第2幕: 逃走
第2幕: 逃走 - Part 6 「追手の影」
ネオチバの下層階層を走る車の中。フロントガラスを叩く赤い雨が、ワイパーによってリズミカルに払われていく。
「携帯は?」
セルゲイが運転しながら尋ねる。
「ここに...」
ナターシャが震える手でスマートフォンを差し出す。
セルゲイはそれを窓から放り投げた。
「追跡されるぞ」
バックミラーを確認しながら、セルゲイは左折する。
「他に電子機器は?」
「ありません...でも」
ナターシャが自分の首筋に手を当てる。
「移民登録の時に、なにか埋め込まれました」
「トラッカーか」
セルゲイは歯を食いしばった。
予想はしていたが、時間が足りない。
急ブレーキ。
路地の奥に車を停める。
「痛むぞ」
ポケットからナイフを取り出す。
助手席のナターシャが青ざめる。
「信じてくれ」
セルゲイの声は、いつになく柔らかかった。
ナターシャは小さく頷き、首を傾けた。
セルゲイは慎重に切開を始める。
血が滲む。ナターシャは痛みに耐えている。
「見つけた」
米粒ほどの大きさの電子機器を取り出す。
それを路地の排水溝に落とす。
「すまない」
傷口にハンカチを当てながら、セルゲイが謝る。
その時、イヤピースを通じて警備員たちが交わす通信が聞こえてきそうな錯覚に襲われた。もう装置は外したはずなのに。習慣は恐ろしい。
「行くぞ」
エンジンを再始動させる。
「どこへ...?」
「港だ」
「でも、港は組織の...」
「だからこそ、誰も疑わない」
セルゲイの頭の中では、既に計画が組み上がっていた。
コンテナ船、偽造書類、新しい身分証明書。
全ては、いつかこの日が来ることを予感していたかのように。
「イワノフさん...」
「セルゲイでいい」
「セルゲイ...私のせいで、あなたが...」
「自分で選んだ道だ」
信号が赤に変わる。
車が停止した瞬間、セルゲイは初めてじっくりとナターシャの顔を見た。
街灯に照らされた横顔。
まつ毛に光る雨の雫。
それは、彼が守ると決めた全てだった。
「行けるか?」
「はい」
今度は、彼女の声に迷いはなかった。
信号が青に変わる。
アクセルを踏む音が、心臓の鼓動と重なった。
しかし、その時はまだ知らなかった。
組織の追手が、既に港で待ち構えていることを。
赤い雨は、これから始まる長い夜の序曲のように、
二人の車を追いかけていた。
第2幕: 逃走 - Part 7 「港への道」
ネオチバの下層階層から中層階層へと続く立体道路を、セルゲイの車は滑るように上昇していった。両側には無数のネオンサインが瞬き、その光が雨に濡れた道路に映り込み、幻想的な光の川を作り出している。赤い雨は相変わらず降り続け、フロントガラスを伝う雫が、まるで血の涙のように見えた。
「首の傷は大丈夫か?」
運転しながら、セルゲイはチラリとナターシャを見やる。助手席で彼女は、彼のハンカチを傷口に押し当てたまま、小さく頷いた。白いハンカチに僅かに滲んだ血が、街灯に照らされるたびに不吉な色を放っている。
「あと15分で港に着く」
セルゲイは意図的に冷静を装っていたが、その声には微かな緊張が滲んでいた。彼の経験則では、組織がここまで長く動きを見せないのは、却って危険な兆候だった。まるで、獲物を追い詰めるために、わざと逃がしているかのように。
車内のエアコンが静かに作動する音が、異様なまでに鮮明に聞こえる。ナターシャの浅い呼吸音、ワイパーの規則的な動き、タイヤが濡れた路面を走る音—全てが、この緊迫した状況を際立たせていた。
「セルゲイ...」
ナターシャが震える声で呼びかける。彼女の手が、自分のドレスの裾を強く握りしめている。高級クラブのホステス用の派手なドレスは、今となっては皮肉な目印のようだった。
「着替えは用意してある」
セルゲイは彼女の不安を察したように答えた。後部座席には事前に用意した簡素な服が置いてあった。これも、いつかこの日が来ることを予感していた証だった。
高層ビル群の間を縫うように進む車。上空には、巨大な広告ホログラムが浮かび、その光が雨雲に反射して、さらに街全体を赤く染め上げている。その光景は、まるで都市全体が出血しているかのようだった。
「あそこに見えるのが、ネオチバ・ポートタワーだ」
遠くに見える巨大な塔を指差しながら、セルゲイは説明を続けた。「コンテナ船は午前4時に出港する。それまでに手続きを済ませなければならない」
その時、バックミラーに映った光景が、セルゲイの背筋を凍らせた。数台の黒いセダンが、一定の距離を保ちながら、確実に彼らの車を追尾している。組織の追手が動き出したのだ。
「シートベルトを締めろ」
セルゲイの声が低く響く。ナターシャは黙って従った。彼女も、状況を理解したようだった。
アクセルを踏み込む。エンジンが唸りを上げ、車体が前のめりになる。追手との距離を開けようとした瞬間、前方の交差点に別の黒いセダンが現れた。
「くそっ」
セルゲイは咄嗟にハンドルを切った。車は急激に車線を変更し、横道へと滑り込んでいく。タイヤが悲鳴を上げ、ナターシャが小さく悲鳴を上げた。
赤い雨は、まるで血の幕のように、逃亡者たちを包み込んでいた。これから始まる死闘の、残酷な前奏曲のように。
第2幕: 逃走 - Part 8 「追撃」
横道に滑り込んだ車は、路地と路地を縫うように疾走していた。両側の建物の隙間から漏れる無数のネオンの光が、車内を万華鏡のように彩る。セルゲイの手がハンドルを握り締め、その関節が白く浮き上がっている。
「右手のグローブボックスを開けろ」
命じるような声に、ナターシャは慌てて従った。中から黒い金属の塊が現れる—それは制式の自動拳銃だった。彼女は思わず息を飲んだ。
「使えるか?」
「私...」
ナターシャが躊躇する間も、後方からのヘッドライトが迫っていた。黒いセダンの群れが、まるで飢えた狼の群れのように彼らを追っている。
「構わない」
セルゲイは短く言い、左手でステアリングを操作しながら、右手で銃を受け取った。その動作には無駄がなく、長年の訓練の跡が窺えた。
急カーブを曲がる度に、タイヤが悲鳴を上げる。路面の水しぶきが、まるで血飛沫のように車体を叩く。ナターシャは助手席のグリップを必死で掴んでいた。その白い指が、街灯の明かりに照らされる度に震えているのが見えた。
「ッ!」
後方から最初の銃声が響く。バックミラーに火花が散る。セルゲイは咄嗟にハンドルを切り、車を大きく蛇行させた。後部窓ガラスに弾痕が走る。その音に、ナターシャが小さく悲鳴を上げた。
「伏せろ!」
セルゲイの声が響く前に、彼の左腕がナターシャの体を押し下げていた。その瞬間、運転席の窓ガラスが粉々に砕け散った。冷たい雨と風が車内に吹き込み、ナターシャの長い髪が舞い上がる。
「くそっ...」
セルゲイは片手でステアリングを操作しながら、窓越しに数発の応射を放った。後続の車の一台がふらつき、路肩に激突する。しかし、まだ三台が執拗に追跡を続けていた。
「セルゲイ!前!」
ナターシャの警告に、セルゲイは咄嗟にブレーキを踏んだ。車が急停止する。目の前の交差点に、また別の黒いセダンが待ち構えていたのだ。
「つかまえば、私たち...」
ナターシャの声が震えている。彼女は言葉を最後まで紡げなかったが、セルゲイには分かっていた。組織の制裁が何を意味するのかを。
「終わりじゃない」
セルゲイは低く呟いた。その声には、どこか冷たい決意が滲んでいた。
彼はギアを切り替え、アクセルを思い切り踏み込んだ。車が唸りを上げる。前方の黒いセダンとの距離が縮まっていく。雨に濡れたフロントガラス越しに、敵の車に乗った男たちの驚いた表情が見えた。
「掴まれ!」
セルゲイの叫び声と共に、車は急激に右に旋回した。建物の間の狭い路地に向かって、まるで弾丸のように飛び込んでいく。側面が建物の壁を擦り、火花が散った。ナターシャは思わずセルゲイの腕にしがみついていた。
赤い雨は、相変わらず容赦なく降り注いでいた。その雨音が、追手の銃声と、エンジンの唸りと、そして二人の激しい鼓動と混ざり合って、狂騒的な夜の交響曲を奏でていた。
第2幕: 逃走 - Part 9 「死角への逃避」
狭い路地を抜けた車は、廃工場地帯に飛び出した。錆びついた鉄骨の森が、赤い雨に濡れて不気味な影を作っている。ネオチバの下層で忘れ去られたこの一帯は、かつての工業化時代の亡霊のように、朽ちた機械の残骸をそこかしこに晒していた。
「ここなら...」
セルゲイは息を切らしながら呟いた。スペツナズ時代、彼はこの地域の詳細な地図を暗記していた。それは今、思わぬ形で命脈を保つことになる。
「まだ、追ってきます?」
ナターシャの声が震えている。彼女の肩に回していた腕を、セルゲイはそっと離した。追手の車のヘッドライトは、一時的に見失ったようだった。
「時間を稼げる」
セルゲイは車を巨大な倉庫の陰に滑り込ませた。エンジンを切る。突然の静寂が、二人を包み込む。雨音だけが、リズミカルに車体を叩いていた。
「着替えろ」
後部座席から服を取り出し、ナターシャに渡す。シンプルな黒のパーカーとジーンズ。目立たないように選んだものだ。
「私...ここで?」
彼女の頬が赤くなる。セルゲイは無言で外を向いた。フロントガラスの向こうで、赤い雨が工場の残骸を洗い流している。
衣擦れの音が車内に響く。バックミラーに映る後部座席を見ないように努めながら、セルゲイは周囲を警戒し続けた。その時、遠くでエンジン音が響き始める。
「急いでくれ」
「あと少し...」
ナターシャの声には焦りが混じっている。エンジン音が徐々に大きくなっていく。
「できました」
振り返ると、そこにはまるで別人のようなナターシャがいた。派手なドレスは消え、代わりに普通の若い女性として、彼女はそこにいた。濡れた髪が、首筋の傷口を隠している。
「これを」
セルゲイは小さな包みを取り出した。中には偽造パスポートと、現金の束が入っている。全てが完璧な偽装だ。どれだけの金を使い、どれだけの時間をかけて準備したのか、彼自身も覚えていない。
「セルゲイ...」
ナターシャが包みを受け取りながら、彼の手に触れた。その手が冷たく震えているのを感じる。
「聞いてくれ」
セルゲイの声が低く響く。
「この先、何が起きても...」
その時、サーチライトの光が倉庫の壁を照らした。追手が近づいている。セルゲイは咄嗟にナターシャを抱き寄せ、身を低くした。彼女の体が、恐怖で小刻みに震えているのが伝わってくる。
「信じてくれ」
囁くような声で、セルゲイは続けた。
「必ず、お前を守る」
その言葉に、どれほどの覚悟が込められていたのか。それは、この赤い雨の夜が最もよく知っていた。
サーチライトの光が、ゆっくりと彼らの隠れ場所に近づいていく。
時間が残り少ないことを、二人は痛いほど理解していた。