第10話
ベンチは、日向にあった。
昨日は日陰だったはずだ、と思いながら座る。
座ると決めた以上、立ち上がる理由はもう探さない。
缶コーヒーは、微糖を選んだ。
甘すぎるのは嫌だと思ったからだ。
一口飲んで、薄いと感じる。
もう一口飲んで、やっぱり薄いと思う。
砂糖の量ではなく、期待の問題だと結論づける。
彼女は、ベンチの端に座っていた。
少し距離がある。
昨日より近いのか、遠いのかは分からない。
「ここ、昨日来ましたよね」
彼女が言う。
確認ではなく、前提として。
「来ました」
即答する。
遅れて正しくなる判断は、あとで修正すればいい。
「やっぱり」
彼女は安心したように頷いた。
安心していい理由は、特にない。
そのとき、
ベンチの前に、男が立ち止まった。
清掃員の制服を着ている。
年齢は分からない。
覚えやすい特徴が、ひとつもない。
「ここ、通れますか」
男は、二人ではなく、地面を見て言った。
「どうぞ」
立ち上がろうとして、やめる。
男は、普通に横を通り過ぎた。
通路は、十分に空いていた。
「……昨日も、この人いました?」
彼女が小声で言う。
男は、少し離れたところで立ち止まり、
ゴミ袋の口を結び直している。
「いたと思います」
そう答えたが、
思ったのは「いたら楽だな」だった。
「私は、見てないです」
彼女ははっきり言った。
その言い切り方は、昨日と同じだ。
清掃員の男が、こちらを見る。
目が合った気がした。
「すみません」
男が言う。
「ここ、昨日、立入禁止でしたよ」
彼女と、同時にこちらを見る。
視線が重なる。
「え?」
彼女が言う。
「柵、置いてありました」
男は、手で高さを示す。
腰くらいの位置だ。
「柵は、なかったです」
彼女は即答した。
僕よりも早い。
「ありましたよ」
男は迷わない。
「黄色と黒の。
夕方まで」
夕方。
その単語だけが、引っかかる。
昨日が夕方だったかどうか、急に分からなくなる。
「僕たち、座ってました」
そう言ったあとで、
本当に座っていたかを考える。
座っていた気もするし、
立っていた気もする。
「それ、無理ですよ」
男は首を振る。
「ここ、通行止めでしたから」
彼女が、何か言いかけて、やめる。
代わりに、足元を見る。
僕も、同じように地面を見る。
柵があったなら、
どこに立ててあったのか。
それを跨いだのか、避けたのか。
考え始めて、やめる。
缶コーヒーをもう一口飲む。
やっぱり、薄い。
次はブラックにしようと思う。
そう思ったこと自体は、記憶に残らない。
「昨日は、誰も座ってなかったです」
男は、そう言って歩き出す。
振り返らない。
彼女が、ぽつりと言う。
「じゃあ、私、誰と話してたんでしょう」
それは、質問の形をしているが、
答えを求めていない。
「別の時間じゃないですか」
口に出してから、
時間で説明できる話かどうかを考える。
考え終わる前に、
バスの音が、思考を切る。
音が消えたあと、
男はいなくなっていた。
清掃用具も、ゴミ袋も見えない。
ベンチの影が、少し動いている。
日向だったはずなのに、
いつの間にか、半分だけ影に入っていた。
《これは、誰も生き残る必要のない話である。》
(正しかった判断は、いつも遅れて席に着く)
午後の光は、位置だけを変えていた。




