第5話
同じフロアに、二度目に戻った。
理由は、特にない。
エレベーターのボタンを押し間違えただけだ。
扉が開く。
さっきの試食台は、もう片づけられている。
床だけが、少し湿っている。
(早かったな)
何が、とは思わない。
通路のベンチに、彼女が座っていた。
さっきの女性だ。
荷物を膝に置き、
紙袋の口を、何度も折り直している。
声をかけるかどうか、
判断が遅れる。
遅れたまま、
彼女の方が先に気づいた。
「あ」
短い声。
「また」
それだけ。
「またですね」
それで、成立する。
少し間を空けて、
同じベンチに座る。
距離は、腕一本分。
空調の風が、
間を通り抜ける。
「さっきの、あれ」
彼女が言う。
「味、なかったですね」
「なかったです」
確認するように、
同じことを言う。
彼女は、紙袋から小さな菓子を出した。
個包装。
どこにでもある。
「甘いの、必要かなって」
理由は、それだけ。
半分に割って、
こちらに差し出す。
受け取るかどうか、
判断が遅れる。
受け取る。
食べる。
普通に、甘い。
(普通だ)
それ以上の感想は、出てこない。
彼女も、黙って食べている。
視線は合わない。
同じ方向を、見ている。
通路の先で、
子どもが走って転ぶ。
泣き声が上がる前に、
誰かが抱き上げた。
泣き声は、少し遅れて来た。
「……判断、遅れますよね」
彼女が、ぽつりと言う。
「何がですか」
「全部」
答えになっていない。
でも、否定もしない。
「遅れてから、
ああ、って思う」
彼女は、菓子の包み紙を折りたたむ。
きれいに、角を揃えて。
「正しかった、って」
こちらは、少し考える。
判断が、遅れる。
「たぶん」
それだけ言う。
彼女は、頷いた。
同意なのか、
区切りなのかは分からない。
立ち上がる。
同時だった。
出口は、同じ方向。
歩幅を合わせる。
合わせようとしたわけではない。
信号待ちで、止まる。
青になる。
渡る。
途中で、彼女が言う。
「名前、聞いてませんでしたね」
判断が、遅れる。
聞かれているのは、
こちらの方だ。
名乗る。
彼女も、名乗る。
覚えられるかどうかは、
分からない。
交差点の向こうで、別れる。
手は、振らない。
約束も、しない。
必要が、見当たらない。
少し歩いてから、
振り返る。
彼女はいない。
見送られた感じも、
追われた感じもない。
《これは、誰も生き残る必要のない話である。》
(甘いのは、普通でよかった)
横断歩道の白線が、
夕方の影で、細くなっていた。




