第9話
同じ歩道橋のはずだった。
昼間に来ると、影の形が違う。
夕方よりも、人の流れがはっきりしている。
「ここですよね」
彼女が言う。
言い切りではない。
確認だ。
「ここです」
そう答えたあとで、
本当にそうだったかを考える。
考えたが、確信は出なかった。
欄干の色は、昨日より明るく見えた。
昨日が暗かったのか、今日は明るいのか。
空のせいかもしれない。
彼女は、欄干を指で軽く叩く。
乾いた音がした。
「昨日、ここに傷、ありましたよね」
傷。
言われてみれば、何かあった気もする。
だが、どの辺だったかは思い出せない。
「ありましたっけ」
「ありました」
彼女は即答した。
迷いがない。
歩道橋の中央あたりで立ち止まる。
人の流れが、二人を避けて通る。
それが自然すぎて、少し気になる。
「ここ、私、昨日つまずいたんです」
彼女は足元を見る。
コンクリートは平らだ。
段差も、欠けもない。
「バッグ、落としそうになって」
彼女は、肩にかけたバッグを持ち直す。
その仕草は、確かに覚えがある。
見た気がする。
だが、それが昨日かどうかは分からない。
「僕は、見てないですね」
そう言った瞬間、
見ていなかった理由を探し始める。
スマホを見ていた。
考え事をしていた。
人を避けていた。
どれもあり得る。
「え……」
彼女は一瞬だけ、言葉に詰まる。
驚きというより、
計算が合わなくなった顔だ。
「ちゃんと、ここでしたよ」
彼女は、同じ場所を指す。
「欄干のこの辺に、ガムがついてて」
ガム。
確かに、ありそうだ。
だが、今はついていない。
「取れたんじゃないですか」
自分でも、雑な推理だと思う。
彼女は頷かない。
否定もしない。
歩道橋の下を、バスが通る。
エンジン音が、一瞬会話を切る。
音が消えたあと、
沈黙が戻る。
「昨日、花屋ありました?」
彼女が聞く。
昨日は、あったと思う。
今日も、ある。
「ありました」
「私、見てないです」
見ていない、という断定。
見なかった、ではない。
花屋の前まで歩く。
店は、普通に営業している。
店主が、水を撒いている。
それを見て、彼女は首をかしげた。
「……こんな人、いましたっけ」
僕は、店主の顔を見たことがない。
昨日も見ていない。
ただ、花屋が「ある」という情報だけが残っている。
「いつもいるんじゃないですか」
言いながら、
「いつも」という言葉の根拠を探す。
見つからない。
彼女は、しばらく店を見つめてから言った。
「昨日の方が、ここ、狭かった気がします」
歩道橋の幅は変わらない。
だが、そう言われると、
昨日は人が多かった気もする。
「時間帯ですかね」
無難な答えだ。
無難すぎて、正しい感じがしない。
彼女は、小さく息を吐いた。
「私、覚えてるんですけどね」
その言い方は、
自分を説得しているようにも聞こえた。
歩道橋を渡り終えたとき、
振り返ると、欄干の色がまた違って見えた。
今度は、昨日とも今日とも違う色だ。
《これは、誰も生き残る必要のない話である。》
(記憶は、正しさよりも先に位置を失う)
昼の光は、影を作らなかった。




