”PCで自動書記”ってアリ!?
私の職種は、デザイン関係ーといってよいのかどうか。
東京都某区の、ビルにはざまの”細〜いビル”がある。ツタが結構からんでいる建物の3階が、私の勤め先だ。
うちのデザイン会社…としとこう。近辺の店舗の広告デザイン等を手がけてはいるのだし。
”なんとか生きてます”てな感じの、9名程の小さな会社だ。
その3階の、ツタがスダレ状になってる、薄暗い窓から地上を見ると、ブランド服で武装した老若男女も行き来しておる。(H21年の中頃当時)
私は…服は好きだが、ブランドは苦手…以前に、ショートの髪はよく寝癖ついてるし、メイクも苦手だし、散々な状態だ。
「気に入れば、古着でも構わず出社する(←今ならいらっしゃるかな…)30代オバハン」と、上品な”下界”との落差に、クラクラする。
前の席で先輩が、「◯◯ちゃん、銀座にマンションなんか買って、生きていけんのかなぁ」と笑っておる。
と、先輩に、身体を揺すられた。
なんか…意識が遠のいてたらしい。居眠りでなく。
「…眼が一文字だったぞ。今日は残業せず帰ったら?」
先輩の、束ねたロングヘアが視界に入った。
ヒトに言われる感じだと、私のカオは”暗めで年齢不詳気味”、眼は比較的大きいらしいが…「目つきが悪い」そうだ。どうしたものか。
その、悪い目つきのうえに、メガネのせたまま、席を立った。
「早めだけど、弁当買いにいきまひょ」と、先輩をさそった。座った状態だとまた、眼が一文字に戻りそうだった。
残業せず、フツーに帰宅しても…
「私の、光秀への、溢れる思いをネットにのせろ〜!!」などと、ボーズの亡霊(?)がだだをこねる。
四六時中とまではいかないが、なかなか気が休まらない。
母の事も。家事もある。ま、それはフツーだが…
あの「おトボケ小説」…いつのまにやら、下書きが”幽斎氏出まくり”の”あれ”…
ヤツが、”自分好みの関連本”ばかり読ませたがるから、いつしか”幽斎寄り”の話にバケつつあった(涙)。
道一本先の、中華レストランへ、先輩と一緒に向かった。道をひょ〜い、と渡る。
その時点で、少々私はヨレ気味だったらしい。
「二日酔いか?」と聞かれる始末だ。ま、そのレベルの評価なのかな?
「いや、会社のPCと相性悪くて…」と答えた。
「早よ、新機種買ってくれんと、ゼッタイ仕事無くなるぜ」と、先輩。
ただ、そう言いつつ、心配かけてるようだ。
今やってる、紳士服店のチラシを終わらせて…さっさと、帰れるだろうか?ほかにも、色々残ってる仕事が浮かんでくる。
先輩に、腕を掴まれた。
電信柱に衝突、という、「ドリフ」並みのなつかしいギャグを披露するところだった。弁当は無事だったが。
結局、まーた残業した…窓から、外部のあかりがチラチラしてる。
悪いが、”会社にいるうち”に調べたい事があった。帰ったら、また”オバケさん?”が熱心に訴えてきそうだからだ。
<明智光秀さん御関係者様>の、HPが存在するらしい。できれば”オバケさん?”イジメに活用したいと思ったのだ。
(いや、きちんと”勉強目的”もありましたが…自宅まで体力が持たないと思ったもので)
PC使用料・他は、残業代と相殺してもらおう。
当然な気がするがーこちらの御関係者様は、徳川家康氏には、好意的とお見受けする。
後世、<ねつ造>文を発行した(らしい)徳川家といえ、なんとなし、イエヤス君は、”明智光秀さん”に感謝してそうだ。
(そういう御意見、確かにネット上でお見かけする。)
だからこそ、色〜んな伝説が、今も(光秀天海伝説、カゴメ伝説、家光名付け説に、春日局とか)あるのだろふ。
<徳川家康&細川幽斎>を、”本能寺の変協力者候補として上げておられるが…
御関係者様、幽斎氏には、なんとなくキビシイ御意見をお持ちな気がする。これも、仕方ない気がする。
詳しくは……と書くと、バレバレですネ。ですが是非、皆様に読んで戴きたいです。
”演出”かもしれないが、「へうげ」でも、”明智光秀に援軍を送ろうとしたが…”と描かれた、徳川家康……
私は、歴史はニガテだ。色んな角度・尺度で見ないと、判断出来ない。
<本能寺の変>後の細川家”ガラシャ幽閉”の件に関しても…
①<逆賊・光秀>の娘を、世間から隠したい。
②夫・忠興の”愛情”ゆえ、世間の逆風から護りたい。
…正反対のゴイケンがある。政治的な駆け引きもあったろうが、こうなると、判断が難しい。両方正しいって事だってありえるし。
後日、さすがに自宅だったが、「光秀氏御関係者様の掲示板」に失礼ながら、書き込みさせていただいた。
だが…やった本人が、首をひねるネタだった。
自分が予想もしなかったネタ(しかも、非実用)を書きたがる、のだ。
これも”やらされ行動”に該当するようだったら、申し訳ないかぎりだ。
①’96年発行、朝日新聞社「植物の世界」No,99。
(表紙は、空色、雪の白、花のカラシ色、タイトルのオレンジ色)
「家紋特集」があり、「明智光秀のものとされる、桔梗紋の裃/ハカマ」現物写真が載っていた。
永青文庫(=細川家)蔵、となっていた。現代でも大事に保管されていた、という事か?
②現代の、狩野派の方のHPを勝手に紹介。
細川、明智両家とゆかりが深い、と、独自の「家系図」を載せておられた。
どっちも「実は明智さん、細川さんととってもナカヨシなんだよ?」と言いたげな、余計なお世話的書き込みと思う。
実は、送信してる自分じしん”なんでまた?”と、悩んでいた。
しかも…お返事を有難く、戴いた。のに、その「お返事」の文字から…
私には、”勝手”に…なにやら<怒りのオーラ>みたいなものが”見える”のだ…PC画面から。(本当に怒っておられるかもしれないが…)
③この時は、あたりさわりない(=細川ネタでない)書き込みをさせていただいた。
(ただし、何故書き込んでいるかは、本人も不明。)
しかも、「手が勝手に」!動いて、「無記名のまま」送信してしまったのだ!!
「ぎゃ〜ッ!!」と、本当に叫んだ程、びっくりした。
「う〜む、どうも、光秀(?)の対応が優しくない」
(*↑ちゃんと、丁寧なお返事戴いてます!!出てくる”幽斎氏”は、どうも、”光秀さんの指示で、御関係者様が動いてる”と思ってる、という<設定>らしいです。)
「ここはひとつ、”誰だか解らない”形で送ろう。それでも”自分と解ったら”、やはり、彼は”光秀の支配下”だな(??)」
…こんな形で、計算?しているらしかった。脳内で、私(=幽斎)VS 御関係者サマ(=光秀)、と、勝手に話を進めているのだ、
私自身は、全く何も考えていないで動いていた。のに。
ただ…本当に、”元・戦国武将のオバケ”が取り憑いてやらされてる”と思ってるほうが、<理由>が飲み込みやすかったかもしれない。当時を振り返ると。
(*↑あくまで、統合失調症の症例として、お読み下さいませ)
これとは別の日だったと思うが…同HPを深夜、見てみようと思った時だ。
御関係者様の、御写真が載っている、とあった。御尊顔を知らなかった私は、いそいそ場所を探した。
「…うっ…」
言葉に詰まってしまった。
いや、”御写真”は、全く問題はない。<上品な方>が画面に映っていた。
どことなく、”光秀さん”の面影を持っていらっしゃる気がして、個人的に嬉しかった。
そういう問題ではなかった。
深夜のPC画面の”かたのお顔”が、みるみる”立体的”に見えてきたのだ。
ヘアスタイルも服も、完全に現代風なのに…段々と、顔が若返り、更に、見覚えのある目鼻立ちになってゆくのだ。
しかも、目がにらみ、頬が赤くなって見え…更に又<怒りのオーラ>が、画面から、吹き出して見えるのだ。
そう…唯一残るあの「明智光秀肖像画」が、怒っているように…見えたのだ。
自覚ないまま不眠気味だったらしいがー会社には、休まず通っていた。
ただ、心身ともにヘロヘロだった。
気づけば「オバケ幽斎(?)」に付き合わされて、「PC開け〜!」だの、「小説で、私の言い分を発表しろ〜!」だの賑やかだ。ムチャクチャだった。
睡眠時間は、平均4時間…この位の方も、結構いらっしゃるから”不眠”とは思っていなかった。
ただ、”幽斎氏”に(一部、霊の動きやすい、と言われる)「午前4時前後に叩き起こされる」事が多く…やはり疲れは溜まっていたのだろう。
(*”統合〜”の原因のひとつが、<不眠・睡眠不足>と、しつこく書いてますが、症状のひとつに<午前3〜4時に起きてしまう、というのは、よくある事だそうです。)
細川幽斎氏は、「家康なぞに負けない位、自分は光秀を大事に思ってるも〜ん♪」とばかりに、色々と振ってくる。
私に、本を読ませ”ここだ〜ッ!!”と、指さしてきたりする。
「日光東照宮が!明智平が!”秀忠と家光”がなんだ〜ッ!!」と、ライバル意識むき出しなのだ。
そんな、”他人にゃどーでもええ事”を、と思う私に、一方的・熱烈にアピールしてきた。
「光寿院(=妻・沼田麝香さん)と、秀林院(=ヨメ・明智玉子 or 細川ガラシャさん)で、”光秀”だー!!」
”本”指し、エヘン!と、胸を張るのだ。人の脳内で。ボーズ姿のオバケさんが。
「……はァ…(ガラシャさんは、モノホン光秀娘だぞ。ヒキョーでねぇ?←心の声)」と、私。
この時、幽斎氏が指した”本”は、「細川ガラシャのすべて」(新人物往来社)だ。
私は、この御本、この件よかよほど、「光秀氏正室・妻木煕子さん」の”享年”が気になった。2種、書かれていたのだ。
①天正10年6月17日、坂本城で死亡。享年48歳」
②天正4年6月7日(つまり、本能寺の6年前)、病死。享年36歳」
一説に、「大和の、筒井順慶に、次男(4男説も)を預けようとした」説すら聞いた事のある、明智光秀・妻木煕子夫妻。
”本能寺”当時、36歳くらいでないと…ヒロコさん、享年10〜11歳位ときく”次男さん”授かるのは、難しくないか?
現代医学のない、400年以上も昔の話だ。早婚・早期出産が一般的だった時代でもあるし…今と違って。
それに、<ヒロコさん病死>とされる年の”病気”の後、「兼見卿記」の、とうの兼見氏が、ヒロコさんお見舞いに出向いている。
第一、ヒロコさんが”病気”と記されているの、天正4年の”10月”だ。
更に…「兼見卿記」で、”ヒロコさん妹御”死亡記事があるのに、当の”ヒロコさん死亡”、は、一言もない。
どうとったものだろうか??
なんか、事情があって…”本能寺の年””36歳死亡”が、隠された?で、わざわざ墓石を別に造った??とか思ったのだがー
光秀・ヒロコご夫妻、<光秀さんが、6〜7年、年上>と伝わっている。
ヒロコさん<36歳>に、6〜7歳足すと…光秀さん、「42〜43歳」になっちまうのだ。享年が。
明智光秀、通説、享年55 or 67歳と文献のある人物だ、
私も、半信半疑だがーこれで、もし「享年43歳」を入れると…「みな、干支は一緒」にならんだろうか?(で、家康氏と年近くならへんか??)
光秀氏、「前半生不明」といわれる。
(タイムラグなし”多聞院”の<細川藤孝/幽斎に仕えていた>は、本当だろうが、ず〜いぶん後年作の文献<朝倉仕官・斎藤道三血縁者>は、疑う必要もありそうだ)
もしかしたら…光秀氏、「そんなに前半生長くなかった(=若かった)から、前半データが残ってない」可能性はねーだろか…??
オバハンの日常生活をムシして、今日も細川幽斎氏は元気が良かった(私は土日もへたばってた…)。
「ホラ、ここを読め〜!!」
指さすは、先日、地元古本屋で買わされた文庫「細川幽斎」(細川護貞氏・著 中公文庫)だった。
読む気も失せる、和歌集のタイトルは、幽斎公の「御教戒の御歌」。
上から目線?で、奉公人たるを延々つづる、60首以上の和歌…故・米原万里さんなら、ギッタギタに刻みそうだ。
その、和歌の一部で、幽斎氏、さめざめ涙を流すのだ。
「光秀は、陰で、いつもこうしてくれていた。”本能寺”の後、世間の目があり、こんな形でしか心を残せなかった」
オバケ幽斎氏が指したのは、60首以上の和歌の、ほんの3首だった。
たったひとりの主の心を叶える事は、千人、一万人の気持ちに匹敵する。
主の好む事を、みずから好む事でこそ、幸せが生まれる。
内々の、主の言葉は、大して隠すほどのものでなくとも、漏らすな。
ムチャに訳せば、こんなノリだろうか…?
うちに出てくる細川幽斎氏、織田信長氏(主君)と比べられるのを、えれ〜嫌がる。3等身にちぢこまって、手足をバタつかせる。
同い年のハズである。”人間49年”で幕を閉じた信長氏と、長寿だった幽斎氏、同年生まれでなかったろうか?
光秀氏のトシが、いまいちハッキリせんが。
(通説だと、信長&幽斎両氏より6歳上…だが、私の説?だと、6歳年下になってしまう…)
「そーいや、幽斎(藤孝)氏、光秀さんとも、安土当時の”一流文化人”で名高いらしいし、和歌、連歌、茶の湯と、趣味が一緒だったんだよな?」
実態は、どっちが”主”かわからんが。通説には”親友”とあるがー
ま、藤孝氏、<光秀ったら、主の自分とシュミが一緒なんて、かわい♡>とか、喜んでたのかも知れない……
私は、ネット情報をチラと拝見しただけだが…
幽斎、いや細川藤孝氏、すさまじい勢いで(?)光秀さんの出ておられる茶会他に出席しまくってた、て情報があった。
怪しまれていた。(??)
すさまじいので(なのか?)一部の方に、、いわゆる「腐女子好み」的な見方される事もあったようだ。
「逆賊・光秀を見限ったおりこうさん・幽斎」てな世間の評価と”真逆”な<幽斎像>をもつ方々もいらっしゃるのだろう。
細川大本営「綿考緝録」を、”疑いなく読む”と、ムスコ忠興が戦場でほめられては泣き、「青しない」で家臣達が出てこうとしては泣いて止め、ムコ・一色義有とは懇意で、明智光秀さんに、「信長様に頼っては?」と(既に信長氏と面識ある時期なのに)勧められとる事になる。
メインの編集時期は、ひ孫(細川光尚)あたりだったから、ひいじいちゃん、会った事もねーのに色々”ねつ造”された可能性が高いのだが…
(私は”綿考〜”は未読だが…”よく泣く細川幽斎氏”のイメージは、ここらが震源かも…)
(*筆者、病院に通うのは、もっと後になります…。)
「”唯ひとり主の心に”…かぁ」
”信長でなく、光秀は自分のだ〜!!”と、相変わらず泣き怒る、細川幽斎氏。
「信長サマに、実はすっごく、”恨み”があったワケ?」と思いたくなる騒ぎ方だった。
これもレア意見だろうがー”細川幽斎が、光秀氏のフィクサーだった”説もあるのだし。(私は、一応、この派なのか?)
脳内の”幽斎氏”は、ぐじぐじ泣くだけで、返事がない。色々、思いだしてみた。
①信長氏に、元家臣(幕府じゃ部下)・光秀氏の”下”につけられた。
「…”本能寺”前まで、何年も、仲良く遊んでる(?)からなぁ…内心はどーなんだろな?次!」
②信長氏、自分の誇る(出自にも、立場にも関わる)室町幕府に、壊滅的打撃を与えた。
「…自分で、足利義昭将軍(異母弟)から離れて、信長サイドに来たんだっけ?弟憎し!のが先だったかもしれんが…ま、怒ってたかもね。次…」
③信長氏、義兄・三淵藤英氏(+長男君)を、坂本城で切腹させた。
「…他の子、細川家で引き取ったんだっけ…光秀さんとも仲良かった藤英さん…(涙)」
…ま、なんとなく(世間へのアピールは別にして)、信長氏を、潜在的に、恨んでてもおかしくない気がする、幽斎氏。
茶席やなんかで、結構、光秀さんにグチってたりしたのかね?とか、勝手に想像を膨らませられるが。
幽斎氏イトコ・吉田兼見(兼和)氏は、朝廷サイドの人物だ。
「兼見卿記」別本、”光秀謀叛”でちょっと、ハシャイでるよう読めるのは私だけだろうか…?
当時、朝廷の力は弱まっていた。
そこへ、ヤンキー系武将・織田信長が、天皇家をも恐れず(違うご意見もあろうが)君臨しておった。
「てっぺん(=天守)に住んじゃったり…信長氏、超おぼっちゃま・幽斎(藤孝)氏には、目の上のタンコブ…?」
400年以上前の実態なんか、私にゃ解らない。
脳内で、ちびっこくなった幽斎氏、「みつひで〜ッ!!」とか叫んでるし…イヤになる。
このあたりは、まーだ、”歴史的事実”が関わるので、マシなほうだ。
後に、色々出てくるのは、更にトンチキな説ばかりだ。
本当に”万が一”オバケ幽斎が実在して、これらを<実行>してたっつーなら、
「なに考えとんじゃおめー!?」と一発、どついたろう。
……しかし、「私の脳内のモノで構成された(=統合失調症の妄想)」と言われても、私は途方に暮れるだけだ。
私は、次に出すネタを忘れていた。第一、ネタが古すぎる!!
何故、インパール作戦だの、東京大空襲だの、原爆開発(そういうノンフィクを読んでいた)が出ず、”これら”が出てきたのだ…??
今もって、ナゾである。