宴で、二人の馴れ初めは、雅彦君の下痢のせいですなんて言われた日には、一生太陽の下を歩けない。
考えただけで身震いがする。俺はそんなお笑いキャラじゃない。
俺は、なんでもないです、とあいまいに言葉を濁した。俺のビーナス、後でまた会おう。意思の力で腹痛を押さえ込み、背筋をピンと伸ばしてできる限りクールにその家から立ち去った。
今の家は、この窮地を脱してからもう一度訪ねてみることにして、俺は、すぐ隣の家に行くことにした。
思えば、昔から胃腸の弱い子供だった。特に理由もないのに、腹が痛くなる。今朝食べたものの中に、犯人らしきものは見つからない。食あたりでないとすれば、過敏性大腸症候群というやつだろうか。俺は、手の甲の中心部から少し薬指寄りのところにあるツボを、親指でゴリゴリ強めに押しもみした。少し楽になったようだ。こういうときに便利なツボだが、「下痢点」という、見もふたもない名前がついているのが玉にキズだ。
ここはいわゆる、高級住宅街なのだろう。一軒一軒の敷地がやたらと広い。歩道の脇には、のぼりが立っている。どこか近くのスーパーで特売でもしているのだろうか。
隣の家も、玄関の扉が開いていた。今度は、玄関にいたのは中年の男だ。助かった!
「すみません、トイレを貸していただきたいのですが」
極力丁寧に言ったつもりだった。脂汗を流し、下腹部を抱えている様子から、どう見ても目的はひとつだと分かりそうなものだが、万が一強盗に間違えられても困る。懸命に、怪しい者ではないというオーラを出した。本当はそれどころではなく、すぐさまトイレに駆け込みたかったが、俺にもまだ、社会人としての良識が残っていた。
だが、無情にも彼は、笑顔の下に拒絶の色をにじませている。
「申し訳ありません。それはちょっと承知しかねます」
なんとなく、予想はしていた。
「そこを何とか。お願いします!」
俺は再度懇願した。が、彼は困惑しきった表情で、欧米人のように肩をすくめる。彼の服装を見て、俺はふと、気がついた。端正にビジネススーツを着こなしている。彼はこれから仕事へ行くのだろう。出勤直前に、トイレを貸してほしいという人が来て、トイレを貸していたら、電車に乗り遅れて遅刻しました、なんていいわけをしようものなら、もっとマシな作り話をしろ! と上司に一喝されそうだ。この歳になって、いや、いくつであっても遅刻で上司に怒られるのは、かなり情けない。俺の括約筋も限界が近いが、これ以上彼を煩わせるのも気の毒だ。あきらめて、他をあたることにしよう。
それにしても、容赦なく襲ってくる下腹部の蠕動運動。それは、もう蠕動などという生易しい表現では言い表せない。下腹部に巨大な竜が入り込んで、怒りの趣くままに暴れ狂っているようだ。
ぎゅるる、ぎゅるると、不気味な音がする。俺は半泣きになった。ああ、神様。悪夢なら早く目を覚まさせてください。
手の甲のツボを押しながら、さらに隣の家に行く。三度目の正直を期待して。
ここも玄関のドアを開け放している。いったいこの住宅街はなんなんだ。小奇麗で治安はよさそうだが、無用心にもほどがある。
今度の家は、若い女性がいた。が、一軒目の彼女のような、俺のタイプに直球ど真ん中ストレートというには遠く及ばない。ハムスターとかの小動物みたいな、気弱そうな女だ。しかも、廊下のモップがけをしている。しめた! 今度こそ、地獄に仏だ。若い女だから、多少の羞恥心を感じるが、この際ぜいたくは言っていられない。
俺は、できるだけ低姿勢に、ハムスターをおびえさせないように配慮して言った。
「すみませんが、トイレを貸して下さい」
ハムスター女は、顔を曇らせた。この街の住人は、ことごとく他人にトイレを貸すのが嫌らしい。
「お願いします。トイレ、貸して下さい」
俺は、再度頼んだ。ここで断られたら、本当にやばい。もうツボも押しすぎて、効果が得られなくなっている。
ハムスター女は、おどおどと視線を泳がせて、外を指差した。
「あ、あの、ここを出て左に五百メートルほど行ったところに事務所があります。そこのトイレなら……」
何だと。ここから五百メートルも歩けと言うのか。その間に、もしもれたら誰が責任とってくれるんだ。ここのトイレを使わせてくれれば、それで済む話だ。
俺の頭の中で、ぷちん、と何かがはじけた気がした。
「ふざけるな!」
俺の怒声に、ハムスター女が怯える。ますますハムスターそっくりだ。
「こんなでかい家に、トイレがないわけがないだろう! それとも何か? 私はうんこなんてしませんとでも言うのか! どけ!」
俺は、玄関を上がりこんで、ハムスター女が必死で制止するのを振り払い、ずかずかと廊下を進んだ。程なくして目的のドアを見つけた。
ドアを開けると、まっ白に輝く陶器が、目にまぶしい。あんなにも渇望したものが、そこにある。広大な砂漠を延々と歩き続け、ようやくオアシスを見つけたのだ。すばやく中に入り、鍵をかけた。ドアをどんどんと叩く音と、ハムスター女が「やめて」と叫ぶ声が聞こえてきた。ここまできたんだ、誰にも邪魔されてたまるか。俺は、一年に一度しか織姫に会えない、彦星のような心境だった。しかも、これまで二年連続雨天の七夕だったのだ。こんなにも感動するものなのか。おもむろにズボンを下ろして、便座に座った。
その瞬間、途方もない快楽を得た。普段はなんとも思わない、単なる生理的欲求の解消。それだけのことが、こんなに崇高な行為になるとは。俺は、忘我の境地に達した。今、俺の頭上には天使が舞い降りているに違いない。
ようやく人心地がついた。改めてハムスター女への憎悪が湧き上がってきた。危うくもらすところだったんだぞ。幼稚園児じゃあるまいし、社会人になったこの俺が、おもらししましたーなんて誰かに知られたら致命的だ。
先ほどまでは死ぬか生きるかの瀬戸際だったが、室内を見回す余裕が出てきた。よく見ると、無駄に広いトイレだ。手を洗う場所がトイレタンクの上、等というけちくさいところではなく、洗面所ともいうべき大きさで便器横の壁面に設置されている。大きな鏡に俺の顔が映っていた。おそらく、先ほどまでは土気色をしていたであろう頬は、今はバラ色に輝いている。乱れてしまった髪を整え、女神の元へ向かう自分を夢想する。
そして、水を流そうとレバーをひねる。
「?」
何度もひねる、逆方向にもひねってみる。が、一向に水が流れない。壊れているのか? よく見ると、俺がよく知っているトイレとは、何かが違う。
最新式のウォシュレットだからというわけではない。水がないのだ。慌てて、洗面所のような手洗い場の蛇口をひねるが、ここも、一滴たりとも水が出ない。
相変わらず、ドアを叩いている音がする。いったいどういうことか聞かねばならないだろう。俺は、ロックを解除し、ドアを開けた。
ハムスター女は、ドアの内側から漂ってくる臭気で、俺がしたことを察したようだ。絶望的な表情を見せ、今にも泣き出しそうになっている。
「……ここは住宅展示場ですから、トイレは使えないんです……」
俺は、まだ悪夢を見ているのか……?