Episode.15
―――三年後
あの後も俺は、ずっと財政部で働いている。
この三年間、全く同じ業務を永遠と熟してきた。
結局、先輩を逃した事はバレていないらしい。
もしバレていれば、王政側が俺に何かしらの処罰を与える筈だ。
それが無いという事は、バレていないと考えて良いだろう。
――逆に何か工まれているのならば、怖い事この上無いが。
そして三年前。
先輩を逃した数週間後。
久しぶりにギニルと話した。
どうやらあの後先輩がグリリアさんの薬屋を尋ねたらしく、グリリアさんが先輩の生活援助をして下さるそうだ。
ありがたい。
感謝してもしきれない。
そしてそれをきっかけに、また俺とギニルの関係は良好になった。
俺が奴隷解放に加担する事は無くなったが、普通の友人として接するようになった。
抑も俺に訪問販売が回って来なくなったので、奴隷解放に加担しようにも出来ないのが正直な所だが。
そしてアンとも最近話すようにしている。
熱りが冷めたのか、週一回休日を貰っても、誰も何も言わなくなった。
だから、アンとの時間も過ごせる様になった。
初めの方は何をするにもぎこちなかったが、今となっては昔のように楽しく暮らしている。
アンも笑う様になった。
嬉しい限りだ。
そしてこの日もいつも通り業務を続けていた。
業務を続ける筈だった。
机に上に、一通の手紙が置かれていた。
この封筒。嫌な予感しかしない。
中を開けて見た。
[至急王室へ来る様に
ジャーナ・カルロスト]
予感が見事的中した。
今回は一体何なのだろうか。
俺は重い足取りで、王室へと向かった。
「其方に頼みたいことがあっての」
俺は国王のその言葉を聞いて少し驚いた。
あの国王が少し下手に出たのだ。
嫌な予感がしてならない。
「つい六年前。我が国の最東端にある集落に、ある子供が生まれたらしくての」
「…………それが何か……」
「その子が、浮遊魔法を行使しておる……と聞いてな」
浮遊魔法。
耳にした事はある。
まるで伽話の様な力だと嘲笑した覚えも。
そんな力を持った子供が、この国に。
「……私は何をすれば宜しいのでしょうか」
「まぁまぁ、急ぐでないわ」
やはり国王の様子が可笑しい。
「その子が未だ0歳の頃。浮遊魔法で父を殺し、母は浮遊魔法のせいでできた怪我から感染して、六年前から今までずっと床に伏しておるらしい」
「はぁ」
「余はその子が邪魔なのじゃ」
「……っ…………」
国王がそう言う理由は理解出来る。
浮遊魔法などと言う強大な力があれば、この国をひっくり返すことくらい容易に出来る。
つまり国王は、その力を怖がっているのだ。
自身の立場を失うのを。
自分の体裁が守れなくなる事を。
「だから其方には、その子の母を殺してきて欲しい。其方にその子供が殺せるとは思って居らぬ。ならば、其奴の母でも殺せば、嫌になってこの国から出ていくだろうよ」
…………何となく。
こう言った命令が下されることがあると予想はしていた。
人殺しの命令。
その子供も親も、ビルクダリオ。
国王にとってビルクダリオの命なんて、そんじょそこらの雑草と何ら変わりないのだ。
要らないものは摘み取り、利用出来るものはとことん利用する。
そしてその子供は、この男にとって邪魔なのだ。
だから俺に、それを摘み取らせようとしている。
全く。クソ上司だ。
それにしても、あまりにも杜撰な計画じゃないか?
母を殺したとして、その子供が国を発つと言う行動へ移す確実性が無い。
寧ろ、王政への恨みを募らせ、復讐心でも燃やすんじゃ無いだろうか。
お願いとして頼まれているから、断るのもありだろう。
もしその子供が王政へ攻め入ってきたら、俺も危ない。
だから断ろ……
「おっと、無理とは言わせないぞ」
突然、国王の様子が変わった。
「其方の住所はもう調べてある。それに、そこにあの奴隷が住んでいる事も。良いのか? 」
そうか。お願いなど、ハナからそんなつもりは無かったのだ。
「やるよな?」
「仰せのままに」
アンを守る為。
仕方無い。
自分が嫌いにならない様、必死に自分にそう言い聞かせた。
そして俺は、ギャリグローバよりも更に東にある、少し裕福なビルクダリオの住むスラムに来ていた。
此処に、命令された子供の住んでいる家がある。
…………気乗りしない。
そりゃそうだ。俺は今から、何の罪もない人を殺すのだ。
自分の大切なものを守る為に、関係のないものを壊すのだ。
俺は最低だ。
そう言われても仕方が無い。
…………何でこんな事になってしまったのだろうか。
国王からの情報によると、例の母は、感染してから一度も目を覚ましていないらしい。
浮遊魔法を持つ息子が毎日働き稼いで買った薬で、何とか延命できているそうだ。
……だから、その薬を盗めばその母は勝手に死ぬ、と。
国王はそう言っていた。
…………嫌だ。
人殺しなど。
でも、やらねばならない。
俺は扉をゆっくりと開いた。
例の子供と母の家である。
中は埃が舞い、尤も生活できる様な環境でない様に見える。
こんな所で、目覚めない母と一緒に息子は過ごすているのか。
…………俺は本当に申し訳ない事をする。
ゆっくりと進む。
すると、一つのベッドがあった。
そしてその上に、一人の女性が眠っている。
この人が、そのお母さんなのだろうか。
……美しい顔立ちだ。
それでいてとても優しそうな女性だ。
こんな女性に育てられた子供は、さぞ優等生に育つだろう。
…………現実から目を背けたくなる。
こんなにも綺麗な人を俺は殺すなんて。
でも、やるしか無い。
そうしないと、アンが…………
ベッドの横の棚を見ると、[お母さん]と書かれたラベルの貼っている薬瓶があった。
これが例の薬だろう。
母を延命させる薬。
そしてこれは、未だ六歳の少年が、毎日毎日汗水垂らして働いて買ったもの。
何だ。
俺はただの糞野朗じゃないか。
小さな少年の努力を無碍にし、その少年の唯一の希望である母さんを殺す。
最低だ。
最低だ。
俺はその薬瓶に手をかけ、持ち上げた。
そうだ。そのままそれを持って帰るだけで良いんだ。
それで良いんだ。
それで…………
「……貴族の方でしょうか」
突然背後から、優しい声が聞こえてきた。
「こんな状態で失礼します。本日は如何なるご用で」
掠れた声で、そう言った。
そう。床に伏せていた女性である。
女性の目が、俺の持っている薬瓶で止まった。
「それを……盗むのでしょうか?」
その言葉を聞いて、俺は目を逸らした。
此処で返事するなんて、俺はできない。
「…………持って行ってください」
だが、帰ってきたら言葉は思いにもよらぬものであった。
「何故…………?」
気付くと俺はそう言いながら、女性の目を見ていた。
「その様子。貴方にも何か事情があるのだとお察しします。その薬を盗んで、私を殺さないといけない程の事情が」
俺は胸を締め付けられた。
「すいません…………」
俺はそう口にした。
「いえ、別に良いのです」
「娘が……殺されるかもしれないのです」
「娘さんが…………」
「娘はビルクダリオで、奴隷として家にやって来たんですけど…………」
何とか、思っている言葉を紡いでみる。
「……私には、息子がいます」
俺が何て言おうか思案していた時、女性は言った。
「こんな、床に伏せた私の為に、寝る間を惜しんで、私の為に働いてくれています。私は、それがとても嬉しいのです。息子が、私の事を想っていると思えるから。息子が、私に元気になってほしいと想っているから。
でも、私はもう、息子にそんな負担をかけさせたく無いのです。もっと息子には、好きな事を思い切りして欲しいのです。息子の足枷となってまで生きたいと願う親が何処にいましょうか。少なくとも私は、私のせいで息子の人生を制限するのならば、死を選びます」
その目には、変わる事のない信念を宿していた。
「私からもお願いです。どうか私を殺して下さい。そうすれば、息子も自由に生きる事が出来ます。私も、息子の足枷にならずに済みます。だからどうか、お願いします」
そう言いながら女性は、深々と頭を下げた。
この人は、息子を愛しているのだ。
それこそ、自分が死んでも良いくらいに。
自分の命より、息子の幸せを何よりも望んでいる。
とても立派な人だ。
でも。
「でも、そんな事をしたら……息子さんは悲しむんじゃ…………」
「多分、悲しんでくれると思いますよ。でもどっちにしろ私は死ぬ運命なんです。それまで長い間息子を束縛するなら、さっさとその束縛から解放させた方が良いでしょう?」
自分のせいで息子は自由に生きられていない。
それからの解放は、自身が死ぬ他無い。
それしか無いと考えている。
…………だが、最も潔く、最も諦めさせる事が出来るのが、死なのだ。
「もっと他の方法は……」
「こっちの方が手っ取り早いでしょ?」
一応聞いて見たが、もう既に覚悟を決めているらしい。
嫌だなぁ。
嫌だなぁ。
「………………此処に置いて置きますね……」
そう言いながら俺は、ある薬を女性に渡した。
それを受け取り、彼女は優しく笑んだ。
「ありがとうございます」
泣きそうな声で、女性は言った。
それが、今から死にゆく恐怖なのか、息子を救える喜びなのか。
俺にはわからなかった。
「本当に…………すいません…………!」
俺はそれだけ叫び、薬瓶を持って、その場を去った。
―――――――――
女性は、ヒリーから貰った薬を手の上で転がし、水の入ったコップを隣に置いた。
「さようなら、エルダ。何も出来なくて、ごめんね」
女性は薬を口に入れ、コップの水でそれを喉の奥へと流し込むと、音も立てず、静かに、息を引き取った。