不意打ちは危険ですわ
ぶつぶつ文句を言っていたアレンが渋々と引き上げて行った後、暫くして次の訪問者がやって来た。
案内されて部屋にやってきたのは、ぬぼぉ、と縦に大きな女性だった。
濃い緑色の髪は耳が隠れるくらいで切りそろえられ、後ろで括られている髪は長い。
そして、割と珍しい事に眼鏡をかけている。
眼鏡自体の普及率は悪くは無いものの、一般庶民が気軽に変える値段でもないので、
平民の中で眼鏡をかけている者は少ない。
殆どが商人、次いで学者、それなりに収入のある者である。
立っているだけで威圧感がすごいので、とりあえずディートリンデは椅子を勧めた。
「どうぞ、おかけになって」
「……どうも」
短くそれだけ言うと、ぺこり、と頭を下げてどさりと座る。
そして、背負っていた荷物を、足元にどさりと置いた。
この大荷物は一体……?
そして、女性は懐から紙をぺらりと出すと、机の上に置いてディートリンデの方へ滑らせた。
読めという事なのだろう、と察したディートリンデがその紙を取り上げて、視線を落とす。
名前は、アルベルティーナ、年齢は23歳。
聖シリウス学園も卒業しているし、習得した言語は、この世界の周辺国全てを網羅している。
更に古代語や地方語も習得しているのは珍しい。
「言語はいつ、学びましたの?」
「……大きな国の言語は、学園入学前に一通り覚えました」
この世界には大きな国は全部で7つある。
一番大きな大陸にあるのが、フォールハイト帝国、ガルディーニャ帝国、ルクスリア神聖国に
今一番気になっているアウァリティア王国だ。
別の大陸に、アルハサド首長連邦、イーラ連合国、グーラ共和国がある。
ここで普段使用している東帝国語は流暢だ。
「大きな国、と申されますと、イーラ連合国の言葉は共通語だけでなく7つとも学園入学前に
学ばれましたの?」
「……はい。仰るとおりです」
西帝国語も問題なく話せるようだ。
こちらが話しかけた言語できちんと返してくるので、言語以外は全く出来ないという訳ではなさそうで、
ディートリンデは安堵した。
「貴女からは何か質問がありまして?」
「今日から住んでも宜しいでしょうか?」
それは質問なのだろうか。
質問の体をしているが、大荷物を背負ってやって来て居つくのは押しかけ女房ではないだろうか。
だが、ディートリンデも急ぎなので問題はなかった。
「かまいませんことよ。では、授業も今日から始めますの?」
「はい。出来るだけ早く王国へ行く資金を貯めたいので」
そう。
先程の紙に書いてあったのだが、王国へ行く資金がどうしても欲しい。
貯まったら、後任は別に探して欲しい。
と書かれていたのだ。
理由は色々あるだろうけれど、興味はないので詮索はやめて、グレーテを呼んで彼女の案内を頼み、
ディートリンデは自室へと引き上げた。
トントン拍子に二人の得がたい家庭教師が見つかり、ディートリンデはのびのびと二人の技術を吸い取っていた。
アレンは未だに文句を言いたそうだし、言葉遣いも敬語ではないけれど、問題ない。
アルベルティーナは家庭教師をしている時間以外は、図書室に篭って恐ろしい速度で本を貪るように読んでいる。
らしい。
実際には、その間ディートリンデも他の授業を受けているので、小間使いから聞いた話だ。
数日もすると、ルクスリア神聖国に行っていた父と弟が帰宅した。
そして、珍しく、珍しいというか初めて、グレンツェンが部屋に尋ねてきたのだ。
「アルベルティーナ、今日はもう授業は結構ですわ。ありがとうございました」
「では、失礼致します」
変人、と言われていたものの、ディートリンデにとってアルベルティーナは特に変人という印象は無い。
口数が少なく、必要な事だけ話し、余計な事は言わないので、寧ろ好意的に見ている。
来訪が告げられて、部屋に入ってきた弟は、何だかバツの悪そうな雰囲気を漂わせている。
「姉上、こちらをどうぞ」
「ええ、ありがとう」
渡された紙束の拍子を捲り、さわり部分だけ読んだが、にやけそうになってディートリンデは慌てて閉じた。
そして、傍らにそっとおいて、グレンツェンを真っ直ぐに見る。
「いえ、これは後でいいわね。それで、何かわたくしに御用があるのかしら?」
グレンツェンは、父に良く似ている。
あと10年もすれば、父の黄金世代に似た美青年に育つだろう。
今はまだ全く何の食指も動かないが、10年後は垂涎の…本当に涎が垂れそうな美青年になるのだ。
そして、もう一人の弟、ヴェンツェルもその数年後にはやはり…
その頃には弟達の薄い本を作るのも視野にいれましょう。
と姉のディートリンデの酷い予定を知らずに、グレンツェンは目を逸らして頬を染めたまま
もぐもぐと何が言い淀んでいる。
美少年が好きな人から見れば、今が正に垂涎の的なのだろうけれど、ディートリンデの琴線には触れない。
可愛い弟の変化に、少し首を傾げた。
「どうしましたの?何か言いにくいお願いなのかしら?」
「あの……馬はいりません。その代わり……女性が、あの…姉上くらいの年齢の女性が好む物や、
手紙の書き方など…ご教授頂きたいと…」
ごめんなさいね、弟よ。
姉はこの年齢でもう腐っているのですよ。
参考にはなりません。
ですが、心を込めて一緒に考えて差し上げますからね。
真っ赤になって、口元を手の甲で隠すように、照れながら言う姿は可愛らしい。
もし黄金世代の父がこんな…こんな…破廉恥な!!!?!?
ぐおっふぉ、と盛大な音を立てて、ディートリンデは咽た。
だめだめだめだめだめだめ、脳内変換は危険ですわ。
「姉上!?大丈夫ですか?」
「…ごほ…こほん、いえ、大丈夫、少し肺に入った、だけ、ですわ」
昔見たアニメで確か、腐った森の胞子が肺に入ったヒロインが言う台詞と重なった。
まあ、わたくしは既に腐りきっているわけですが。
むしろ清浄なものが肺に入って、腐った者が苦しんでいる構図ですが。
弟に食指は動かないとか何とか?の後に、忌まわしい脳内変換で紅茶で溺死しそうになるとは。
「そう、あの…神聖国でフィロソフィ家の令嬢に会われたのですね。そして、好意を持った、と」
「そそ、そんな、…あ……ええと、とても可愛らしい女性で、それなのに芯は強く、毅然としていて…
笑顔もとても素敵で…」
思い出したのか、今度は目の辺りを右手で覆って、左手は所在無さげにわさわさと動かしている。
顔は勿論、真っ赤に染まっている。
もし……いや、だめ…ああああああああああああ
勝手に脳内変換しないでえええええええええええ
込み上げる何かを抑えるように、ディートリンデもまた口元を手で覆った。
可愛いかよ。
わたくしを殺りにきているのかしら?この弟!
「……あの、それで、お願いします」
ぐったりと机に両手をついて、グレンツェンが真っ赤な顔のまま頭を下げた。
下手かな?
お願い事下手すぎて、何かもう、いやあああああああ妄想が止らないのつらああああああ。
「分かりましたわ。とりあえず今日はもう遅いですから、わたくしも考えて置きます」
色々と考えておきます。
前もって妄想で埋めておかないと、不意打ちは大変危険だと分かりましたわ。
「はい、姉上、感謝します」
びしりと直立して、直角に腰を折って最敬礼の挨拶をしたグレンツェンは、額の汗を拭いながら部屋を後にする。
激しい妄想に晒されたディートリンデは、ことり、とソファーに横倒しに倒れた。
ちなみにすっかり忘れていたのだが、例の小箱の中身はハズレだった。
ディートリンデや弟達からの誕生日や祝祭を祝うカードが入っている、子煩悩父の宝物箱だったのだ。
いえ、そんな子煩悩にはみえませんが?
ラブレターでも入ってろよ!とは突っ込みをいれたものの、
不器用な両親の愛情の一端に触れて、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
どの世界であろうと、その当たり前に享受できる筈の親の愛は、当たり前ではないのだ。
物語の世界の外でも内でも、平気で子供を虐げる大人は存在する。
両親共にそういう人物でないという家庭の元に、生まれてこれたのは何よりも幸福なのだ。
裕福である事よりも、人に恵まれる方が、心が傷められずに育めるのが、どんなに幸せか。
まあ、それはそれとして。
妄想はしますけれど。