第1話 出て行けってなんですか
姜建明は、道士である。
道士というのは、仙人を目指して修行する者のことだ。建明は、俗世間から隔絶された異界である仙境において、仙人を目指して修行の日々を送っていた。
師匠の名は霹天士。
師匠は、崑崙十二大師の1人玉鼎真人から修行を受け、老いと寿命からの解放、すなわち不老不死を得て、300年前からこの静運山で弟子を取っていた。
いまや過去形の話だ。
10日前、師匠は死んだ。
しかし建明は今日も菜園で野菜や薬草などの世話をしている。
それが建明の仕事だった。
今では朝から晩までほとんどの時間を菜園で過ごしている。誰に言いつけられたわけでもない。好きでやっていたら、建明しかやらなくなったのだ。
「道士じゃなくて農士だな」
と兄弟子達に揶揄されても、建明は気にしていなかった。
建明は、自分には仙人になる見込みがないと思っていた。
仙境に連れてこられるくらいには才能があったようだが、30年修行してようやく不老に至った程度である。
たいていの道士は10年もあれば不老となるのに、だ。
この調子では寿命が来る前に不死に至れるかどうか、甚だ怪しい。
仙境では体の成長は遅れる。不老を得るまでの30年もの時間にもかかわらず、建明の肉体はいまだ15才程度の青年の若々しさを保っていた。
「けーんめーい!」
丈の低い薬の葉を一枚一枚診ていると、建明を呼びながら走り寄ってくる足音が聞こえた。
建明は手を止めて、その人物の方を見た。
ボブカットの黒髪が走りのリズムに合わせて波打って跳ねている。見た目の年頃は建明とほとんど変わらないが、実際はかなりの年月を生きているはずだ。
「おはよう、玉蓉」
建明は、師匠の養女であるその女の子、玉蓉に挨拶した。
彼女は道士ではない。師匠霹天士の養女だ。
建明がここに来るよりずっと前、兄弟子たちの誰よりも前から、この洞府にいるという。
建明には仙界の女子に実際の年齢を聞く勇気は無い。
仙界には見た目は10才だが実際は3000才、とかいうロリババアも数多くいるから、仙女に年齢を聞くのは猛毒を飲むくらいの勇気がいる。それは勇気より蛮勇に属するだろう。
実年齢的には玉蓉の方が建明より『姉』のはずだが、明るい言動や平らな体型がそうさせるのか、建明は玉蓉を『妹』のように思っていた。
「おはよう、建明。みんなの調子はどう?」
玉蓉は建明の横に並ぶと、建明が今見ていた薬草たちをくるっと見回した。
「よく育ってるよ。玉蓉の好きな羊肉果の実がいい感じだから、晩ご飯に出せると思うよ」
羊肉果。
その名の通り羊肉のような味と食感の果実をつける木だ。
建明たちの属する『闡教』という一派では、道士や仙人は肉類を食べてはいけないことになっている。
食べて良いのは草木から得られる物だけだ。
しかし肉は美味い。
そこで木遁を得意としたある仙人が、長年の研究の末に肉の味がする果実を作り上げてしまった。800年ほど前のことらしい。
以来、肉果は仙界で大ブームの食材となった。
羊肉、牛肉、豚肉、鶏肉、様々な種類の肉果が仙界のあちこちで育てられている。
「やったぁ!」
玉蓉は飛び跳ねて、羊肉果のところまで走っていくと、枝にぶら下がっている人の頭くらいの大きさの果実を一つずつ調べ始めた。
「これ?」
玉蓉がその中の一つを指さした。
「正解」
まさに今食べ頃の身だ。
「うふふ、楽しみー」
玉蓉は実を眺めてよだれを垂らしている。
「私のは厚切りレアでよろしくね」
「心得ております、お嬢様」
「楽しみにしておりますわ、建明料理長」
建明と玉蓉は『お嬢様と使用人』ごっこで会話を遊ばせた。
「それで、玉蓉。何しに来たの?」
「あぁ、うん。行堂で昊天が呼んでるよ」
張昊天。一番上の兄弟子だ。
「張兄さんが?」
建明が疑問を呈したのは、呼ばれたことについてではなく、建明を呼ぶのに玉蓉を使ったことについてだ。
昊天は一番弟子であるが、玉蓉は師匠の娘である。
師匠が亡くなった今、この山で一番格が高いのは玉蓉のはずである。人を呼びに使っていい相手ではない。
昊天は早くも師匠の跡を継いだつもりでいるのかもしれない。
「そうだよ。大事な話があるってさ」
当の玉蓉はそうしたことを全く気にしていない様子だった。
そういう気楽な性格である。
「分かった。ありがとう」
建明は玉蓉と別れ、行堂に向かった。
(今更何の用だろうか)
師匠の死後の一切は兄弟子達が仕切っていた。
建明には全く関与させようとしてこなかった。
建明の方でも積極的に関わろうとはしなかったのもあるが、建明は兄弟子たちの行動に不審を感じていた。
師匠の死に関する疑念である。
不老不死を得た仙人が自然死することはない。
自殺か他殺しかありえないのだ。
兄弟子達が言うには、自殺であるようだということだが。
(果たして本当だろうか)
具体的な根拠など何もない。
勘だ。
(まぁいいさ。菜園にさえ携わらせてくれればね)
師匠が死んだ以上、兄弟子たちが洞府を仕切っていくだろう。興味ないことに首を突っ込んで逆らって、立場を危うくすることはない。
行堂は10人程度入れば一杯の小さな小屋だ。
まれに師匠が座学講座を行う際に使用していたものだ。
行堂の中では、昊天が1人立って建明を待っていた。
「兄さん、お呼びですか」
建明は威儀を正し、行堂の中に入った。
「忙しいところ済まないな、建明」
「いえ、大丈夫です。どのようなご用件でしょうか」
「あぁ。いまの当山の状況について改めて説明するまでもないと思うが、我々はこれからのことを考えなければならない時に来ている」
何やらもったいをつけた話の入り方だ。
「兄さんが山を継がれるのでは?」
順当に行けばそうなると思われた。
昊天もまだ不死を達成していない修行中の身だが、誰かきちんとした仙人の後見を得て師匠の跡を継ぐ。
そうなるらしいと言うことを、建明はこの数日やんわりと噂で聞いている。
「まだ未熟な身だが、皆が散り散りになるよりは、その方が良いと俺も思っている」
昊天がゆっくりと頷いて見せた。
本当は昊天自身が一番積極的にそうなるようにしているのだが、ここは謙遜して見せている、といった感じだ。
「この山は師匠が開いたもの。俺が継ぐに当たっては、俺が師匠の養女である玉蓉と結婚するのが形というものだろうと思う」
「はぁ」
建明は生返事をした。
建明は玉蓉と仲良くはしているが、恋愛感情を持っているわけではない。物心ついた時にはもうそこにいた、家族、妹みたいなものだ。
(なぜそんな話をわざわざ俺にするのか)
という気持ちしか沸き起こらなかった。
「それで、建明」
昊天が真面目な表情を作ってきた。
本題だ。
「なんでしょう、兄さん」
「本当は、共に修行してきた同門の者にこのようなことを言うのはとても辛いんだが……」
「はぁ」
建明は言い訳のための枕詞を軽く流した。だが、昊天が次に言う言葉は建明を驚かせるのに十分だった。
「お前をこの山から追放する。日没までに荷物をまとめて下山しろ」
建明はしばらく呆然とした。
全く予想外の宣告だったのだ。
「な、なぜですか!?」
「お前が仙道を極める見込みがないからだ」
これには自覚があるだけに建明は言葉に詰まった。
「お前が修行を始めてもう50年にもなるのに、できることと言えば菜園で草木を育てることだけ。いまや一日中菜園にいて、全くと言っていいほど修行の進展がない。師匠は情けでお前をここに置き続けてきたが、この先はそういうわけにもいかないのだ」
「こ、困ります!」
建明はほかの道士達と同じように、物心つく前に師匠に拾われ下界から仙界にきた。
下界のことはほとんど知らない。
突然山を追い出されてもどうやって生きていけばいいのか当てもないのだ。
「食料についてはいくらか持っていくことは許す。ただし薬やそのほかの道具類は一切だめだ」
昊天は淡々と条件を告げてくる。
「兄さん、おねがいします。俺をここに置いていてください」
建明はその場に膝をついて昊天に頼んだ。
だが昊天の表情は全く変わらない。
「建明、お前も道士の端くれなら現実を受け入れろ。俺に弟弟子だった者を力尽くで山から追い出すなんていう無様な真似をさせないでくれ」
昊天には結論を変える気が無い。
それでも建明は膝をついたまま動こうとしなかった。
動くことができなかった。
「いいか。たしかに伝えたからな」
昊天がそう言い残して行堂から出て行っても、建明はしばらくそのままだった。