第24話 どうしてですか
「ねぇ淑蘭、お願いがあるんだけどいいかな」
李仲達を警備に引き渡した後のことだ。
玉蓉の問いかけに淑蘭は自信を持って応えた。
「もちろんだ。剣士にとってこの手は命にも等しい。私は貴女のために何でもしよう」
淑蘭は玉蘭からの頼みが『逃げる』ものではないことを悟っていた。逃げることを考えている者の顔ではなかった。
そう悟っていながら、淑蘭は『何でも』を強調した。
『逃がして欲しい』と頼まれればそれを受け入れる心づもりだった。
「私はここで死んだことにしてくれないかな」
「なぜ?」
「逃げれば、追ってくる。捕まったら、取り返しに来る。さすがに、冥界までは追って来ないでしょう」
「そうかな?」
主語は建明だろう。
淑蘭が疑問を呈したのは取り返しに来る、の部分だ。そこまでの無法を行うような男には見えなかったと思っている。
「え、まさか冥界まで追ってきたらどうしよう!」
本気で心配を始めた玉蓉に、淑蘭は思わず笑ってしまった。
「そっちか!」
「ふふ、もちろん。彼、意外と向こう見ずなんだよ」
「そうなのか。わかった。我が名にかけて任されよう。冥界まで追わせるわけにはいかないからな」
景色が戻った時、建明の目の前に泰山の巨大な山体がそびえ立っていた。
「泰山!」
驚く建明に、惠は得意げに鼻を鳴らした。
「へへ。速いでしょう」
惠は空中をぴょんぴょんと跳ねている。
「玉蓉の匂いが、ほんのちょっとですが漂ってます。漏れて流れ出てきたって感じです」
「仙境の中からだろう。どこから流れてきてるかは分かるか?」
泰山の仙境への入り口、門はそこにあるはずだ。
仙境は互いに繋がってはいない。遠く離れた仙境は全く別の空間であるため、一度下界を通って目的の仙境に入り直さなければならない。。
仙境は、出るのはたやすいが入るのは困難な場所だ。裏口の入り方を知っていれば門からでなくても入れるが、知らない者は門からしか入れない。
建明はもちろん泰山の裏口など知らないから、門から入るしかない。
「もちろん」
惠は空中を走った。
魂を削る術の反動で体がだるい。
着地して建明を降ろすやいなや、惠は四肢を投げ出してぺたんと倒れこんだ。
「もう走れませんー」
「大丈夫か?」
「大丈夫です。疲れただけですから」
「そうか。すまないけど、惠はここで休んでいてくれ」
建明は惠をその場に残して山へと向かった。
惠はまぶたが落ちそうになるのをこらえながら、その背中を見つめた。建明はすぐに林の中に消えて、見えなくなった。
「もう。私のばか……」
惠は一言そう呟いて寝た。
匂いの話なんてしない方がよかったのに、と思いながら。
泰山の仙境への門は、静運山のものとは違う、堂々としたものだった。
建明は覚悟を決めて門をくぐり、泰山の仙境に足を踏み入れた。
視界が一変する。
下界の泰山も偉容があったが、仙境の泰山は、神々しさすら帯びていた。大きい。天を衝くほどにそびえ立ち、裾野はごつごつとした盛り上がりを見せながら、広く広がっている。
その山頂には冥界の王泰山府君の住まいがあるはずだった。
「……やはり来たか」
仙境に入った先で、建明を待っている者がいた。
「淑蘭殿か」
淑蘭が1人でそこに立っていた。
「来るかもしれないと思ってはいた。しかしまさか、本当に冥界まで追ってくるとはな」
「ありがとう、おかげで確信した」
「ほう、何を確信した?」
「玉蓉はここにいる。そして、まだ死んではいない」
淑蘭は賞賛の意を込めて笑顔を作った。
「正解だ。だがどうか、ここで引き返してはもらえないか?」
「断る、と言ったら?」
建明は淑蘭の武装を窺った。
手にも腰にも剣はない。
淑蘭は戦う意思など全くないかのように、無警戒に立っていた。
「私には戦うつもりはない。私が戦いたいのは明後日の決勝戦でのことであって、今ではないからだ。だが、我が師父たちはそうではない」
「それでも、だ」
「師父達は決して妲己の娘を許さない。それに与する者も。もう一度言う、引き返してくれ。この先にいるのは我が師、清虚道徳真君。それだけではない、元始天尊様と十二大師全員が今この泰山に集まっている。
たとえ通天教主でも、この泰山から玉蓉を救い出すのは不可能だ」
「それを聞いて、今更俺が躊躇うとでも?」
「いや、躊躇うまい。躊躇うようならそもそもここには来ていまい。
だから私がここにいる。
命の恩を返すためにだ。
”麗剣天花” 荆淑蘭がこの名にかけて約束したのだ。己玉蓉は今日あの場所で死んだと!
お前を巻き込まないことが玉蓉の最期の願い! だから、ここで引き返してくれ!!」
建明は、淑蘭が嘘をついた理由を今理解した。
「そうか」
「頼む……」
「それでも、断る」
建明は足を踏み出した。
「なぜだ!」
今にも泣き出しそうな顔で、淑蘭が叫ぶ。
建明は歩みを進め淑蘭のすぐ目の前に立った。
「俺は約束した。もう一度、俺が1から育てた作物で作った、最高に美味い飯を食わせると。
巻き込ませないのがあいつの願いなら、巻き込まれるのが俺の願い!」
「仙界全てを敵に回して、どこで生きていこうというのだ!」
「東西南北四方の果て、仙界の手が届かぬところが必ずある!」
淑蘭は黙った。
黙ったまま立っていた。
建明はその左右のどちらからでも突破できる。
しかし建明は淑蘭の正面に立ち続け、静かに頼んだ。
「恩を感じてあいつの幸せを思うなら、通してくれ」
意思の均衡は長続きしなかった。
淑蘭の肩が落ちた。
無言で脇に寄る。
「ありがとう」
建明は一言言い残して、山へと駆けていった。




