僕の村は戦場だった
これは小説習作です。とある本を開き、ランダムに3ワード指差して、三題噺してみました。
随時更新して行きます。
【お断り】「トイレ、部屋、風呂」の三題噺です。
(以下、本文)
忘れもしない昭和50年(1975年)春の事である。
「おい、ゆうべテレビ見た? すごかったよな。」
「見た見た。空母の甲板からヘリコプター、ボンボコ捨てちゃうんだもん。」
「そりゃもう、航空母艦、人でいっぱいだもの。あれ以上、避難民のせたら、沈んじゃうんじゃない?」
「沈みはしないと思うけど、あれが限度じゃないの? 食糧どこから持って来るのかね。トイレだって順番待ちだよ、きっと。」
「窓から立ちションベンすりゃいいんじゃないの?」
「ウンコもか?」
「汚えなあ。」
「ああまでしてまで逃げたいのかねえ。そんなお金持ちにも見えなかったけど。」
「課長以上は無事じゃないよ。平気で人、殺すじゃない?」
「子どもでもね。」
「アメリカもベトコンも、どっちもね。」
「良く考えるんだけど、どうして僕は日本に生まれて来たんだろう?」
「意味が分からん。何か不満でもあるのか?」
「いや、そうじゃなくて、アメリカに生まれてたら『ニューヨークパパ』だったかもしれないじゃん。一人一つずつ子ども部屋があって、入る時は親でもノックして『入ってもいいか?』とかさあ。」
「言いたい事は分かる。」
「ベトナムに生まれてたら死んでたかもよ。死体写真とられてさあ。」
「おまえんちもX新聞か。えげつないよな。一面に、あんな写真のせるなって。イヤでも目に入るだろ。」
「三島事件の時なんて、生首ズラリだぜ。」
「景子の姉ちゃん、あれをパスケースに入れて持ち歩いてたんだと。」
「景子のゲバ棒姉ちゃんね。」
「この間、テレビでやってたじゃん。ジョン・ウェインの『グリーン・ベレー』。ラストで言ってたじゃん。『いつかベトナムにも平和が来る』って、これかよ。これがそうかよ。」
「『コンバット』もキライになったか?」
「いや。全然。」
「いいかげんだなあ。ドイツ人が悪役なら良いのかよ。」
「カッコいいじゃん、ナチスドイツ。サンダース軍曹、ヒゲ剃ってないし、風呂入ってなさそうじゃん。」
これが小学校6年生の男の子二人が、日の当たる縁側でプラモデル作りながら交わした会話である。
まあ、背伸びしたがる子どもは、いつでもどこでも存在するものだ。
ちなみに、昭和50年(1975年)4月30日、北ベトナム政府軍は南ベトナムの首都サイゴンを攻略。
陥落の2日前に大統領職を押しつけられたズオン・バン・ミンに、今さらできる事があろうはずもなく、南ベトナム政府は、この地上から姿を消した。
泡食って逃亡するアメリカ軍は、押しかけた避難民の一部は助けた。ごった返した混乱の様子は上の会話にある通りである。
どうして小学生が踏みこんだ情報を持てたのかって?
ベトナム戦争は、なぜか報道規制がゆるゆるの「お茶の間の戦争」だったのである。テレビのブラウン管ごしに、ニッポン中の一般家庭に侵入して来た戦争だったのである。
ああまでガンガンやられると、親たちも学校の先生も、質問する子どもたちに対して、「知らん。勉強しろ」で流す訳にはいかなかった。なにしろ、何か言ってやらないと、子どもたちは「ナパーム弾ごっこ」とか「ヘリボーンごっこ」とか「絨毯爆撃ごっこ」とか、平気でやりだすのだから。