第3幕: 別れ
第3幕: 別れ - Part 10 「追い詰められた二人」
廃工場の内部は、かつての産業時代の亡霊たちが棲む迷宮と化していた。天井から漏れる赤い雨は、錆びついた機械の残骸を伝い、金属的な音を立てて滴り落ちる。その一滴一滴が、まるで時間の残り少なさを告げる砂時計のように思えた。
「行き止まりだ...」
セルゲイの声が、暗がりの中で重く響く。前方には巨大な製造機械が横たわり、その向こうには崩れかけた壁。車はもうこれ以上進めない。エンジンを切る音が、妙に最後の断末魔のように聞こえた。
「ここで降りろ」
セルゲイはナターシャに告げる。彼女の瞳に、一瞬の戸惑いが浮かぶ。黒いパーカーの袖から覗く彼女の手が、小刻みに震えている。その手を、セルゲイはそっと握った。
「あの配管を使って2階に上がれる。そこから非常階段で屋上へ」
セルゲイは暗がりの中で目を凝らしながら説明を続けた。「隣の建物との間に渡り廊下がある。そこを渡れば...」
「私たちは、一緒に...」
ナターシャの声が震える。セルゲイは黙って首を横に振った。遠くで複数のエンジン音が響き始めている。追手が近づいていた。
「時間を稼ぐ」
セルゲイは運転席から銃を取り出しながら言った。「お前は、渡り廊下を渡ったら、すぐに階段を下りろ。地下鉄の駅まで走れ」
「でも...」
「これを」
セルゲイは小さな鍵を取り出した。「駅のコインロッカー。中に新しいIDと、連絡先がある。必ず、生きろ」
その時、工場の入り口にサーチライトの光が差し込んだ。追手の声が、錆びた柱に反響して聞こえてくる。二人の時間は、刻一刻と減っていく。
「行け!」
セルゲイの声に、ナターシャは涙を堪えながら頷いた。しかし、車を出る前に、彼女は突然セルゲイの頬に唇を寄せた。その一瞬の温もりが、彼の心に深く刻み込まれる。
「必ず、また...」
言葉を最後まで紡げないまま, ナターシャは暗がりの中へと消えていった。彼女の足音が、雨音に紛れて遠ざかっていく。
セルゲイは銃を構えながら、ゆっくりと立ち上がった。追手の足音が近づいている。彼は最後に、ナターシャが消えた方向を見つめた。
赤い雨は、相変わらず容赦なく降り続けていた。その雨の中で、セルゲイは微かに笑みを浮かべた。この結末は、彼が最初から覚悟していたものだった。
最初の銃声が、工場の闇を引き裂く。
死闘の幕開けだった。
第3幕: 別れ - Part 11「最後の抵抗」
銃声が工場内に反響し、錆びついた金属の残骸を震わせる。セルゲイは車の陰に身を隠しながら、慎重に周囲を窺っていた。赤い雨が作り出す水たまりに、追手のシルエットが揺らめいて映っている。
「イワノフ!降伏しろ!」
組織の追手の声が、工場内に響き渡る。セルゲイは答えない。代わりに、彼は静かに深呼吸をした。スペツナズ時代の訓練が、体に染み付いている。
「3つ数えるぞ!」
追手の声に焦りが混じっている。セルゲイは微かに笑みを浮かべた。時間を稼ぐという目的は、既に達成されつつあった。
「1!」
セルゲイは銃の残弾を確認する。わずか4発。相手は少なくとも5人はいるだろう。厳しい戦いになる。
「2!」
彼は一瞬、ナターシャのことを考えた。彼女は無事に逃げられただろうか。セルゲイの心に、これまで感じたことのない温かい感情が広がる。
「3!」
その瞬間、セルゲイは動いた。車の陰から飛び出し、最も近い追手に向かって発砲。一発で相手は倒れた。
「そこだ!」
残りの追手が一斉に銃撃を開始する。弾丸が、セルゲイの周りの金属を打ち砕く。彼は素早く次の遮蔽物に身を隠した。
赤い雨が、彼の額から流れる汗と混ざり合う。その雨は、まるで彼の決意を映すかのように、鮮やかな色を放っていた。
セルゲイは再び身を乗り出し、二発の銃弾を放つ。一発は外れたが、もう一発は追手の肩を捉えた。悲鳴が響く。
「くそっ、囲め!」
追手のリーダーらしき男の声が聞こえる。彼らは徐々にセルゲイの位置を特定しつつあった。
残弾はわずか1発。セルゲイは深く息を吐き出す。これが最後の抵抗になるだろう。彼は静かに目を閉じ、ナターシャの顔を思い浮かべた。
その時、突然工場の天井が大きな音を立てて崩れ落ちた。赤い雨が一気に内部に流れ込み、視界を遮る。混乱の中、セルゲイは最後の一発を放った。
銃声が響き渡る。
そして、静寂が訪れる。
赤い雨だけが、容赦なく降り続けていた。その雨音が、まるでレクイエムのように工場内に響いていた。
セルゲイの意識が遠のいていく。
彼の最後の思いは、遠く離れたナターシャへと向けられていた。
「生きろ...」
その言葉が、彼の唇から漏れる。
そして、全てが闇に包まれた。
第3幕: 別れ - Part 12「約束の場所で」
数年後—モスクワ
窓の外では、穏やかな雪が舞っていた。ナターシャ・ソコロワは、アパートの窓辺に立ち、その光景を眺めていた。白い雪は、かつてのネオチバの赤い雨とは違い、優しく大地を包み込んでいく。
彼女の首筋には、かすかな傷跡が残っている。それは、あの夜の記憶を刻む、消えることのない刻印だった。指先で傷跡をなぞりながら、彼女は静かに目を閉じた。
部屋の片隅には、古びた黒いパーカーが大切そうに掛けられている。あの夜に着ていたものだ。洗濯を何度重ねても、どこか雨の匂いが染み付いているような気がした。
テーブルの上には、黄ばんだ新聞の切り抜きが置かれている。
『ネオチバ港区で銃撃戦—詳細不明』
『廃工場で複数の遺体発見』
記事には具体的な名前は載っていない。しかし、彼女には全てが分かっていた。
「セルゲイ...」
その名を呟くと、胸が締め付けられるような痛みを感じる。彼が残してくれた新しいIDと資金のおかげで、彼女は今、静かな生活を送ることができている。
ドアをノックする音が響く。
ナターシャは一瞬、息を止めた。
「開けてくれ」
低い声が、ドアの向こうから聞こえる。
その声に、彼女の体が震える。
ゆっくりとドアに近づき、覗き穴から外を確認する。
そこには...
雪は静かに降り続けていた。
それは、かつての赤い雨とは違う色をしていた。
しかし、その雪もまた、新たな物語の始まりを告げているのかもしれない。
【完】