新聞記事見て、おびえる日々
H21年の秋〜冬頃と覚えてるが…
ふたつほど、新聞のTV欄で、引っかかるものがあった。
私は…だいぶ前の”戦国某ゲーム”テレビCMで、”白い羽根ヒラヒラ舞い降りてくる、長髪美形キャラ”が”明智光秀”と、何年も気づかなかった人間だ。
その私の目に、「◯HK朝の連ドラ”つばさ”」の文字が目に入る。
いや、最初は気にしてなかったのだが…
「(初回だけ偶然見たが)、ドラマは、ブラジルがなんかコンセプトみたいだし、別の意味のタイトルだよ」と、思ってた。
ところが…年末に、”総集編”の一部をたまたま見て、”げげ!?”となった…理由は長いので、後日書くとして。
もうひとつは、民放某局「サムライ☆ハイスクール」だった。
「現代ダメダメ高校生が、戦国時代の侍の霊?にのりうつられて…」てな、内容と覚えてる。
通常なら、”やっぱ、歴史ブームだからなー”で済むハズだ。
ところが、私はこの頃、既に”妄想の細川幽斎氏”に怯えて…ないか。泣きわめかれて、ヘトヘトになってて、
「藤孝(=幽斎)さん、ダメじゃん!!なんで放送局のドラマにちょっかい出すのさ!?」とか、脳内で文句たれていた。
「サムライ〜」は、どうしても気になって、最終話だけ観てみた。
「黒髪オカッパ+アンティーク(風?)着物女性キャラ」がいて…おっかなくなった。
自分の小説の”大村ユ〜コ”が、まさにこんな感じだったからだ…病気といえ、自意識過剰もはなはだしい。
(*”考想伝播”=<自分の考えが、世に広まってしまう、という妄想症状>の一種でしょうか?単に、私の発想のひねりが足らないだけな気も…)
小説をサイトに載せて戴く前は、私も幽斎氏もボロボロだった。
”幽斎氏”は、和歌並みに、切れとリズムのいい文章しか認めない(と、私が勝手に思ってる)。
又、「なかなか、明智さん方への”ラブコール”が実らなくてイライラしている」ように見受けられた。
例のおトボケ小説「十兵衛さん」1〜3話まで、一気に入力した。
下書きだけで、えっらい長い(←自分のせいだが)、文章を何度も訂正させられる(←自分でしてる)。
調査のいるネタも多い。本業だって忙しいのに、睡眠時間削って、必死に訂正・入力した。
何をとち狂ったのか…以前、ブログを書いておられる上司に、”小説、ネットにのせようかと”などど、暴言を吐いてしまっていた。
なぜに、自分の首しめる、こんな発言したのやら…これも”やらされ”…てワケないよな。クチが滑ったのかな…
なんとか、1〜3話は、アップ出来た。
…で、へたばってしまった…
「やっぱ無理だよ藤孝さん!残業後に、こんなん続けてたら死ぬよ!”明智さんラブコール小説”なら、私じゃなくてもいーじゃんか!!」
この時は、脳内の”幽斎氏”、憮然と、両手組んでおった。
脳内の”私”は…また、妙に若くなって、オレンジのふわふわセーターだか着て、わんわん泣いていた。
「現実の私」は……PCによる疲れ目で、眼がにじんでくる”だけ”だと思っていた。
’小説アップ”の数日後だが…ぶっとんだ。うちはM新聞なのだが…
朝、ぺろぺろ新聞めくり(当時はまだ読めたのだ…)中位のページ見て、硬直してしまった。
1ページに、でかでか”十兵衛”と、印刷されておったのだ。
「”柳生十兵衛”ドラマ化記事」とかではなく…著名人による、読書週間の啓蒙記事らしかった。
”十兵衛に力をわけてもらった”的な文面。じつは、全く無関係の、”小説のなかの十兵衛さん”だったのだが。
「藤孝さ〜ん!新聞使って、圧力かけるの止めてくれ〜!!」
心の中で、悲鳴を上げた…この時は、ドーパミンの為か…本気で怯えてしまっていたのだ。
脳内の、細川幽斎氏、マンガ姿のまま、目ェつり上げて、仁王立ちで、(誰も読んでくれなさそうな話を)
「書け〜ッ!!」と、命令してくる……
更に数日後の、M新聞。
今度は、TV欄見て、青くなった。
「ーこれ?」と、脳内で、居座ってる幽斎氏に振ってみた。
「コホン」と、せき払いする、坊さんルックの細川幽斎氏。
新聞の、番組トピックス、◯HKの「政治の歴史」的な特別番組を紹介しておった。
カラー写真の、元首相(現・陶芸家)、細川護煕氏の御尊顔がー
「行き詰まっているなら、番組をネタに書いてみろ」と、またコホンとやられた。
「政治ネタ×本能寺、かぁー、シブいなぁ」といいつつ、番組を観てみることにした。
(*◯HKの番組編成は、別に、私も”幽斎氏”も無関係です。当たり前か。しかし、タイミング良すぎました…上記のM新聞の2件は…
私は失礼にも、元首相そっちのけで、ファンだった元幹事長にかぶりついてた覚えが…)
引っ越しした、現在の家と、前の家は、全く同じ間取りだ(同じ敷地内の建物なのだ)。
がー今の家、午前4時とか、上の住民さんが動かないのに、やたら家鳴りする。
「…ラップ現象じゃないでしょーねぇ!?」と、怯えはじめてしまった。
また、私は「◯HK特番」の影響か…さらに想像力がひねくれてきてしまった。
「そういえば、元首相、”たったおひとりで”政党(日本新党)立ち上げて、首相になられたんだっけ」と、思い返していた。
当時、”革命”起こしたと…いえなくもない。日本の政界に。
「いくら待っても、白菊…じゃなく、光秀さんが蘇ってくれない…御先祖様(=幽斎氏)が待ちきれなくて、元首相おひとりで政界入りさせたのかな?」
別の本を思い出し、慌てて探した。
文庫「細川幽斎」だー
”広瀬隆さんの”とは別の、家系図が載っていたハズだ。
…「綿考輯録」の為か、基本、外部では、細川さん家はずっと「逆賊・光秀…」路線できておられる気がするが…
幾度か、雑誌等に出ていらっしゃる方なので、お名前出すのをお許しいただきたい。
「細川さん家、護貞さん→護煕さん→護光さん(陶芸家)??…ムッチャクチャ、”明智さん”意識されてないか!?」
脳内で急に、今度は悲しげな声(て、音声じゃないのだが)がした。
「護ってやりたかったんだ…」
涙ぐんで、頭を下に垂らした坊主姿の、細川幽斎氏が、頭の中で立ちつくしていた。
お名前は、”米原万里さん理論”(音をふんだりしちゃうとか)の結果かもしれないがー
私の意見は違うのだがー
「幽斎氏」はどーなんだろ?
異母弟・将軍=足利義昭氏とは、仲がこじれてっぽかったが、元々は室町幕府の高官…というか、「足利藤孝(←と広瀬隆さんは書いてもいた)」といってもよい存在、”誇り高き”足利家/幕府をズタズタにした<存在>は…許せないのがフツーでないか…?
「”本能寺の変”は…”革命”だった?」と、幽斎氏に振った。
返事は無かった。
「藤孝さんにとっては…幕府の再建とか…”敵討ち”的なものだった?”本能寺”に、参加予定だった?」
やはり黙ったままだ。
”親友”というが…信長政権下でも、どこかで、現実の主従関係は、「藤孝>光秀」だった可能性もある。細川幽斎(藤孝)氏のセレブな出自を考えると。
光秀さん側が、藤孝氏を、陰で丁重に扱っていたのかも。
「直江兼続宛の書面」だかあったよな?…と思い出してた。
「もしかしたら、元家臣・光秀さんが担ごうとしたのって、”藤孝さん”自身…?」
そんな事ねーか…とも思ったが…細川家に残る、光秀文書だと…”ムスコ細川忠興クン、他に天下を…と取れるものがある…
幽斎氏、マンガ姿(へうげ、じゃないですヨ)のまま、遠〜くをみつめたままだ。
安土時代に「一色義有」という戦国武将がいた…生年、没年ともに「不明」だそうだ。
が…文庫「細川幽斎」(綿考輯録をもとにされている)には…「細川藤孝の娘ムコ」として出てくるのだ。
さらに、「細川ガラシャのすべて」という本によるとー
藤孝氏娘・伊也さんが(光秀さん仲介の形で)一色義有氏と結婚したが…細川/一色両家は仲が悪く、
一年程で、伊也さん、細川家に連れ戻されたというのだ。幽斎・忠興父子の「一色義有氏殺害」という形で……
ああみえて(?)細川幽斎(藤孝)氏は、戦国武将だった。
本気で、”光秀さんのやった事”に立腹してたら…<山崎の合戦>当時、父子で”剃髪”なんかで済ませなかったのではないか…?
世渡り上手、というより、<憎くなくとも”剃髪””中立”しなけりゃならない事態>が、なにか、あったって事なのだろうか?
その後、秀吉サンに甘やかされちゃうような”なんか”が…
「護ってやれなかった…」
幽斎氏、つぶやいて、またしょげていた。
光秀さんか、ガラシャさん含む”明智さん一族”かー声は(音声はねーのだが)沈んでいた。
”本能寺”から、60年位して成立したという書物、「当代記」(1629〜1644年)。
著者は、松平忠明氏、というから、筋金入りの”徳川大本営”のハズだ。
この「当代記」で、光秀さんの”トシ”が変、とは、前に書いたが。(強調するよーに、2度も書いてあるし)
で、「当代記」で、細川幽斎氏、1610年・没。
死亡記事がありはしたが、「10年前からぼけちゃった」的、コメントに困る書き方されていた。
1610年の10年前…というと…「細川ガラシャ死亡」「田辺籠城」そして、「天下分け目の関ヶ原」の年である。
1600年の後も…幽斎氏、”和歌”を残しておるよーに思うのだが…
この「当代記」と別のベクトルで、故・細川幽斎氏にいちゃもんがきていた。
実の息子(長男/細川ガラシャのダンナ/2代目細川家家主)・細川忠興氏である(当時、70代後半)。
こういう言葉を、ご覧になった事はないだろうか…?
「自分(=忠興)が、細川家初代だ。幽斎なるものは三淵家の出でー」で始まる、
「幽斎は、細川家とカンケーない!!」と言わんばかりの、長男坊の冷たーい文章。
いや、きちんと、こちらの細川さん初代は、細川幽斎(藤孝)氏。忠興氏は”2代目”です。
「幽斎ボケちゃった」当代記と、「うちの初代ちゃう〜ッ!!」忠興文書(1641年12月)。
当代記も、ラスト近いこの「1641年」は…徳川さんにとって、嬉しい年だったハズだ。
同性愛者とも言われた3代将軍・家光氏の、おそ〜い子供(4代/家綱クン)誕生が、8月にあったのだ。
<家光の世>当時の徳川・細川御両家にとって…もしかして、”細川幽斎氏”は”関わったと思われたくない人物”だった??
遠ざけたがっても見えるのだ。
もし”本当に関係ない”なら、な〜んも表明しないほうが、悪目立ちしないだろうに。政治と一緒で(て、当時の政治かこれも)。
明智光秀と、(初代)徳川家康が近い(この場合は年齢?)と思われたくない、と同時に、
細川幽斎と、徳川家康、現・細川家(=忠興)が近いとも思われたく…なんて事、あるんだろうか?
勝龍寺城籠城の後、殺された光秀さんに口はない。なにも言えやしない。
だがもし、<明智・細川・徳川>で、”本能寺・他”の予定だったとしたらー
やっと念願の”お世継ぎ”の生まれた徳川家にとって…”細川幽斎”はどう、うつってたんだろ?
徳川内部に、春日局(=斎藤福/光秀重臣・斎藤利三の娘)とその家族を抱え、
細川内部に、ガラシャ(=明智玉子/光秀娘)と子息達、明智秀満の息子、少也(ガラシャの姪/忠興側室)、井戸良宏(光秀姪ムコ)一族を抱え…それでも’関係ない”のだろうか??
あとー更にひねくれれば…
<山崎の合戦>当時、本当に”勝龍寺城”の所有者は、”バクゼン”としてんのだろふか?確かに、お城=軍事施設だ。とったりとられたりしてたがー
「永青文庫」の名のモト、”細川700年の歴史の象徴”ともいう、青龍寺城=勝龍寺城が…
脳内の、幽斎氏は、相変わらず、打ちひしがれていた。
「…護ってやれなかった…」と、泣き出してしまっていた。さっきの勢いはどこへやら、だ。
あまりに泣くので、仕方なく、文庫「細川幽斎」の肖像画の所に、会社で勝手にプリントした「明智光秀肖像画」をぴたりと挟んだ。
帰宅して、更に、母に部屋に貼ってた「仏様プロマイド」も挟んだ。ぴーっちり袋にいれ、よく、お祈りしてみた。
「ふたりが仲直りできますように」と、だ。まるで私は幼稚園児並である(涙)。
ヒトの事は”傘持ちクン”レベルでこき使うがーなんか可哀想になってしまった。
幽斎氏は、何故かエリ元に、黒い生き物(トカゲ?)をはさんでいた。まだ泣いている。
ー協力してやるか(なにを?)と、少しながら考えるようになってしまった。
自分が現在”統合失調症”で、<架空の霊>とやりとりしてると思わずに。
万が一、本当としても”どー考えても、明智さんサイドにメーワク”な協力行為と知りながら。
この時点で、「近々”幽斎氏連れ”で(?)光秀さんのお墓参りしよう」と考えていた。私の小説モドキの取材兼ねて。
実態は違うにしても…この時の”幽斎氏”は、私にとって”騒乱霊”状態だった。
「みつひでー!」と叫ぶ、人を茶化して笑かそうとする(たまに)、「小説書け〜!!」と命令する…
なんとかして、穏便に”成仏”して欲しかった。