第2話 追っかけってなんですか
建明は、目の前の門を仰ぎ見た。
紙の符が貼られた大きな二本の柱の間に、簡素な木の扉が両開きに開けっぱなしで固定されている。
異空間である仙界は、下界である人間界とは隔絶された時空である。
下界と仙界をつなぐ唯一の出入り口、それが『門』だ。下界にも対応する門があり、仙術の力でつながりが維持されている。
見送りはない。
兄弟子たちが見送ってくれるはずもないし、玉蓉には何も言わずに出てきたからだ。
建明が長年過ごした山だけが、西日を受けて、離別の挨拶をするかのようにキラキラ輝いている。
(意外ときれいな山だったんだな)
常に山腹にいたからわからなかったが、傾斜の緩急や、所々に見える建物の風情が心に染み入るようだった。
建明は最後にその光景を目に焼き付けて、未練を断ち切るように体を翻すと、勢いよく門をくぐった。
建明は下界の風景というものを初めて見る。
建明には下界で過ごした記憶がない。
ただの人間だから生まれは下界のはずだが、物心つく前に師匠に拾われているから、下どういったところで生まれたのか、全く分からない。
これまではそれで構わないと思っていた。
ずっと仙界で生きていくのだと思っていた。
だから、門から下界に出たことは一度もなかった。これは兄弟子たちも同様だし、ほとんどの道士や仙人がそうだ。
建明が生まれるよりずっと昔、殷と周という国が争った際、仙界は大いに下界に関与した。
関与しすぎた。
下界が殷と周に分かれるのと同じく、仙界も二つの派閥に分かれてそれぞれの国を支援し争い、多くの仙人、道士が命を落とした。
その教訓から、現在仙界は下界の国に関して不介入を鉄則とし、下界と距離を取っている。
下界は、生えている草木の種類からして仙界とは違っていた。
仙界からの門は、林の中にぽつんと立っていた。門と行っても、下界側は門の枠のボロボロの柱だけが立っているような状態である。
これが仙界への入り口だとは、知っていなければ夢にも思わないだろう。
周囲の草木はどれも見たことのないものばかりだ。
人影も、動物の影もない。
(これは、まずい)
何がまずいかというと、周りに生えている草木のどれが食べられるもので、どれが毒のあるものか、全く分からないからだ。
(持ってきた食料がなくなる前に人里にたどり着かないとな)
建明はそう思い定めて、近くの木の根元に背嚢を下ろした。
まもなく日が暮れる。
林の中は既に暗くなりはじめていた。
今日はここで一夜を明かすつもりだった。
仙界の門には人よけ、獣よけの術がかかっているから安全は確保されている。
建明は周囲をぐるっと歩いて、地面に落ちている太い枝を集めた。
火をつける薪にするのだ。
それを山の形に積み上げ、懐から小さな竹の札を取り出した。
表面には墨で文字と図からなる符印が書かれている。
発火符。
初歩中の初歩の符術で、建明が作り使うことのできる数少ない符術の一つだ。
建明はこういった『ちょっと便利』といった程度の符術しか使うことができない。
建明がその符に気を通すと、符に火がつき、燃え始めた。
燃えている符を積み上げた薪の中にさしいれると、すぐに薪に火がつき始め、パチパチと気持ちのいい音が鳴った。
火が大きくなるまでの間に、建明は背嚢から桃を取り出し、皮ごとかじった。
じゅわ、と果汁が口の中に吹き出した。
こんなときでも仙界の桃はちゃんと美味い。建明が大切に育てた桃だ。
建明は桃を食べ、火を眺めながら、この先のことをぼんやりと思案した。
「まずは人里を見つけるとして、その先だよな……」
建明が持って出てきたものは、10日分の食料と、何着かの着替え、自分で作ったいくつかの符だけだ。私物と言えるものは元々服くらいしか持っていなかったのである。
「下界がどうなっているのかも分からないし」
仙界が不関与を貫いているため、下界について入ってくる情報も少ない。
建明が知っているのは、現在下界を統治している国が『唐』という国であるということだけ。
「まぁここはひとまず、隔世の道士のふりして俺でも作れる簡単な符を売っていくとしようか。なんとかなるだろう」
いくつか符術をやってみせれば、道士だということは信じてもらえるはず。
あとは世間から離れていたせいで何も分からないというていでいけば、きっと乗り切れる。
そう上手くいくだろうか、という不安もあったが、それでやるしかないのだ。ほかに手を知らない。
「よし決まり。まずは生きることだ。それ以上のことはその後考えよう」
建明はもう一つ桃を食べたあと、その場に寝っ転がり、火で暖を取りながら眠りについた。
翌日、朝早く目を覚ますと、建明は斜面を上に向かって歩き始めた。
まずは高いところに出て、人里か、せめて人が通る道を見つけようと考えてのことだ。
昼ごろには小さい山ながら山頂にたどり着くことができた。
山頂の木に登り、周囲をぐるりと見回してみると、南の方に集落のものらしい煙が上がっているのが見えた。
「第1目的地発見だな!」
建明はそう叫んで、木から下り、集落に向けて歩き始めた。
見つけた集落までは2日もあれば着くだろう。
幸先の良いスタートに思え、建明の足取りは軽かった。
その日の晩も野宿である。
符を配置して獣よけの結界をはり、火をおこした。
「さて、今夜は何を食べようか」
背嚢をあさっていると、建明の第6感が働いた。
何かが来る。
何か大きな気を纏った存在がものすごいスピードで迫ってくる。
獣の速度ではない。
獣よりもっと早い。
(何だ? 妖魔か?)
建明は身構えた。
そこにそいつは飛び込んできた。
金色の獣。
いや、人。
「けんめーい!!」
そいつは、突っ込んでくる勢いもそのままに建明にぶちあたり、建明を押し倒した。
「そ、その声は」
よく知っている声。
玉蓉だ。
だが黒かったはずの髪は金色に染まっていて、頭にはあるはずのない獣の耳が生えている。視界の上の端ではふわふわの尻尾が9本、ふわっさあと広がって揺れていた。
「……玉蓉なのか?」
「そうだよ」
その顔はまさに良く見知った玉蓉の顔だ。
ただ、黒かったはずの目も金色になっているが。
「……聞きたいことはたくさんあるんだけど、まず離れてもらえるか?」
「うん」
玉蓉は建明から離れ、近くの地面に座り込んだ。
建明も体を起こし、玉蓉の前に腰を下ろした。
「まず最初に、その姿は何?」
耳と尻尾は狐のもののように見える。
「めっちゃ詳しくか、さらりとか、どっちの説明がいい?」
「さらりと頼む」
「うん。私ね、実は狐狸精なの」
狐狸精。何百年と生きた狐が仙術を身につけたもの。妖仙の類いだ。妖狐とか、狐仙とも呼ばれる。
なるほど耳と尻尾があるわけだ。
元は獣なんだから当たり前だ。
妖仙はさらに年を重ねれば尻尾も耳も消すことができるようになるそうが、きっとその前の段階なのだ。
「その髪の色は? 玉蓉は黒髪だったろ?」
「だって、仙界には妲己アレルギーがあるじゃない?」
殷王朝最後の王、紂王をたぶらかしたとされる九尾の妖狐の名を妲己といった。
その毛並みも絶世の美女と言うにふさわしい金色のものだったという。
仙人達は多くの犠牲を払いながらも妲己を殺すことができたが、その後、『妲己は死ぬ前に自身の分身を残した』などという噂がどこからともなく流れていた。
そのおかげで古い仙人たちは金色の妖狐を見ると目の色を変え追い回し、捕らえ些細な罪だろうが咎めて処刑する始末だ。
それが妲己と同じ金毛九尾の狐となれば間違いなく大騒ぎになるだろう。
「なるほど、それで金髪と、妖狐であることと、両方を隠してたってことか」
「そう。こうやってね」
玉蓉が細いリボンを取り出し、自分の首に当てると、リボンはひとりでに玉蓉の首に巻き付き、蝶結びを作った。
同時に、玉蓉の耳と尻尾が消え、髪色も黒く戻った。
「宝貝『封妖索』。養父様が作ってくれたの」
「へぇ」
建明はさすが師匠だと感心した。
「本当は、決して外しちゃいけないって言われてたんだけど、外さないと建明の匂いを追えなかったから……」
玉蓉は少し小さくなって、眉を寄せ不安そうな表情をした。
(俺に怒られるとでも思ってるんだろうか)
古い世代の仙人ならともかく、建明にとって妲己とは昔話の中の存在だ。
だから何、位の感覚しかない。
「どうしてわざわざ?」
建明が訪ねると、玉蓉は急にしゃきっとして胸を張った。
なお余談だが、胸を張ったところでないものはない。
「建明。私は怒っているの」
「はぁ……」
なににだろうか。
いぶかしんでいると、玉蓉はどこからともなく人の頭くらいの大きさの木の実を取りだして建明に突きつけてきた。
羊肉果の実だ。
「昨日の晩ご飯に厚切りレアで出してくれる約束、破ったでしょ!」
「……ごめん」
兄弟子でも焼けるじゃん。と言う言葉はぎりぎり飲み込んだ。
「今日の晩ご飯で許してあげる」
「わかったよ」
建明は玉蓉から羊肉果の実を受け取った。
背嚢から包丁を出し、皮をむいていく。
「ねぇ、建明」
玉蓉が改まって聞いてきた。
「何?」
「静運山には戻らないの?」
「戻らないよ」
追い出されたのだから。
「わかった。じゃあ私も出る」
「え、なんで?」
建明が問うと、玉蓉は斜め下を向いた。
「昊天は好きじゃない」
(ははぁ。張兄さんと結婚するのがいやで飛び出してきたのか)
建明は理解した。
玉蓉の言葉にはさらに続きがあった。
「でも、建明は好き。ねぇ、一緒に行ってもいいでしょう?」
不覚にもドキッとした。
動揺してしまった以上、建明にこのお願いを断ることはもはやできそうになかった。




