第5話 あなたはだれですか
妖魔は死んだ。
ようやく理解が追いついてきて、建明はその場に膝をついた。
自分でやったとはとても思えない。
ほとんど全て、力を貸してくれたその男の力のおかげだ。
自分の力不足が痛感させられる。
「嘆かわしいことだ」
先ほどの男の、沈痛そのものといった嘆きの声があたりに響いた。
「曲がりなりにも仙界で修行をした道士が、あの程度の劣弱な妖魔に手も足も出んとは。嗚呼、仙界の令名も廃れきったな」
建明は声の主を探し、周囲を見回した。
いた。
臙脂色のマントを羽織った壮年の男だ。長いひげを編み込んで垂らし、顔には多くの経験がしわとなって表れている。
一目見ただけで、その男が仙人として頂点にあることが建明にも分かった。
崑崙十二大師の長、元始天尊にも匹敵しようかというほどの膨大な気の凝縮。それでいて体を巡らせる気の運行には全く乱れるところがない。
男はゆったりと、しかし全く警戒した様子もなく、建明に歩み寄ってくる。
「沈黙しておらんで、何か言うことは」
「……助けていただき、感謝します」
建明は膝をついたまま頭を下げた。
「うむ。その感恩に免じて治してやろう」
男は懐から符を一枚出すと、建明に投げつけた。
符は建明の額に張り付き、そこから暖かい物が体中に流れた。
痛みが引いていく。
右手と右足の、妖魔によって貫かれた跡も、血が止まり、肉が盛り上がり、たちどころに治っていった。
全ての傷が塞がり、痛みもなくなったところで、建明は符を額から剥がした。
建明は、自分を助けてくれた男に対して深く腰を折り、自己紹介をした。
「改めて、助けていただき感謝いたします。私は静運山靂日洞にて道を学びましたが、先日ゆえあって洞府を放たれました。姜建明と申します」
「姜道士。人に仇なす妖魔を祓わんとするその志は良い。しかし足らないものが多すぎたな」
「返す言葉もありません。貴方様がいなければ、私は妖魔の腹の中に行っていたでしょう」
「で、あろうな」
「この恩を忘れぬ為に、お名前をお教えいただけますでしょうか」
いずれか名高い大仙人に違いない。
建明はそう考えていた。
「通天教主」
建明は息をのんだ。
通天教主。
仙界の頂点である元始天尊、太上老君に並ぶ大仙人だ。
殷と周の戦い、殷周革命において、元始天尊率いる闡教が周を助けたのに対し、通天教主は截教一派を率いて殷に与し、相争った。
いわば師匠達のかつての敵の領袖である。
殷が敗れ周が興ってからは、仙界から姿を消しているという。
もう1500年もの間姿を見た者はいないという話だ。
(騙りだろうか)
建明はそうも思ったが、誰かが誰かを騙るにしても、通天教主を騙るのは別格過ぎて得策とは思えない。
それに目の前のこの男は、気の量と質において並の仙人のレベルを超越していた。
「どうした、私を知らんか」
「いえ、存じております。長らく姿を隠されていると聞いていたもので」
「ああ。私が表に出たところでろくなことにはならんからな。かつてのように弟子を殺し尽くされるのが落ちよ」
通天教主はくく、と自嘲気味に笑った。
建明はコメントできない。建明もその『殺し尽くした側』である闡教に属していたのだ。
「通天教主様は、なぜ私を助けたのですか」
建明は疑問の核心を突いた。
「数日前の夜、この近くの山に強い妖仙の気を感じた。その後ずっと、千里眼でお前達を見続けていたのだ」
妖仙。
(玉蓉のことだろうか)
「あぁ、心配するな。私は妲己とは共に騎獣を並べた仲だ。妲己を追っているのは、闡教の連中だけだよ」
通天教主は建明の心を読んだかのようだ。
「お前、強くなりたいか」
通天教主が尋ねてきた。
「はい」
「強くしてやろうか?」
「……それは、弟子になれと言うことですか」
「そうではない。私の弟子になったものは皆死んだ。これからも死ぬだろう。きっかけを与えるだけだ」
「なぜ、そうしていただけるのですか」
「闡教を放逐された者が、仙道を究め名を上げたら、面白いだろう!」
通天教主は両手を広げた。
昏い執念を感じさせる壮絶な笑みを浮かべている。
「私のささやかな意趣返しだよ。さぁどうする姜道士。強くなるために毒を食らう覚悟はあるか?」
建明は深呼吸を一つして、心を落ち着かせた。
返答はもう決まっていた。
「皿ごと食わせていただけるのなら」
イエスだ。