ラットパーク
――ねえ、欲しいの……
私は同じ動作を繰り返している。
もう手の感覚なんて、無い。脳が出す、力を入れて抜いて、入れて抜いて、また入れて抜いて……その指示の繰り返しだけを感じている。
心は、ただ一つの事に取りつかれたまま、動かない。
――欲しい欲しい欲しい欲しい。
始めはこうじゃなかった。
通された小さな部屋には、壁から突き出た小さな出っ張りと、ボウルがあった。ただ戸惑っていた私は、部屋を見回してじっとしていた。しばらくして怖い事は何も無いと分かると、私は試しにその出っ張りに触れてみた。
ガシャンッ
それはレバーになっていて、私の手の重みで下に沈んだ。するとボウルの中にコロンッと小さなお菓子が転がり込んだ。
私は周囲を見回し、警戒した。やっぱり何も起こらない。私はそっとボウルに手を入れ、素早くお菓子を掴むと、急いで身を引いた。手の中のお菓子は、良い匂いがして美味しそうだった。少し齧ってみる。甘さが口に広がり、おかしな味はしなかった。
私はお菓子を口に頬り込み、噛み砕いた。
――美味しい。もっと欲しい
私はもう一度レバーを押した。
ガシャンッ
お菓子は出てこない。
何かが違ったのかなと思い、私は試しにまたレバーを押してみた。コロンッとボウルにお菓子が入る。
――レバーを押せば、欲しいものがもらえる。
私は素早くお菓子を口に頬り込んだ。
――甘くて美味しい。
そう感じていると、自然と手が伸び、レバーを引き下げていた。またお菓子は出てこない。
ガシャンッ、ガシャンッ、ガシャンッ……カランッ
お菓子がボウルに落ちてくる。
――前より多くレバーを押さないといけないんだ。
私は理解した。その時、体の中でおかしな感じがした。気が緩むような、楽しくなるような感覚。新しい環境、まだよく分からない仕掛けに対する不安が薄らいだようだった。
――何だろう。お菓子のせい?
よく分からない事だらけだった。でも、気分はさっきよりも良くなっていた。
私は少し躊躇った後、またレバーを押していた。
何回も押しているとお菓子が出てくる。それとともに体の中で何かが起こる。よく分からないが、不快では無かった。それどころか妙に気持ちが安らぐ。この訳の分からない環境に置かれているのに、気持ちだけは居心地の良い慣れ親しんだ寝床にいるような感覚。
私はレバー押し続ける。不思議な事にお菓子は出てこない。それでも気分は良かった。
――お菓子が出ないなら、押す意味は無い?
幸せな気持ちになるお菓子は、もう出てこない。私はレバーから手を離した。辺りを見回し、部屋の隅っこに身を寄せてじっとしてみる。幸せな気持ちは幾分薄れたが、余韻はまだある。
いつの間にか、うとうとと眠ってしまっていたみたいだった。部屋の中は相変わらず、しんとして静かだ。気持ちの方は、寝る前にはあった幸せな高揚感が消え、部屋と同じくらい静かになっていた。
――いつになったら、出られる?
心は正直だ。冷静な頭は状況を探り始め、今の状態が不安だと騒ぎ始める。お腹も少し空いている。私はそっとレバーに近づき、何度か押してみた。
――あっ。
不思議な事が起こった。お菓子は出てきていない。だからお菓子を食べた訳ではないのに、不安が和らいだのだ。
――何だろう、この感覚。
この前にも感じていた。お菓子のせいだと思っていたけれど、違うようだ。私はレバーをじっと見つめた。
始めは、1回レバーを押せばお菓子が出てきた。
2回目は2回レバーを押さないとお菓子は出てこなくなった。3回目は4回。そうやって前より多くレバーを押さなくてはお菓子が出てこなくなった。
今はお菓子は出てこないけれど、レバーを押せば不安が和らぐ。
――よく分からないけど、不安なのは嫌だ。
私は無心にレバーを引き下げ始めた。
ガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャン……
引き下げれば引き下げるほど不安は薄れ、気持ちが浮き上がる。ただ引き下げれば良い。そうすれば考えなくても済む。私はレバーを押す事に集中した。
ガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャン……
回を重ね、時間が経過するごとに、欲しくなった。何かは分からない、でも気持ちを楽にする良いモノ。それが欲しい。
ガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャンガシャン
――どのくらい押せば良いの。まだ気持ちが楽になる感覚が無い。あとどのくらい押せば……あっ
きた。
私は夢中になっていた。何も考えないで、押し続ければ良い。そうすれば、楽になるんだから、そう思ってただレバーを下げる動作にだけ集中した。
どのくらい経っただろう。手はだいぶ前から悲鳴を上げていた。不安は一向に治まらない。でも、レバーを引き下げる事を止められなかった。
――なんで、楽にならないの。
イライラしながらも、がむしゃらに手に力を入れる。
背中も肩も腕も、痛くてたまらない。指先には感覚が無い。それでも止まらなかった。どんなにレバーを下げても気持ちは楽にならない。それどころか体中が痛い。
――欲しい欲しい欲しい。
頭の中はそれでいっぱいだった。
――欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……
気が遠くなるぐらい、体は痛みを訴えていた。限界だった。なのに頭はレバーを下げる事しか考えない、考えられない。心はただ一つの事を求めていた。
――欲しい。
私はレバーを押し続ける。