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【未完】牙喰らい  作者: 蜂八
二部
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14/17

十二話:天王山


 急激な展開で焦りに焦った袁術の小さな手から、杯が落ちる。

 ふんだんに蜂蜜を混ぜた水が零れ、天幕の中の地面に染み込んでいく……跳ねた飛沫が少女の裾を濡らし、高級な黄色の衣装に染みを作った。


「な、なんじゃ、なんなのじゃ!?」

「袁術様! こうなればもう迎え撃つしかありません!」

「なっなななっ七乃(ななの)! 何とかするのじゃ!」

「え、ええっとぉ……迎撃! 美羽(みう)さまを守るため、皆さんで迎撃ですよー」


 虎牢関に対して陣を敷いた連合軍の後列で、嗜好品を楽しみながら少憩していた袁術の安らぎが一瞬にして崩れたのは、呂布が虎牢関を出て暫くしてからのことだ。

 袁術の側付きにして袁術軍の大将軍・張勲が、先方で荒れる砂塵の量が増加したことに気付き、袁紹が董卓軍を引きずり出して激しい戦闘でもしているのではと予想を口に出した直後、伝令が天幕に大慌てで飛び込んできた。


 虎牢関より出陣した敵の大軍により、曹操軍と孫策軍が敗走。

 敵軍の先頭は呂布と華雄、後続に賈駆と張遼。先頭二人の率いる兵は袁紹軍の抵抗を跳ね除け崩し突き抜けて、今にも袁術の陣に突入する様子である。


 以上の報告が口早になされ、陣を片付け退く時間も無いとまで告げられた袁術の顔色は一気に青くなった。最悪の可能性として、袁紹と曹操が攻城に失敗し、挙句は董卓軍が出てきて叩かれることまで考えていた張勲も、連合軍で一、二の兵力を持つ二大勢力の軍が先鋒の今回、その可能性は低いと予想していたし、何よりこんなにも早く連合を崩せる力が董卓軍にあったことは予想外すぎて、対応が間に合わない。


「えぇい、麗羽は何をやっておるのじゃ! (めかけ)の娘風情には似合いの役じゃと思うて躍らせてやったと言うに、壁にすらならんのかえ!」


 一般的に小さな愛らしい童女と見えるだろうその容姿に反し、袁術が吐き捨てた言葉は従姉を見下した辛辣なもので、思い通りにいかない癇癪でもある。

 蜂蜜色の髪と深みのある碧色の瞳は袁紹と同じだが、煌びやかな従姉よりも更に華美な装飾――銀の冠や大粒の耳飾、蒼玉の首飾り他――で着飾る袁術は、その豪奢な容姿が連想させる高貴な印象を、袁紹と同等以上の高慢で上塗りしていた。


「孫策も孫策じゃ、何故前に出ておる!? あうあう!」

「本当ですよねぇ、こういう時に美羽さまの軍を護れないなんて……はーい美羽さま、ここは危ないですからあっちに行きましょうね。太守に危険は無用です」


 荊州は南陽郡の太守である袁術は幼く、その身分に適合した世話役が存在し、側近を兼任する彼女――先程袁術に"七乃"と真名で呼ばれた女、張勲がそれにあたる。

 その青藍色の髪に乗せた特徴的な帽子を片手で押さえ、空いた手で美羽こと袁術の手を握りながら歩き出す張勲の姿は、大将軍と言うより子供の引率に見えた。


「迎撃する前線が潰れちゃう前に、後曲は陣形を整えて援護に向かってくださいねぇ。その後は、諸侯の皆さんの軍が救援に来るまで持ちこたえるだけです。――敵将を討つために必ず各自動くでしょうから、心配せずに耐えきることだけ考えてください」

「御意! 親衛隊、袁術様と張勲様を頼む」


 血の気の失せた袁術を支えながらの張勲は、指示を出してすぐに、されども腕の中の少女を気遣い、親衛隊に囲まれたままゆっくりと奥へ歩き出し、後曲の指揮を預かる将は反対の方向へ踵を返す。


「美羽さま……もう大丈夫ですから。向こうで蜂蜜水をいっぱい飲みながら、孫策さんや麗羽さまへのお仕置きを一緒に考えましょうね」

「蜂蜜……うむ、うむうむ、そうするのじゃ。すごいお仕置きをしてやるのじゃ」


 紫の瞳を慈愛で満たし、己の主の背中を撫でる張勲からは、悲観的な雰囲気など全く感じられなかった。敵襲の報にも驚いただけで、袁術の傍で彼女の世話をしていられる限り幸せなのだから、悲観を覚えなかった、が正確だが。

 それはつまり、この状況でも精神的には追い詰められていないからこその泰然。この戦場で主君と自分が破滅する可能性は零であると判断してこその悠然。


 過度の甘さで袁術を浸し続け暗愚に育てあげた張勲だが、彼女自身は決して無能ではなかった。一途すぎる愛情をひたすらに主君へ捧げ、諌めるを良しとせずに主君の望むまま事を成す盲目性と、それを可能とする能力を有していた。

 愛する少女が地位と権力を欲したから、手早く望みを叶える方法として、悪辣だろうとそれが有効ならば構わず献策を行ってきた――張勲の行動はそれだけだ。


 盲目に囚われた愛とは悉く恐ろしく、また自覚出来ない気色悪さを生む。ただひとりのために他者と躊躇いを切り捨てられる境地は、武を全とする男や戦を食事とする女の心胆に近しい。――即ち狂人である。張勲もまたその類であった。

 これら狂人に共通した狡猾な部分は、知能を捨て去っていない点……つまりは、ヒトであるまま、狂った一点以外の理性を失っていないことにある。


 自軍の前線が敵軍相手にどれだけの時間を稼げるか。

 この状況を目にした諸侯で、袁術に恩を売ろうと動く者がどれだけ居るか。


 この二つの問題に時間をかけず答えを出せる張勲は、武力と統率力は別にしても知謀に優れていることは否定されまい。袁術が関わる事柄に対し、張勲は盲目であり、的確であった。失せた理性と残る理性を平衡させ事をこなせる、それが彼女の技量。


 もう一つ、張勲が答えを出した事項がある。

 曹操は多分に、袁紹はかろうじて程度に、敗走から立ち直れる者であり、自分達や他の諸侯が敵軍を抑え反撃に移れば、そこに加わってくるだろうということ。

 そして孫策は、確実に。






**********


「くしゅんッ……はぁ。孫伯符は美しい、って誰かが噂したかしら」

「言ってなさい。我等の策を瞬時に見抜いた曹操が笑っているのかもしれんな」


 必死に呂布・華雄隊を迎撃する袁術の軍勢を左後方から眺めつつ、鼻を押さえる孫策は軽口を叩き、周瑜は皮肉そうな笑みでこれに応え、甘寧と周泰は黙して指示を待つ。其処には、敗走の苦味から立ち直る以前に、負けた焦りすら無かった。

 見ればわかる。彼女達の表情は、ここまでの孫策軍の行動が計略だったことを雄弁に語っていた。


 ――時は虎牢関攻略前まで逆上る。


 事の起こりは、汜水関を抜き功を上げた孫策軍に、虎牢関攻略では連合後方に回れと通達が来た時である。孫策達にとって、自分達が後方に回されることなど、少々の問題はあれどそこまで深刻なものでもなかったのだが、汜水関戦に続いて袁術軍がまたもや後方に位置してしまうのは不味い事態と思われた。


「袁術ちゃんの軍が全く疲弊してないのは、むっかつっくなァ……」


 将来的な展望――孫呉独立を考えれば看過出来ぬ事態に孫策が苛立ちを零し、ならばどうするかと軍師将軍全員で知恵を持ち寄り対策を考え出す。


「公瑾殿。袁術を煽り前線に送らせることは無理か?」

「難しいな。袁紹を躍らせている側だ、高みの見物を止めはしないだろう」

「我々は戦功で名をあげましたし、今回はそれで満足しておきましょうかぁ?」

「えー、やだ。こんな機会は早々無いし、あの子の戦力削っておきたいのよ」


 様々に意見飛び交う中、汜水関のようにはいかないか、と誰かが呟いた一言が、周瑜の頭に引っ掛かる。汜水関で行なった策は、敵を関からおびき出し、引き込んで分断、攻撃……概要としては単純なものだが、これが彼女の閃きの一助となる。


「董卓軍を外へ引きずり出し、袁術にぶつけることが出来れば……いや、しかし。まず虎牢関から出撃させる餌、袁術の陣まで敵を呼び込む策……」


 このようにして一度切欠が生まれ方向性が決定づけられた以降、明敏な軍師と武将達の会議はそう荒れることもなく、採るべき策が定められた。


 その作戦とは、凡そ曹操が予測した通りのもの。

 後方から前線に突入することで現場の混乱を起こし、これを敵軍の好機とさせて出撃を誘う。関が開門されたら即座に転進、敗走したと見せかけて、後方の袁術軍まで敵を引っ張り攻め込ませる。袁術軍にある程度の疲弊をさせた後は、彼等が崩れる前に呂布隊へ横撃をかけ分断、これと対決する。


 この策の難は二点。

 虎牢関前の前線で起こす混乱を、餌だと看破されてしまう可能性。そして、見せかけだと見抜かれないよう、敗走中は敵の攻撃が届く距離を保つ必要性。

 しかし、この戦場で袁術の戦力を疲弊させるという目的を達成する場合、これら難点を含んだとしてもこれ以上に効果的なものは発案されず、孫呉はこの策を用いた。


 ――そして時を現在に戻せば、ほぼ無傷の孫策軍が在る。


「興覇、それに幼平。汜水関に続き今回もよくやってくれた」

「いえ。袁紹軍が長く殿(しんがり)にあったので、我が軍の被害が少なかっただけかと」

「はいっ、雪蓮様から撤退戦の助言も頂いておりましたので!」

「謙遜しなくて良いの。汜水関では崩しの要で、今回の虎牢関なんて、難しい退却指揮を成功させたんだから。二人共、良い経験を積めたわね」


 周瑜も孫策も、その顔に浮かぶのは微笑。筆頭軍師と主君に称賛されて、甘寧は冷静なれど口許を緩め、周泰は素直な笑みを見せた。


 今回の計画は、即時の退却による殿の押しつけが予定以上に成功し、董卓軍の鉾先を受け止め後方まで引っ張る役所が袁紹軍に移り、おまけに彼等が見せかけでなく本物の敗走をしたことで、すんなりと袁術の陣まで呂布達を突き込ませることが出来たのだ。

 袁紹を破り孫策軍を狙う予定だった呂布・華雄隊は、袁紹軍を抜いた先に控えていた軍が、孫策や曹操ではなく袁術の陣だったことに不満も驚愕も見せず、淡々と切り崩しに向かい、これを一気に潰してしまう方向に予定変更をしていた。


 しかし、孫策軍には只の一度も敵の攻撃が届かなかった、というわけではなく、その際にそれらを御していなす用兵で戦力消耗を防いだり、退却に真実味を持たせるための展開を主導したのが甘寧と周泰である。


「――さて」


 充分な働きを見せた二人から戦場全体へと視線を移し、ぽつり前置く周瑜の眼と頭脳は忙しなく――彼女自身にとっては通常通りに――動き続ける。馬を並べた隣でそれに倣う孫策はと言えば、蒼眼を細め笑みの種類を好戦的なものに変えていた。


 彼女達が沈思黙考する時間に比例して袁術軍の被害が増えていく。飛将軍に怯える声が孫呉の陣まで聞こえそうな様に戦況が推移した頃……孫策の前へ馬を進める兵一人。

下馬し礼をとろうとする彼の行動を呉王は手で制し、一連の礼節など省いて用件を疾く話せと態度で伝えれば返答は相応。


「陸遜様より伝令です。曹操軍、袁紹軍が体勢を立て直し、共に紺碧の張旗を狙い進みだした模様。また、後方より劉備軍と公孫賛軍が前進し、賈旗を分断するような動きを見せており、それ以外の諸侯も救援準備が整い始めるだろう、とのことです」

「こちらでも今確認した……頃合いだな。雪蓮」

「ええ。動くわ」


 従えし二万の兵を振り返らずに孫策、すらり、刀握った右腕を真っ直ぐ上げる。

 甘寧も周泰も、己がすべき指揮のため、既に兵達の先頭に戻っていた。袁術軍を蹂躙する真紅の旗、其を食い破る準備はとうに完了していたのだ。


「待たせたな、孫呉の兵よ。――我等これより横撃をかける! 目指すは呂布隊、奴等を華雄隊からも分断し、袁術軍を救うと共に、飛将軍を地に落とせ!」

「甘寧隊、心せよ! 我等こそが、精強だろう呂布隊を切り離す先陣を務める!」


 軍師の檄、特攻の檄、双方が兵士に気力を漲らせ、そして王は剣を振る。

 熱気を裂いて向けた切っ先、言う間でもなく。無双と謳われる紅へ。


「――――駆けよ!」


 雪崩、津波、土砂……そういった自然災害に例えるには、孫呉の初撃は戦意が強く、かなり攻撃的であった。孫策の号令は軍を焔の群れと変えるに一分の不足も無く、甘寧隊の猛突撃はさながら騎馬までもが攻撃意思を燃やしたかのように激しく鋭い。

 万の兵士が斬り込む様相は、巨大な弩が放つ矢の如しか。狩猟に勤しんでいた呂布隊という獲物を一矢で慌てさせる強烈な横撃、喰らわせんと孫呉が迫る。


「……あれは孫策軍!? 復帰が早いのです、おのれ!」

「良し、喰い込んだ! 突き抜け、裂き断て! 甘旗全てで刃と刻め!」


 先駆し先頭に立ち無言で戦い続ける呂布に代わり、後曲で隊全体を統制していた陳宮が歯噛みしながらも対応指示を矢継ぎ早に飛ばすが、既に甘寧隊の鉾先は董卓軍最精鋭たる集団に捻り刺され、敵意の奔流となって流れ出していた。

 やがて陳宮の指示で全体が横撃に気付き対応に走るが、流石の強兵呂布隊と言えど、研ぎたての刃が如き甘寧隊に抉られた傷を塞ぎ除けることは困難であった。


 しかし。

 この結果まで見えてこそ、呂布隊の軍師が務まる。


 それを裏付けるように、特攻を率いて只管に分断を慣行していた甘寧がいつしか疑問の呟きを落とし、そして自分で正解に至った。


「む……手応えが急に温くなった? ……違う! 切り替えが速いッ!」


 陳宮はまだ幼く、歴戦の軍師達と比べれば冷静さと洞察力に欠けたが、常に呂布と共に在った彼女には特筆すべき秀抜さがある。


「ふーう。少しだけでも間に合ったのですぞ。さぁ、呂布隊の精鋭! 指示通り、華雄隊との分断を敢えて通した屈辱を、我が隊の後曲は補助や予備隊とは違う、前衛と同じなのだという誇りと共に、反撃で返してやるのです!」


 それは、現場判断による即時対応力の高さ。

 考えなしでは無いが、説明を省き、野生の獣に近い"嗅覚"のような感性を頼りに動くこともままある呂布を補佐し続けてきた少女は、ことこの一点に関してだけは、一流の指揮官と肩を並べていた。唐突な行動や事態は常のことだ。


 横撃を受けると理解した瞬間に、陳宮は指揮が隊全体に届くまでの時間を考えて命令を選び、状況に適した反撃策を飛ばしていたのだ。

 突出した呂布達を敵方が前線で受け止め、その隙に別働隊が背後や横から呂布隊へと槍を突き込もうとする流れは、過去の戦で何度か受けていたこともあって、伝令や兵士が手間取ることは無く、挙動も滑らかである。


 呂布隊後曲が早くも反撃の狼煙を上げる反面、汜水関で孫呉の横撃にそれなりの対応が出来ていた華雄隊は、だが今回そう上手くもいかなかった。

 と言うより、前線指揮官が華雄に変わった故に柔軟な反応性が減って、元々高かった攻撃力と突破性能を更に底上げした方向性をとっていたので、分断策には抵抗など見せもしなかった。長である銀髪の女傑が、孫呉を一瞥し吼えただけだ。


「来たな孫策ッ! だが今は袁術だ。このような弱兵を突き破るなど、我が隊だけでも何も問題などない。それから返す刃でその頸……我が斧で刎ね砕いてくれよう! それまで呂布に殺されずにいろ!」


 出来ない相談かもしれんがな、と繋げるはずの言葉を華雄は口に出さず切った。呂布とその配下の実力を知っているので無理な願いだという認識があっても尚、強者である自分に敗北を突きつけた孫家の強靭に、幾許かの期待を抱いていた故に。


 必死に守勢を保ち更なる増援を待つ袁術軍と、させじと攻める華雄隊。

 先鋒に袁術軍を叩かせながらも、孫策軍の強襲にすら対抗する呂布隊。

 分断に成功するが即時対応され、奇襲から対決へ転換を始める孫策軍。


 だが、この四者の中で急激に色を変えた二者が、流動するその複雑さを一変させる。互いがいずれそうなると予感していた単純明快、一目瞭然。

 双方の軍師が、通常ではありえないそれを策に取り入れるほどの明確な衝突。己の龍に絶対の自信。起こるべくして起こった。天眼通が不要の先見。


 こうして戦域・虎牢関は、その姿を天王山へと変えていく。

 色は二色。






「……おまえか」


 紅と、


「応」


 黒。






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