第1幕: 出会い
第1幕: 出会い - Part 1 「監視者の視線」
ネオチバの夜景が、レッドスターの窓から見下ろせた。高層ビル群が林立する夜景は、まるで地上に落ちた星座のようだ。セルゲイ・イワノフは、クラブの防犯カメラのモニターから目を離し、窓の外を見つめた。
「イワノフ、3番テーブルを確認しろ」
イヤピースから上司の声が響く。彼は素早くモニターに視線を戻し、該当するカメラの映像を確認した。
VIP客の一人が、新入りの女の子と談笑している。客は大手メガコーポの幹部で、レッドスターの常連だ。女の子は先週入ったばかりの新人。まだ商売の作法も十分に身についていない。
「ソコロワか...」
セルゲイは小声で呟いた。ナターシャ・ソコロワ。シベリアから来たばかりの23歳。書類上はモデルの仕事で来日したことになっているが、実際は組織が用意した偽装だ。
「様子がおかしいと思ったら即座に介入しろ。あの客は大事な上得意だ」
「了解した」
セルゲイは無表情を保ちながら、モニターに映るナターシャの姿を見つめた。彼女は客の言葉に笑顔で応えながら、時折うつむき加減になる。その仕草には、まだ慣れない環境への戸惑いが見て取れた。
この3年間、セルゲイは数え切れないほどの女たちを見てきた。彼女たちの多くは、最初は皆、同じような表情を見せる。しかし、数週間もすれば「商品」として完璧な笑顔を身につけていく。
だが、ナターシャには何か違うものを感じた。その純粋さは、この世界には似つかわしくないものだった。
「イワノフ、巡回に出ろ」
「了解」
セルゲイは立ち上がり、黒いスーツの襟を正した。ホルスターに収まった銃の感触を確認し、監視室を出る。
クラブ内は甘い香水の香りと、洗練された音楽が流れていた。照明は控えめで、各テーブルはそれぞれ適度な距離を保って配置されている。高級クラブとしての品格を保ちながら、密談が可能な空間設計だ。
3番テーブルに近づきながら、セルゲイは自然な動きを心がけた。警備員の存在を過度に意識させないよう、それは組織での基本だった。
テーブルに近づくと、ナターシャの声が聞こえてきた。
「...はい、モスクワは寒かったです」
「シベリアはもっと寒いんだろう?」
「ええ、でも慣れていましたから」
その声には、故郷を懐かしむような温かみがあった。セルゲイは思わず足を止めかけたが、すぐに professional としての意識を取り戻す。
「気にするな」と自分に言い聞かせた。これは仕事だ。彼女も、このクラブで働く他の女たちと同じ「商品」に過ぎない。そう割り切らなければ、この仕事は務まらない。
しかし、その夜以降、セルゲイの目はどうしてもナターシャを追ってしまうようになった。それは、後に彼の運命を大きく変えることになる、小さな変化の始まりだった。
モニターの向こうで、ナターシャは相変わらず、ぎこちない笑顔を客に向けている。その姿に、セルゲイは今までに感じたことのない感情を覚えていた。それが何なのか、この時点では、まだ彼自身にも分からなかった。
外では、ネオチバ特有の赤い雨が降り始めていた。酸性雨に、ネオンの光が映り込んで作り出す幻想的な光景。それは、これから始まる悲劇の幕開けを暗示するかのようだった。
第1幕: 出会い - Part 2 「最初の言葉」
それは、その夜から一週間後のことだった。
「申し訳ありません...」
従業員用エレベーターの前で、小さな声が響いた。ナターシャだった。彼女は困惑した表情で、ICカードリーダーに何度もカードをかざしている。
「新しいカードの読み込みには、少しコツがある」
セルゲイは自然と声をかけていた。後で自分でも驚くことになる行動だった。通常、彼は必要以外の会話は一切しない。それが組織での彼の評価を高めてきた理由でもあった。
「あ...」
ナターシャが振り返る。近くで見る彼女の瞳は、モニターで見ていた以上に透明で、か細さを感じさせた。
「こうだ」
セルゲイは自分のカードでやって見せる。カードをかざす角度と、リーダーとの距離を説明した。ロシア語で。
「ありがとうございます...」
彼女は少し安堵した表情を見せ、言われた通りにカードをかざした。扉が開く。
「ロシア語が...」
「ああ、私もロシアから来た」
「そうだったんですか」
エレベーターに二人で乗り込む。狭い空間に漂う彼女の香水の香り。それは他の女たちが使う強い香りとは違う、控えめで清潔な香りだった。
「シベリアのどちらですか?」
「イルクーツク近郊の...」
彼女は言いかけて口を噤んだ。出自を語ることは、組織では暗黙の禁止事項だった。セルゲイも質問したことを後悔する。
沈黙が流れる。エレベーターは静かに上昇を続けた。
「私は...」
「話す必要はありません」
セルゲイは彼女の言葉を遮った。それは親切心からだった。
エレベーターが到着し、扉が開く。ナターシャは小さく会釈をして先に出ようとする。その時、彼女の手からカードが滑り落ちた。
二人が同時にカードに手を伸ばす。指先が触れ合う。
一瞬の接触。しかし、その短い瞬間に、セルゲイは電流のような衝撃を感じていた。
「すみません...」
慌てて身を引くナターシャ。彼女の頬が僅かに赤くなっている。
カードを拾い上げ、彼女に渡す。
「気をつけて」
それだけ言って、セルゲイは踵を返した。
その夜の巡回で、セルゲイは普段以上に神経質になっていた。モニターで彼女を追う目は、純粋な監視の域を超えていることに、彼自身が気づいていた。
「イワノフ、何か問題があるのか?」
上司の声にハッとする。
「いいえ、問題ありません」
しかし、確実に何かが変わり始めていた。組織の掟を知り尽くしているはずの自分の中で、何かが崩れ始めていた。
外では相変わらず赤い雨が降り続いていた。ネオチバの夜空に、低く垂れ込めた雨雲が、街のネオンに照らされ、不吉な赤色に染まっている。
セルゲイは再び窓の外を見つめた。この雨は、彼の人生を変えることになる運命の予兆だったのかもしれない。しかし、その時の彼には、まだそれが分からなかった。
第1幕: 出会い - Part 3 「運命の夜」
その出来事は、エレベーターでの邂逅から3日後に起きた。
「ソコロワに問題発生。VIP Room 3」
イヤピースに流れる通信に、セルゲイの体が反射的に動き出していた。
VIP Room 3に向かう廊下。豪華な装飾が施された壁と、足音を吸い込む分厚いカーペット。普段なら落ち着きを感じるはずのその空間が、今は妙に息苦しく感じられた。
ドアを開けると、すぐに状況が把握できた。
「この娘は使えないな!」
高級スーツを着た中年の男が怒鳴っている。顔は真っ赤で、明らかに泥酔していた。テーブルの上のウォッカは半分以上空になっている。
部屋の隅で、ナターシャが震えていた。普段着ているドレスの肩紐が切れ、化粧も崩れている。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「申し訳ございません。すぐに別の者を...」
「いや、この娘でいい。しつけ直せばいいだけだ」
男はよろめきながらナターシャに近づこうとする。
セルゲイの中で何かが切れた。
「お客様、本日はここまでとさせていただきます」
セルゲイは男とナターシャの間に立ちはだかった。
「なんだと? 私は十分な金を...」
「お客様の安全のため、お帰りいただきます」
その声には、スペツナズ時代に培った冷徹さが滲んでいた。男は一瞬、たじろぐ。
「...組織に言いつけてやる」
男は捨て台詞を吐いて部屋を出て行った。
部屋に静寂が戻る。セルゲイはゆっくりとナターシャの方を向いた。
「大丈夫か?」
ロシア語で問いかける。彼女は小さく頷いた。
「ありがとう...ございます」
震える声。セルゲイは自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「シャワールームを使ってくれ。15分待つ」
「でも...」
「構わない」
ナターシャは一瞬躊躇したが、小さく頭を下げてシャワールームに向かった。
セルゲイは窓際に立ち、外を見つめた。今夜も赤い雨が降っている。この行動が組織の規律違反であることは、彼自身が一番よく分かっていた。しかし、後悔はなかった。
15分後、ナターシャが戻ってきた。化粧を落とした素顔は、さらに幼く見えた。
「お帰りの車を手配しました」
「ありがとうございます...イワノフさん」
彼女が彼の名を呼ぶのは、これが初めてだった。
「気をつけて帰るんだ」
「はい...」
彼女は一度振り返り、何か言いかけたように見えた。しかし、結局は黙ったまま部屋を出て行った。
セルゲイは、彼女が見えなくなるまで見送った。この夜を境に、彼の中で何かが決定的に変わってしまったことを、彼は薄々感じていた。
モニターに映る防犯カメラの映像。ナターシャがクラブを出て行く姿。彼女を見守る視線は、もはや監視者のものではなかった。
イヤピースからは上司の呼び出しが入っていた。今夜の出来事の報告を求められるのは確実だ。しかし、その時のセルゲイの心には、奇妙な高揚感があった。
それは、運命に背く決意の始まりだった。
外では、変わらず赤い雨が降り続けていた。その雨は、これから始まる二人の物語の証人となるように、ネオチバの街を静かに濡らし続けていた。
第1幕: 出会い - Part 4 「代償」
「説明してもらおうか、イワノフ」
クラースヌイ・ドラコンの幹部執務室。ドミトリー・カザコフ警備部門長が、モニターに映る昨夜の映像を見つめている。
「私の判断ミスでした」
セルゲイは直立不動の姿勢で答えた。
「判断ミス?」
カザコフは椅子から立ち上がり、ゆっくりとセルゲイに近づく。
「あのVIPは年間5000万円以上を使う客だぞ。そして、お前は彼を追い返した」
「お客様の泥酔が著しく、店の品位に関わると判断しました」
「品位?」
カザコフが嘲笑う。
「我々は品位を売っているんじゃない。幻想を売っているんだ」
執務室の窓から、朝もやに包まれたネオチバの街並みが見える。昨夜の赤い雨は上がっていたが、どこか不穏な空気が残っていた。
「お前には期待していたんだがな」
カザコフはデスクに戻り、タブレットを手に取る。
「元スペツナズ、冷静沈着、規律正しい...完璧な経歴だった」
「申し訳ありません」
「ソコロワか」
突然の言葉に、セルゲイの背筋が凍る。
「彼女に目をつけているな?」
「いいえ」
即座の否定。しかし、その声には僅かな揺らぎがあった。
「イワノフ、お前は我々の仕事を理解しているか?」
カザコフは再びモニターを指す。
「我々は商品を管理している。商品に感情を持つな」
「承知しています」
「今回は見逃す。お前の過去の働きを考えてな」
カザコフは煙草に火をつける。
「だが、次はない。分かったな?」
「はい」
「それと...」
カザコフが不敵な笑みを浮かべる。
「ソコロワは明日から、'特別教育'に入る。お前の代わりに、彼女が代償を払うことになるがな」
セルゲイの拳が、知らぬ間に強く握られていた。
特別教育—それが何を意味するか、彼は痛いほど理解していた。
「異議はないな?」
「...ありません」
「去れ」
セルゲイは一礼して部屋を出た。廊下に出てから、彼は壁に寄りかかった。
冷や汗が背中を伝う。
自分の行動が、逆に彼女を危険に晒してしまった—その認識が、重い鉛のように胸に沈んでいく。
イヤピースから通常業務の連絡が入る。日常が続いていく。
しかし、もう何も同じではなかった。
窓の外では、また雨の気配が近づいていた。
今度は、どんな色に染まるのだろうか—セルゲイはぼんやりとそう考えていた。
そして、その夜、彼は人生で最も重要な決断を下すことになる。
それは、組織への裏切りであり、同時に、自分の心への誠実さでもあった。
第1幕: 出会い - Part 5 「決断の夜」
その夜、セルゲイは監視室のモニターを見つめていた。時計は午前2時を指している。
特別教育—その言葉が頭から離れなかった。彼は何度も目にしてきた。薬物と暴力で意思を破壊し、完璧な「商品」に仕立て上げていく過程を。そして、その過程を生き延びられない者もいた。
「イワノフ、巡回を頼む」
夜勤の上司が声をかける。
「了解しました」
階下に降りていく途中、従業員用の非常階段で人影を見つけた。
小さく震える背中。ナターシャだった。
「ソコロワ」
彼女が振り返る。化粧が崩れ、目は泣きはらしていた。
「イワノフさん...」
彼女は囁くように言った。
「明日から、特別教育が...」
言葉が途切れる。セルゲイは黙ったまま、彼女の横に立った。
「怖いんです」
ナターシャの声が震えている。
「あの...施設に連れて行かれた子たちが、どうなるか知っています」
セルゲイは窓の外を見た。また赤い雨が降り始めていた。
「私...死にたくありません」
その言葉が、セルゲイの中の何かを決定的に変えた。
「10分後、裏口に来い」
「え...?」
「逃がす」
ナターシャの目が大きく見開かれる。
「でも、組織が...」
「10分だ。それ以上は待てない」
セルゲイは素早く階段を降りていった。
監視室に戻り、セキュリティシステムの操作を始める。3年間の勤務で覚えた死角と、カメラの切り替えタイミング。全ては、この時のためにあったかのようだった。
ポケットの中の車のキーが冷たい。
裏口までの経路をもう一度頭の中で確認する。
9分後。
イヤピースを外し、床に落とす。
これで後戻りはできない。
裏口に向かう。心臓が早鐘を打っている。
扉を開けると、そこにナターシャが立っていた。
「行くぞ」
彼は彼女の手を取った。その手は冷たく、小さく、しかし確かな温もりを持っていた。
路地を抜け、待機させていた車まで走る。
エンジンをかける音が、今までで最も大きく感じられた。
「本当に...いいんですか?」
助手席のナターシャが不安そうに尋ねる。
「ああ」
セルゲイは前を見つめたまま答えた。
「もう、戻れない」
車は静かに発進した。
バックミラーに映るレッドスターの建物が、徐々に小さくなっていく。
赤い雨は、逃亡者たちの車を優しく包み込むように降り続けていた。
まるで、二人の決断を祝福するかのように。
これが物語の始まりだった。
そして、それは同時に、彼らの命運を決定づける瞬間でもあった。