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婚約破棄ですか? では、殿下のお仕事も返却いたしますね

「リディア・レオノアール。無能なお前とは――婚約を破棄する!」


 舞踏会場に、どよめきが走った。


 けれど。


「えぇ。承知いたしましたわ」


 即答だった。


 公爵令嬢リディアは、微笑みさえ浮かべて頷く。

 あまりにも迷いがなく、あまりにも静かなその返答に、周囲が一斉に息をのむ。


「……は?」


 セドリック殿下が、間の抜けた声を漏らした。


「では、併せてご報告を」

 リディアは一歩前に出る。


「これまでわたくしが担当しておりました国政補佐、条約文作成、財務整理――本日付で、すべて返上いたします」


 ざわ、と空気が揺れた。


「ふん。大した仕事でもないくせに! 好きにしろ!」


 王子は鼻で笑い、手を振る。


 ――その瞬間だった。


 列席していた重臣の一人が、青ざめた顔で書類を落としたのは。


「では」

 リディアは優雅に一礼する。


「本日はこれで、失礼いたしますわ」




 ◇◇


 リディアが会場を後にすると、残された空気は奇妙な沈黙に包まれた。


「……ふん」


 セドリック殿下は気を取り直したように、グラスを手に取る。


「せいせいした。あんな無能、いなくなって正解だ」


 誰も、笑わなかった。


 貴族たちは互いに視線を交わし、言葉を探すように口を閉ざしている。

 財務大臣は額に冷や汗を浮かべ、外務卿は手元の書類を何度も確認していた。


「どうした? 祝いの席だぞ」

 殿下は不機嫌そうに眉をひそめる。


 ――沈黙に耐えきれず、ひとりの老臣が前に出た。


「殿下……念のため、お伺いしますが」

「なんだ」


「今おっしゃった“仕事”ですが……」


 老臣は、言葉を選ぶように一瞬だけ間を置いた。


「――来週締結予定の隣国との条約文、殿下はすでに内容をご存知でしたかな?」

 殿下は、きょとんと目を瞬かせた。


「は? あれはリディアが勝手にまとめていただけだろう」


 その瞬間。

 会場の空気が、はっきりと凍りついた。


「……いえ」

 今度は財務大臣が、かすれた声で言う。


「条約案の最終調整、関税率の算出、相手国の譲歩案の整理――すべて、リディア様が」


「え?」


「国庫の赤字是正案も」

「反対派貴族の説得も」

「殿下の名で提出された進言書の大半も――」


 一つ、また一つと積み上げられていく言葉。


 セドリック殿下の顔色が、目に見えて変わっていった。


「……ま、待て。そんな話、聞いてないぞ!」


 だが、その場に答える者はいなかった。

 すでに全員が理解していたのだ。


 今日この瞬間――

 この国は、“頭脳”を失ったのだと。




 ◇◇


 夜風が心地よい。


 リディアは城の回廊をひとり歩きながら、そっと息を吐いた。


(――終わった)


 長い間、胸の奥に引っかかっていた何かが、音もなく外れていく。


 婚約。

 義務。

 “皇太子殿下の補佐”という名の、無償労働。


 すべて、今日で終わりだ。


(ようやく……自由)


 思い返せば、笑ってしまう。


 国政文書の整理。

 条約文の下書き。

 財務の試算。

 反対派貴族への根回し。


 それらを行っていたのは、いつも「無能」と呼ばれる自分だった。


 けれど、構わない。


 評価も名声も、最初から望んでいなかったのだから。


 欲しかったのはただ一つ――

 自分の時間と、静かな未来。


 リディアは、月を見上げて微笑んだ。


(殿下は……気づくだろうか)


 いや、きっと気づく。


 気づいたときには、もう遅い。




 ◇◇


 翌朝。


 王宮の執務室は、早くも騒然としていた。


「条約文が……読めません」

「この注釈、誰が書いたのです?」

「財務計算が合わない!」


 机の上には、昨夜まで完璧だったはずの書類。


 だが、そこに“答え”はない。


「リディア様に確認を……」

「……いえ」


 外務卿は、重苦しく首を振った。


「昨夜付で、すべての担当を返上された」


 その言葉に、室内が凍りつく。


 そこへ、勢いよく扉が開いた。


「どういうことだ!!」


 セドリック殿下だった。


「なぜ誰も説明できないのだ!」


 沈黙。

 代わりに、財務大臣が静かに告げる。


「リディア様が、仕切っておられました。そんな方を殿下ご自身が、婚約を破棄されたのです」


「……っ!」


 殿下の顔が歪む。


「代わりはいるだろう!? あんな女ひとり――」


「おりません」


 即答だった。


「殿下」


 老臣が深く頭を下げる。


「彼女は、“代わりのいない人材”でした」


「そして本日の午後には、」


 外務卿が続ける。


「隣国との正式会談です」


「なに……?」


「条約が結べなければ」

「賠償金」

「国境封鎖」

「経済制裁」


 言葉が、刃のように突き刺さる。


「リディアを呼び戻せ」


 殿下は焦った声で命じた。


「今すぐだ!」


 だが。


「……連絡は、拒否されています」


 その瞬間。


 セドリック殿下は、初めて理解した。


 捨てたのは、宝石だったということを。



 ◇◇


 王宮・謁見の間。


 本来なら、隣国使節を迎えるはずだったその場は、異様な空気に包まれていた。


「……来ない?」

 使節団の代表が、静かに眉をひそめる。


「約束の時間は、すでに過ぎているが」


「も、もう少し……!」


 セドリック殿下の声は、明らかに上ずっていた。


 そのとき――


 扉が開いた。


 ざわ、と空気が揺れる。


 入ってきたのは、ただ一人の令嬢。

 リディア・レオノアール。


 いつも通りの落ち着いた表情。

 だが今日は、もう“皇太子の婚約者”ではない。


「リディア!」


 殿下は、思わず名を叫んだ。


 彼女は一礼する。


「お呼びでしょうか、セドリック殿下」


 その声は、驚くほど他人行儀だった。


「戻ってくれ!」


 殿下は一歩踏み出す。


「お前がいなければ、この会談は――」


「恐れながら」


 リディアは、きっぱりと言葉を遮った。


「昨日、婚約は破棄されました」


「それが、何だというんだ!」


「わたくしは」


 彼女は微笑む。


「殿下の“無能”な元婚約者ですので」


 その声にざわめきが走り、使節団は顔を見わせる。


「そのような者に、国の命運をお任せになるおつもりで?」


 殿下は言葉を失った。


「……頼む」


 声が震える。


「今だけでいい……!」


「今更、ですわ」


 リディアは静かに、しかし確実に突き刺した。


「殿下は、成果はご自分のもの、失敗はわたくしの責任と仰いました」


「……っ」


「でしたら」


 一歩、下がる。


「最後まで、ご自分でなさってください」



 その瞬間。


「――失礼」


 低く、よく通る声が響いた。


 皆が振り返る。


 そこに立っていたのは、第一王子――

 アレクシス殿下。


「その会談」


 彼は穏やかに微笑む。


「こちらで引き受けよう」


「な……!?」


「彼女は」


 アレクシスは、迷いなくリディアの手を取った。


「私の客人だ」


 どよめき。


「リディア」


 囁く声は、甘く、確信に満ちていた。


「ようやく、君を縛る鎖が外れた」


 彼女は一瞬だけ驚き、そして微笑む。


「お迎えが遅くなって、ごめん」





 ◇◇


 数日後。


 会談は成功。

 条約は、第一王子主導で締結された。


 一方セドリック殿下は、無能が露呈し支持貴族離反により次期国王候補から事実上除外された。


 転落。


 リディアは、新たな立場を得る。


 誰にも命じられず、誰にも搾取されない未来。


 彼女は思う。

 誰かの許可を取らずに歩く廊下が、こんなにも広いとは知らなかった。


 婚約破棄は――

 わたくしにとって、解放の合図でした。

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― 新着の感想 ―
1人に頼りその1人が居なくなったら破綻するようでは、国の統治システムとしては駄目だろ。 王子もそうだが、大臣達もまた無能揃いだね。
王子の婚約者一人いなくなった程度で外交から何からダメになるなら国自体が終わってると思いました
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